濡れ髪牡丹(昭和36年)

市川雷蔵主演の「濡れ髪シリーズ」第五作は女親分役の京マチ子との共演です

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こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、田中徳三監督の『濡れ髪牡丹』です。市川雷蔵は多くのシリーズものに主演していますが、本作は昭和33年に始まった「濡れ髪シリーズ」の五作目で最終作でもあります。市川雷蔵が身分や腕前を隠しながら修行したり旅に出たりというコメディタッチの時代劇連作で、この『濡れ髪牡丹』では雷蔵がなんでもこなす万能な股旅姿の侍に扮していて、町一番の大親分京マチ子の婿候補になるという設定です。大映京都撮影所の熟練スタッフたちが作る時代劇のひとつなのですが、抜群に面白く出来上がっていて、完成度が際立つ一篇となっています。

【ご覧になる前に】口八丁手八丁の瓢太郎を雷蔵が愉し気に演じています

静岡の清見潟を仕切る大親分おもん一家には今日も婿志願の旅がらすが門前に放り出されています。三千人の子分をもつ女丈夫のおもんは弟の岩吉にはやくざ稼業を継がせたくありません。そこで剣術や柔術だけでなく算術にいたるまでの試験を通過し、おもんとの対決を制した者を婿に迎えることにしたのですが、厳しい試験によって全員が鞭打ちの罰を受けて退散していたのでした。そこへふらりとやってきたのが口八丁手八丁なので八八の瓢太郎と名乗る股旅姿の侍。瓢太郎はおもんの手下の相撲取りを投げ飛ばし、二台の算盤で入金出金を同時にはじき出し、剣術師範を打ち負かしてしまいます。ところが最終試験の一本勝負で瓢太郎はおもんに負けてしまい、おもんはひそかににょろ松に旅立った瓢太郎の後を追うよう命ずるのでした…。

市川雷蔵は大映の屋台骨を支える大スターでしたので、昭和30年代には多くのシリーズものに主演していました。「大菩薩峠」「眠狂四郎」「陸軍中野学校」「忍びの者」などなど。そんな中で最も早い時期にシリーズ化されたのがこの「濡れ髪シリーズ」で、昭和33年の『濡れ髪剣法』から本作までわずか2年3か月の間に5本の作品が作られました。いずれも女優との共演も見どころになっていて、八千草薫、淡路恵子、中村玉緒、山田五十鈴といったビッグネームが出演していましたが、いよいよこの『濡れ髪牡丹』では大映を代表する女優京マチ子が共演相手になっています。

脚本は八尋不二で、サイレント時代末期から300本近い脚本を書き続けてきた人です。昭和初期に結成された「鳴滝組」というシナリオライター集団の一員でもあり、稲垣浩や山中貞雄らとともに書いた脚本は共同名義の「梶原金八」の名前でクレジットされました。この共同作業は山中貞雄の戦死などによって三年ほどで解散しましたが、映画業界に与えた影響は甚大なものがあったそうです。主要ライターであった八尋不二は戦時統制で設立された大映を主戦場にしながらたまに東映の映画を手伝いつつ大量の脚本を残していて、「濡れ髪シリーズ」は『濡れ髪三度笠』『濡れ髪喧嘩旅』と合わせて三作品を書いています。

田中徳三は溝口健二や伊藤大輔の助監督をつとめあげ、昭和33年の『化け猫御用だ』で監督に昇格した人。いよいよ監督になれるというときのデビュー作が「化け猫」ものだったのでがっかりしたそうですが、翌年には雷蔵主演の『お嬢吉三』を監督して、そのままシリーズ第二作の『濡れ髪三度笠』を撮っています。また本作公開の半年後には勝新太郎と田宮二郎による『悪名』を監督してシリーズものに育て上げていて、デビュー作はともかく大映監督陣の中でもすぐに使える監督として次々に話題作でメガホンをとることになったのでした。

本作は脇役陣も充実していて、岩吉役の小林勝彦は大映ニューフェイス出身ながらあまり大成しませんでしたが、悪役で出てくる須賀不二男は小津映画の常連でしたし、伊達三郎は大映時代劇の悪役といえばこの人というくらいの出演頻度だった人。安部徹は松竹から日活では爽やか系もやっていましたが、東映に移るとほぼ悪役一筋になって東映やくざ映画では欠かせない俳優になります。本作は安部徹にとっては数少ない大映出演作でもあります。そしてにょろ松を演じるのは大辻伺郎。早稲田大学演劇科を中退して新派の舞台に出ているところを市川崑の目に留まり大映に入社したというキャリアをもっていますが、自動車事故を起こしたことをきっかけに自殺という形で亡くなっているんですね。まだ三十八歳だったということですので、本作は大辻伺郎の演技を準主役級で堪能できる作品にもなっています。

【ご覧になった後で】リズム感溢れる演出と演技がお見事!傑作コメディです

いかがでしたか?恥ずかしながら「濡れ髪シリーズ」は初見でしたし、シリーズそのものの存在も知らなかったのですが、この第五作は傑作でしたね。開巻からいきなり観客を惹きつけるリズム感をもっていて、雷蔵扮する瓢太郎の登場から京マチ子のおもんに負けて旅に出るまではアップテンポなリズムで序盤30分を一気に見させます。そして大辻伺郎のにょろ松との旅道中になるとリズムをややスローに落としておいて、一年後、さらに一年後と引っ張り、クライマックスは再びスピーディなリズムを復活させて大団円を迎えるという見せ方になります。こうくるともう監督がどうとか俳優がどうとかいう個別のレベルではなくて、映画という総合芸術のなせる技としかいいようがないくらい演出と演技が混然一体となった完成形を見せてくれていました。

