地獄門(昭和28年)

大映初のカラー作品は室内でも撮影できるイーストマンカラーで作られました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、衣笠貞之助監督の『地獄門』です。昭和26年に黒澤明監督の『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭でグランプリを獲得すると、にわかに日本映画を海外へ輸出しようという動きが高まるようになりました。大映の永田雅一社長はコスチュームプレイとしての時代劇をカラー作品にしたら売れるのではないかと考え、大映スタッフにカラー撮影技術を研究させます。その結果採用されたのは室内での露光でも撮影が可能なコダック社のイーストマンカラーシステムで、大映初のカラー作品は平安時代を描いた『地獄門』に決まり、アメリカ産ネガフィルムによって撮影されることになったのでした。

【ご覧になる前に】『カルメン故郷に帰る』以上にその後のカラー撮影に貢献

平治の乱の最中、御所から上皇たちを避難させるため上西門院の身代わりを立てることになり、呼びかけに応じた袈裟は遠藤武者盛遠に守られて兄・盛忠の屋敷に匿われます。清盛を見限って源氏方に寝返った盛忠を尻目にして、その美しさに心を奪われた盛遠は袈裟を清盛のもとに無事帰還させることに成功し、清盛主催の論功行賞の場に招かれます。清盛から欲しいものは何でもやると言われた盛遠は袈裟を妻にしたいと希望を述べます。しかし袈裟は御所侍の渡辺渡の妻だということがわかり、清盛からもあきらめろと諭されるのですが…。

『羅生門』は争議で東宝を離れていた黒澤明が映画芸術協会と大映との契約に基づき、大映京都撮影所で完成させたのですが、試写を見た永田雅一社長は「なんかよう解らんけど高尚なシャシンやな」という感想をもらしました。そんな『羅生門』がなぜヴェネツィア国際映画祭に出品されたかといえば、映画祭の管理委員会が日本に出品を勧奨したものの日本の映画会社は出品する自信がなく、イタリアフィルム代表のストラミジョリ氏に選んでほしいということになりました。テーマの扱い方や描き方に特色がありかつ日本的だということから『羅生門』が選ばれましたが、大映は経費がないからプリントと宣材しか出せないと言い張ります。やむなくストラミジョリ氏が翻訳やイタリア語字幕などすべて自費でまかなってヴェネツィアでの上映にこぎつけたのでした。

その『羅生門』がグランプリを獲得すると永田雅一は「この映画を作らせたのは自分である」と態度を一変させたそうで、いかにも永田雅一らしいエピソードが伝わっていますが、この受賞を契機として日本映画を海外へ輸出して外貨を稼ごうと考えたのもまた永田雅一の山師的なビジネス感覚を物語っています。当面は東南アジア市場が輸出のターゲットとなると考えた永田はアジア諸国と共同した「東南アジア映画祭」開催を企画し、第一回映画祭が昭和29年5月に東京で開催されることになりました。この映画祭は「アジア太平洋映画祭」として現在でもアジア各国の都市で巡回開催が継続されています。

永田雅一は同時に世界市場を見据えていて、輸出するならカラーで撮影する必要性を認識していました。日本映画史上では最初のカラー作品は松竹が昭和26年に公開した『カルメン故郷の帰る』なのですが、露光感度が低い富士フィルムが使われたため全編オールロケでしかも晴天時での撮影を強いられていました。同じ時期に大映では『源氏物語』をカラーで撮影しようという企画が進行中で、永田雅一は自ら渡米してカラー撮影技術の比較検討に入ります。というのもアメリカで使用されているテクニカラーは専用機材が必要で撮影用にフィルムを三倍も使用するため経費がかかり過ぎて手が出せず、比較的安価のアンスコカラーはセット撮影とロケ撮影の色調が全く合わず、セット撮影の光量をあげるにはこれまた照明のコスト面からみて実現不可能となったからでした。

本作で技術監督としてクレジットされている碧川道夫は、40日間に及ぶアメリカ出張の末にコダック社から最新のイーストマンカラーフィルムを手に入れて帰国します。初のカラー作品は平安時代のコスチュームが最もカラー撮影にふさわしいだろうということで菊池寛の小説をもとに衣笠貞之助が脚本化した『地獄門』が選ばれました。色彩科学の指導者でもある和田三造や舞台技術家で溝口健二作品の美術監督もつとめた伊藤憙朔をスタッフに迎え、キャメラマンは衣笠貞之助とコンビを組んでいた杉山公平を指名。いよいよ大映初のカラー作品が作られることになったのでした。

しかしもうひとつ大きな問題が残されていました。それは撮影後の現像で、イーストマンカラーのネガフィルムを現像して映画館で上映するためのプリントを行えるラボはアメリカにしかありません。ネガフィルムは一本しかありませんから、空輸でアメリカに運ぶ途中に事故があったりネガに影響が及ぶことがあると、キャストやスタッフ、セットなどそれまでの撮影プロセスすべてがおじゃんになってしまいます。これは『地獄門』だけの問題ではなく、継続して日本でカラー映画を製作するのであれば必ずぶち当たってしまう大きな障壁でした。そこで永田雅一は東洋現像所を経営する長瀬産業の長瀬社長を訪ね「あんたのところで国内のカラーラボを新規に開設してほしい」と要請したのです。

