奥様に知らすべからず(昭和12年)

渋谷実監督のデビュー作で、恐妻家の二人を主人公にしたコメディです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、渋谷実監督の『奥様に知らすべからず』です。昭和5年に松竹に入社した渋谷実は、成瀬巳喜男や五所平之助に師事し、小津安二郎の『淑女は何を忘れたか』で助監督をつとめた後、本作で監督に昇格しました。そのせいか小津の『淑女は何を忘れたか』と同様に恐妻家の男性を主人公にして、ちょっとエスプリのきいたコメディになっています。

【ご覧になる前に】日中戦争が始まる直前の平和なブルジョア家庭が舞台です

横山家の夫人ふみ子は今日もダイエット体操の真っ最中ですが、逆に体重が2kgも増えてしまったため、お手伝いのお初に当たり散らかす始末です。それを見ていた横山は早々に社交の場となっている倶楽部へと逃げ出して、いかに世の中の妻たちが暴君であるかを力説します。その話を聞いていた川田という男が横山を褒めたたえますが、川田は細君のみつ子に呼び出されて倶楽部を出ていくのでした…。

本作が作られたのは昭和12年。松竹で5月に公開された2ヶ月後の7月、中国の北京郊外で武力衝突が起こります。それが「盧溝橋事件」で、日本陸軍の支那駐屯軍による軍事演習中に中国兵からの発砲があったとされたことをきっかけに両軍の小競り合いが勃発、やがて日中両軍の全面衝突に発展した事件です。この盧溝橋事件が日中戦争の始まりとなって、日本軍は中国と泥沼の戦いに入ることになり、結果的に太平洋戦争への道を歩むことになるのです。そのような日本現代史上の大事件が発生する直前に、国内では本作のようなブルジョア家庭を舞台にしたコメディ映画がのんびりと公開されていたのでした。この事件のさらに前の満州事変は昭和6年のことですから、日本陸軍による中国への侵略は国内の人々の日常生活にはほとんど影響を与えていなかったと思ってよいのかもしれませんね。

渋谷実監督は本作以降、松竹がお得意とするホームドラマで活躍していきますが、あまりこれといった代表作がなく、たぶんキネマ旬報ベストテンでも上位に入った作品はないのではないでしょうか。しかしながら、戦後は小津や木下恵介の作品と同じくらいの観客動員を獲得していたようですので、松竹監督会の中でも中軸ではあったのでしょう。渋谷実のもとで助監督として働いた人たちの中では、井上和男や川島雄三が監督に昇格しています。

松竹が撮影所を蒲田から大船に移転させたのは本作公開の前年(昭和11年)ですので、本作も真新しい大船撮影所で作られたと思われます。タイトルに「土橋式松竹フォーン」と出てきますが、日本初のトーキーは松竹の音響技師だった土橋武夫・晴夫兄弟によって昭和6年に開発されました。フィルムの端にサウンドトラックを記録していく方式で、本作は昔の映画にしては音がそこそこはっきりと録音されているように感じます。また本作の音楽を担当しているのは堀内敬三。浅田飴のオーナー家に生まれた堀内は、大正期に渡米しマサチューセッツ工科大学に学んだ秀才で、帰国後に作詞作曲した慶應義塾の応援歌「若き血」がヒットして音楽の道に入りました。様々な役職を次々に歴任する中で、昭和10年から三年間だけ松竹で音楽部長の職についていまして、その在任期にたまたま本作の映画音楽を担当することになったようです。

男優陣は小津作品でおなじみの斎藤達雄と坂本武。小津映画では斎藤達雄が都会的サラリーマンで、坂本武は「喜八もの」に代表されるような下町の町人といった役どころで使われていましたが、本作では二人とも社会的地位のある優雅で会社役員的なブルジョア階級の男性を演じています。対する女優陣は横山夫人に岡村文子、川田夫人に吉川満子と、これも松竹の常連の人たち。吉川満子は演技派なので顔と名前がすぐに一致するのですが、岡村文子は顔や体形はすぐに思い浮かぶものの、いつも画面に出てくるたびに「なんて名前の女優だっけなー」となかなか名前が思い出せないタイプの一人でした。でも本作ではぴったりの適役で、きっとすぐに名前も覚えられることでしょう。『安城家の舞踏會』で華やかなりし頃の華族のパーティを懐かしむ伯母様役や田中絹代の初監督作品『恋文』で久我美子が勤めるレストランの女主人役などで見たときより、はるかに記憶に残りますね。

【ご覧になった後で】昭和12年なのにほぼ洋風なライフスタイルが意外でした

昭和12年というだけで、暗い世相と貧しい暮らしをイメージしてしまいますが、本作を見るとそれが大きな勘違いであることがはっきりしますね。主人公たちはそんなにあくせくと働いていないのに結構レベルの高い暮らしをしていますし、その生活様式も成金っぽくなくて、教養もあり趣味が良い感じの知識人風に思えます。松竹があえてやや憧れを感じさせる洋風なライフスタイルの設定にしていたのかもしれませんが、実際にもこの映画のような富裕層が一定数存在していたんでしょうね。考えてみれば小津の『淑女は何を忘れたか』も本作と同じような階層の人たちのお話でしたし。

しかしながら恐妻家が妻の顔を立てるために喧嘩をせざるを得なくなり、でも喧嘩したくないので代理を雇うという筋立てはなかなか面白いシチュエーションコメディでありました。たぶんこれは原作のアイディアそのものなんでしょうね。作者はリチャード・コネルという人で、1932年にアメリカでヒットを飛ばしたという『猟奇島』やリチャード・ウィドマークが主演した『太陽に向って走れ』など何本かの作品が映画化されているようです。原作の設定をそのままもってきているんだろうなと思わされるのは、斎藤達雄がペットにしているオウムを「食べちゃうぞ」といいながら本当に丸焼きにして食べてしまうところ。普通の感覚だとオウムを鶏肉として認識することはないので、これは肉食が主食のアメリカ人の発想に間違いありません。でも、グラスの水を入れ替える繰り返し作業が、ラストにビールに変わるところなんかが少し洒落ていて、センスの良さが出ていました。

笑ってしまうのが「高いほう」の拳闘家を若き日の笠智衆がやっていたこと。クレジットでは役名が「ヂョーヂ」になっていてそれも笑えるのですが、結果的にこの拳闘家と柔道家がともに丸儲けしているところがブルジョア階級への隠れた皮肉になっていたようにも感じられます。でもわざわざ殴られて痣まで作らないと信じてもらえないというのもどうなんでしょう。そういう意味では本作はやっぱり意識下にある男性中心主義に基づいて作られていて、自分の思い通りにならない妻という存在をひそかにバカにする、という映画でもあります。まあそんなことを言ったって、それが面白いから困っちゃうんですけどね。(Y011922)

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