田中徳三の演出ではロングショットの扱いの巧さが目立っていて、そのカッティングによって緩急をつけたストーリーテリングが成立しているんですよね。雷蔵と京マチ子が一緒に神社の階段を登る場面や京マチ子が単身境内の縁日に乗り込んでいく場面で唐突にロングショットが挿入されて、それが長音府のようにシーン構成のリズムに変化をつける効果がありました。また京マチ子が敵に囲まれるシーンでのいきなりの俯瞰ショット。紫の番傘を中心にして円状に敵方が配置される構図が見事でした。ほかにはキャメラをわざと空間のほうにパンさせておいて、そのあとでパンした先から別の人物をフレームインさせるなんてのも、一体誰が出てくるんだろうと思わせるような予感を誘うショットになっていました。

この演出を側面から支えるのが音楽で、瓢太郎の口笛のメロディが映画全体のメインモチーフになっていて、リピートされるごとに映画の印象が深く刻まれるようでした。音楽を担当した塚原哲夫は本作の3年後には田宮二郎主演の『宿無し犬』でジャズをうまく使ったBGMを書いていますから、時代劇にジャズの要素を盛り込むことなど朝飯前だったのかもしれません。その塚原哲夫のスコアが映像とジャストタイミングで被ってくるのも本作の魅力の一要素でしたね。

市川雷蔵は「〇〇流は免許皆伝の腕前じゃ。ふむ」というセリフの繰り返しが実に様になっていて、この人にパロディものをやらせたら普通の俳優なんてとても太刀打ちできないくらいのコメディアンぶりです。雷蔵の存在自体をパロっているのも本作の面白いところで、旅先で見込まれて「市川團八郎一座」に加わると「市川雷門」の名跡を名乗って歌舞伎の舞台に出演してしまうのです。花道のすっぽんから出てきた蝦蟇の中から雷蔵が姿を現すという出し物は「児雷也豪傑譚話」でしょうか。六方を踏んで花道を下がるところまで見せてくれますし、そもそも「児雷也」という演目自体が八代目市川團十郎が得意としていたので、それをもじって「團八郎一座」にしているのだと思われます。

かたや京マチ子は大勢の子分を従える女親分を堂々とした貫禄で演じていて、誰からも等しく親分と呼ばれるような役はこの当時でいえば京マチ子か山田五十鈴くらいしかできなかったでしょう。そこに女ざかりの美女という条件を加えたらもう京マチ子以外にこなせる人はいなかったはず。というか本作は京マチ子のために書かれた脚本だったのかもしれず、実は雷蔵に惚れていてその心を素直に表に出せないツンデレ親分を京マチ子が可愛らしく演じる姿は、色気というか健気というか手が出ない女性ほど孤高の寂しさをもつという状況を端的に表していました。

加えて大辻伺郎演じるにょろ松が非常に冴えていて、リズムを適度に弛緩させながら、雷蔵とのコンビで旅のシークエンスをちょっとした弥次喜多ものに似せる役割を果たしていました。大辻伺郎がしゃべると「親分は兄貴にI Love Youなんスよ」なんて英語交じりのセリフも自然に聞こえてしまいます。いい役者なのに早く亡くなってしまったのは本当に残念なことでした。

最終的には雷蔵がすべてを解決するという展開になることはわかっているものの、単純にそう見せない脚本も優れモノでしたね。京マチ子による立ち回りで須賀不二男たちの流れ三ツ星が捕らえられるところを見せることで、京マチ子の親分としての顔が立ちますし、そのあとで三ツ星三人組が脱獄して京マチ子が危機に陥るのも納得の流れです。そして京マチ子をさらおうとする駕籠を開けると、そこには雷蔵が乗っているという実に見事な登場のさせ方で、駕籠から出てきた雷蔵があっという間に流れ三ツ星の三人を片づけてしまうのです。雷蔵がすべてにおいて免許皆伝の腕前で、最後には料理教室まで開いてしまうという万能型なのも、鼻につくどころか雷蔵ならではのキャラクターになっていましたから、やっぱりシナリオは雷蔵と京マチ子の共演を前提としたアテ書きだったのだと思います。

たったひとつだけ欠点があるとすれば、雷蔵演じる瓢太郎がひとり部屋に鍵をかけて夜な夜な励んでいたのが博打の研究だったというオチが落ちていないところでした。それほどまでに研究していたら、映画の中で進歩していなければ他のすべてのことに万能であることと矛盾してしまいますし、博打のことを知るのにわざわざ部屋に鍵をかける理由もわかりません。このネタだけは竜頭蛇尾といった印象でしたし、オープニングタイトルがサイコロの目を並べた洒落たデザインだったのはこのオチにつながっていたのかと思ったものの、落ちていないオチをモチーフにしても詮無いことだなあと感じてしまいました。

第五作でこんな上出来であれば、それまでの四作はいかばかりかと期待するのですが、とりあえずシリーズものであるかどうかは関係なく、この『濡れ髪牡丹』は時代劇コメディとしては超一流の部類に入っていることは確かです。あえていえばシリーズを意識したタイトルで損をしているので、こんな傑作であればもっとオリジナリティのある題名にしてほしかったですよね。映画史的にいってもシリーズの中の一作という扱いとは違った位置づけでクローズアップされていたのではないでしょうか。(A020923)

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