永田雅一が長瀬社長を頼ったのは、戦時統制下で大映が創設されるときに長瀬が永田に出資してくれたからでした。長瀬産業自体が戦前から販売総代理店として日本におけるコダック社製フィルムを独占販売する立場にあったので、東洋現像所五反田工場がカラー専門ラボになることは必然の成り行きだったのでしょう。長瀬産業が国内ラボを作ることを決意して、その後日本において安心してカラー作品が製作されるようになったのですから、大映初のカラー作品として『地獄門』を作るという取り組みは、松竹の『カルメン故郷に帰る』以上に日本映画界に多大なる貢献をもたらした事業だったといえるでしょう。

【ご覧になった後で】長谷川一夫が京マチ子のストーカーにしか見えませんね

いかがでしたか?大映初のカラー映画としては、まず色彩に注目ですよね。すべての場面において平安時代のあざやかな衣装が浮き出るように目に飛び込んできて、その発色具合はややどぎついくらいの鮮やかさでした。たぶんあえて抑え気味ではなく原色以上に色を強調するような撮影および現像がなされたのではないかと思いますが、特に京マチ子が着る装束のオレンジや着物の合わせ部分のグリーンなどが印象的で、袈裟という女性の存在をカラーの発色でより際立たせるような効果があったと思います。

また本作はほとんどスタジオセットで撮影されていまして、特に夜の場面でぼおっとした部屋の灯りの扱いが巧かったと思います。終盤で渡を狙った盛遠が袈裟を殺してしまうところは、渡の屋敷の各部屋が開け放たれていることもあって、遠くの方まで見通せるように設計されてありました。その奥の方で部屋の灯りがついている映像が日本古来の絵巻物を思い起こさせるように見えてくるところは、やっぱり海外市場を意識したのかもしれません。

和田三造はクレジット上では色彩指導となっていますが、「衣裳調整 松坂屋」となっていますので現場で使われた衣裳を製作したり調達したりしたのは名古屋の名門百貨店松坂屋だったようです。呉服系の老舗百貨店なら全国の呉服問屋や呉服デザイナーとネットワークがあったでしょうから、和田三造の指導のもとに最適の衣裳を揃えることに協力して、この映画を宣伝に使って自店の売上拡大策としたのかもしれません。

衣裳や色彩設計が功を奏したのかわかりませんけど、本作は永田雅一が意図した通りに海外の映画祭で高く評価されることになりました。翌年(1954年)に行われた第7回カンヌ国際映画祭ではグランプリを獲得していまして、コンペティションへはフレッド・ジンネマンの『地上より永遠に』やアンドレ・カイヤットの『洪水の前』、日本からは本作以外に田中絹代の『恋文』と今井正の『にごりえ』が出品されていた中でのグランプリでした。グランプリの次点となる審査員特別賞はルネ・クレマン監督の『しのび逢い』が受賞しています。さらにその次の年(1955年)春のアカデミー賞では、名誉賞と衣裳デザイン賞の二部門を受賞するという快挙を成し遂げました。当時はまだ外国語映画賞というくくりがなかったらしく、「1954年にアメリカで初公開された外国語映画のベスト」という名目で名誉賞を受賞。また衣裳デザインは白黒映画とカラー映画に分かれていた時期で、白黒部門は『麗しのサブリナ』のイーデス・ヘッドが受賞し、カラー部門で松坂屋ではなく和田三造にオスカーが贈られています。

というわけで、永田雅一の狙い通りに海外市場で評判となったわけですが、映画の中身はといえば長谷川一夫演ずる盛遠が京マチ子演ずる人妻袈裟をストーカーして最後には殺してしまうというお話で、なぜ長谷川一夫がそこまで京マチ子に執心するのかが全く伝わってこないので、長谷川一夫が病的な偏執狂にしか見えませんでした。さらに渡役の山形勲がいつもはもっと腹黒い役をやる人なのに本作だけは妙に清廉潔白な侍の鑑のようなキャラになっていて、妻を寝取ろうとする長谷川一夫にそこまで寛容で良いのかなあと逆に寝取られ願望があるように見えてしまうのも本作の欠点でした。まああまり複雑な話にするとカラフルな衣裳に目が行かなくなるので、京マチ子の貞淑さだけが強調されればそれでよいのかもしれませんけど。

国内では「ずばぬけた色彩だがシナリオは間延び」という評価がもっぱらだった一方で、カンヌ国際映画祭で他の反対を押し切り強くグランプリに推したのが審査委員長だったジャン・コクトーでした。「あれが映画あるいは美の到達点である。『地獄門』に能のもつ完成美を感じた」というのがコクトーの弁で、日本文化にも詳しかったジャン・コクトーが本作を通じて日本の伝統芸能を欧州に広めたいという気持ちを持っていたんでしょうか。またアカデミー賞効果なのかニューヨークでは47週に及ぶロングラン上映を記録したそうで、衣笠貞之助自身が「受賞の意味がわからない。作品内容は空疎だ」と述べているわりには、平安時代の衣裳のあざやかさが欧米で受け入れられたのだと思われます。

蛇足ではありますが、現在も名作・旧作のフィルムを所蔵して上映している国立映画アーカイブは、長瀬映像文化財団の助成によって運営されています。大ホールが「長瀬記念ホール OZU」と命名されているのも、東洋現像所でカラーラボを設立した長瀬産業を讃えてのことなのですね。永田雅一も毀誉褒貶に相半ばする日本映画界の大立者ですが、日本映画史に貢献したその実行力は決して無視できないのではないでしょうか。(U100723)

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