流れる(昭和31年)

幸田文による芸者置屋の小説を、成瀬巳喜男が監督した傑作です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『流れる』です。成瀬巳喜男監督といえば、本作の前年に作った『浮雲』が日本映画史上ベストテンに入るほど有名です。特に高峰秀子とのコンビ作を多く作っていて、高峰秀子は、その半生記「わたしの渡世日記」のオーラスに成瀬巳喜男のエピソードをもってくるほど、成瀬を慕っていました。この『流れる』は、もとは幸田文(幸田露伴の娘)の小説が原作で、幸田文が生計を立てるために芸者置屋の女中として住み込みで働いた自らの経験を書いたもの。映画でも芸者のリアルな生活が描かれていますが、なにしろ出てくる女優陣がものすごい顔ぶれで、こんなビッグネームを軽くさばくような演出ができてしまうところに、成瀬巳喜男が尊敬される理由があるのかもしれません。

【ご覧になる前に】オールスター女優陣の演技が圧倒的です

芸者置屋の「つたの屋」にひとりの女性がやってきます。職業安定所から紹介された寡婦でしたが、おかみの蔦は、彼女に「お春」という名をつけて女中として雇うことにします。蔦は姉おとよから借金があり、置屋の土地家屋もその抵当に入っているうえに、芸者のなみ江は給金の支払いに文句をつけて出ていってしまいました。苦しい台所事情に、蔦の娘勝代はなにかにつけてイライラを重ねるのですが…。

クレジットタイトルでは、全員が一枚看板を飾る女優たちなのですが、田中絹代と山田五十鈴と高峰秀子の三人の名前がまとめて出てきます。そして次が、岡田茉莉子と杉村春子と栗島すみ子。この二枚だけでも六人になります。しかしながら脚本の巧さで、開巻後にあっという間に主要登場人物が手際よく紹介されていきます。また、「つたの屋」の女たちの話題に必ず出てくるのが男の話。なのに男で出てくるのは加東大介くらいで、活躍する男優はクレーマー役の宮口精二のみです。それくらいに女優だけにスポットを当てた映画になっています。

中でも注目なのが栗島すみ子で、日本映画史における最初のスターと言われる大女優です。昭和12年に作られた小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』を最後に映画界を引退。それからずっと踊りの師匠をしていたようなのですが、成瀬巳喜男が口説き落として、なんとか『流れる』に出てもらったそうです。「特別出演」とクレジットされているものの、実質的には栗島すみ子は裏の主演というか影の主役というか、非常に重要な役で出ています。そして、栗島すみ子だからこそあの役が映画で具体化できるんだろうな、というくらいに存在感のある演技を見せてくれます。復帰したのは本作のみですので、まさに栗島すみ子を見るだけでも、『流れる』を鑑賞する価値があると思います。

【ご覧になった後で】誰がどうとか比較は無意味。女優がみんないい!

いかがでしたか?田中絹代の、生まれ育ちが良くてしっかり躾けられて育ったのだろうに夫は戦死し子は病気で亡くしひとりきりになってしまった寂しさを抱えながらも周囲への慮りや他人への優しさを忘れない、梨花が良かったですよね。一方では、山田五十鈴の、小さいときから芸事を教えられ芸者以外に生きる道はないのに娘には置屋を継がせることは強いず男にはしばしばだまされそれでもどこかで男との再会を待ちわびる恋心を失わない、蔦も最高でした。そして、高峰秀子の、置屋家業の裏側を知り尽くしているからこの仕事には将来がないことを見極めながらもそこで懸命に働く母親には深い愛情と同情を感じ世間に対抗するために手に職をつけようとする、勝代には前向き女性像が見られました。ほかにも、杉村春子はもう相変わらず巧いなあのひと言しかないですし、岡田茉莉子は『浮雲』より表情豊かな美しさと計算高い若さが同居した魅力がありました。そして、栗島すみ子。最後に田中絹代と面会するところ。凄いですよね、あのしたたかさと冷厳さ。全体を見ると、やっぱり栗島すみ子がやった料亭のおかみが黒幕なんですが、悪役に見えないというか、見せないところに凄みがあるのではないでしょうか。

舞台は東京下町の芸者置屋で、映画の冒頭とラストはともに川の風景が映し出されます。幸田文が実際に女中として働いた置屋は柳橋にあったそうですので、映画では場所がどこかは明示されませんが、「つたの屋」も柳橋の花街にあると考えてよいでしょう。東京には江戸からの流れを引き継いで、六つの花街(かがい)があります。柳橋・芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草の六つでしたが、この中では柳橋が実質的に花街の機能自体を失くしてしまったため、今では代わりに向島を入れて「六花街」と呼ばれています。しかしながら、平成以降に大企業の接待費が大幅に削減され、そもそも接待自体がビジネスにとって機能しなくなり、コンプライアンスが重視されるようになりました。経費の使い方が社外からも厳しく監視されるようになると、特に花街への支払いのようなものは正式な経費として認めにくくなってきたのでしょう。「つたの屋」がたぶん廃業することを予感させて映画は終わりますが、実際の柳橋でも芸者置屋は廃れていきました。しかし芸者が出ないとなると、料亭という業態は料理のみで差別化をしなければならず、たぶん栗島すみ子の料亭もやがては没落していったのかもしれません。

女優陣の演技が凄すぎるので忘れてしまいがちになりますが、はっきり言ってあまり大きな起伏のないシナリオをまったく飽きさせることなく見せてしまう成瀬巳喜男の演出は見事です。小津安二郎がフェードアウトやオーバーラップを使わないことは有名ですが、成瀬巳喜男はエピソードの区切りをフェードアウトで表現しています。ただ、そこに深い余韻が醸し出されていて、それはやっぱり花街の裏道や家屋の廊下を映したスティルショットが句読点のような働きをしているからではないでしょうか。また、女優の演技をとらえるために、ほぼミディアムサイズ以上は寄らないショットで組み立てています。キャメラが顔の表情に近づけば近づくほど、その人物だけに観客が感情移入し始めてしまうので、『流れる』では山田五十鈴も賀原夏子も中北千枝子も、ほとんど同じサイズのショットで切り取られていました。だから、最後の田中絹代と栗島すみ子の対決場面だけ、ほんの少し田中絹代がアップ気味に撮られているのが、すごく印象に残るのだと思います。アップめの田中絹代を見た観客は「この人は絶対小料理屋はやらないし、つたの屋の人たちに事情を話すこともない」という思いを抱く、そんな演出を成瀬巳喜男が指揮しているのかもしれません。(T092921)

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