暖流(昭和14年)

岸田國士の新聞小説は繰り返し映画化されていますが本作は戦前の松竹版です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、吉村公三郎監督の『暖流』です。昭和13年に朝日新聞に連載された岸田國士の小説は三度映画化されていまして、本作は松竹で最初に映画化された吉村公三郎監督作品です。総合病院を舞台にして病院経営の建て直しと複雑に絡んだ恋愛関係を描いていて、昭和14年の公開時には「前篇 啓子の巻」(94分)と「後篇 ぎんの巻」(83分)が一挙上映されました。現存しているのはその前後篇をくっつけて2時間4分にまとめて昭和22年に再上映された総集編バージョンのみで、50分強がカットされた計算になります。

【ご覧になる前に】主演は高峰三枝子の令嬢と水戸光子の看護婦の二人です

怪我した指の受診のため志摩病院に来たのは院長の令嬢啓子で、啓子の気を惹きたい笹島医師が診察を申し出ます。その様子を伺っていたのは啓子とは小学生時代の同級生だった看護婦の石渡ぎん。ぎんは啓子との再会を喜びますが、院長が病気で不在のため院内に不穏な空気が流れていることを告げます。啓子が鎌倉山で静養している父親を見舞うと、そこには以前学費の支援をした日疋祐三が来ていて、父親は自分が不在となって混乱している志摩病院の経営を日疋に建て直してほしいと依頼していました。病院監事を引き受けた日疋は看護婦のぎんに病院内の様子を逐次知らせるよう密偵役を頼むのでしたが…。

岸田國士(きしだくにお)は劇団文学座を創設した劇作家で、次女が岸田今日子、甥が岸田森ということでも有名です。軍人の家に生まれ陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進んだものの文学への思いを断ち切れず、渡仏して演劇を学んだ後に文学座を創設しました。昭和に入ると多くの戯曲や小説を発表し、昭和29年に舞台稽古中に倒れて還らぬ人となったのですが、その功績を記念して翌昭和30年から「岸田國士戯曲賞」が設けられました。現在でも演劇界の芥川賞という位置づけで多くの新人演劇家たちが目標とする賞となっています。

小説が連載されたのが昭和13年、映画化されたのが昭和14年暮れですから、近衛首相が東亜新秩序を宣言し、傀儡政権として汪兆銘南京政府が樹立されるなど、日本が中国との戦争を泥沼化させていた時期です。そんなときに本作のような小説が新聞に連載されて映画にもなったというのは、ある意味で一般庶民の生活上はまだ普通に平和な日々が営まれていたことの証明かもしれませんが、それにしても鎌倉山に大きな別荘を構えた院長の暮らしぶりは映画の中でしか見ることができないブルジョア階級のお話だったでしょう。17歳から40歳までの男性に課せられていた徴兵制で入営する割合は昭和13年には50%近くにまでなっていたそうなので、病院勤務の医師であればその対象から外れていたでしょうから、そういう時代背景もあってメロドラマをやるなら病院を舞台にする必要があったのかもしれません。

佐分利信は本作出演時は三十歳で、島津保次郎監督の『兄とその妹』に主演して松竹幹部俳優の地位を固め出したころです。対する高峰三枝子は二十一歳の新進女優で、佐分利信・佐野周二・上原謙が共演した『婚約三羽烏』のマドンナで注目されたあとに歌手としてもレコードデビューして『純情二重奏』がヒットしたばかりでした。それに比べるとちょっと幼い感じのする水戸光子は、実は高峰三枝子とは同学年で、ホテルで働いていたところをスカウトされて松竹入りした人。端役での出演作ばかりだったのですが、大抜擢されたこの『暖流』で主演をつとめたことで一気に人気女優になりました。

岸田國士の小説を脚色した池田忠雄は松竹蒲田の脚本家で、サイレント時代から小津安二郎作品の脚本を多く書いています。『突貫小僧』『朗かに歩め』『東京の女』『非常線の女』『出来ごころ』『母を恋はずや』『浮草物語』『東京の宿』『一人息子』『戸田家の兄妹』『父ありき』。これらの小津安二郎監督作品で、共同脚本や小津のペンネームであるゼームス槇原作の脚色もありますが、小津が野田高梧とコンビを組むまではほとんど池田忠雄が小津安二郎のパートナーだったといっても良いくらいでした。

また本作には「監督部」として木下恵介と中村登の名前が出てきまして、二人とも助監督として吉村公三郎監督についていた時期です。中村登は昭和16年、木下恵介は昭和18年に監督デビューして戦後には松竹の屋台骨を支えていくわけですから、吉村公三郎はある意味で人材育成も得意としていた監督だったんですね。

【ご覧になった後で】やはりダイジェストっぽい省略感がぬぐえませんでした

いかがでしたか?冒頭に「1947年」と「映倫ナンバー」のクレジットが入っているので戦後に前後編をとりまとめたダイジェスト版であることは間違いなく、松竹ホームページの作品データベースでもこの「124分」バージョンしか掲載されていないので、製作時のフィルムは失われてしまったんでしょう。やっぱり50分も削ってしまうと省略した部分がかなりあるわけで、特に水戸光子が佐分利信に寄せる思いやあきらめて病院を辞めていくくだりが唐突に感じられますので、再上映当時には映画界を一旦は引退した水戸光子より、現役で主演を継続していた高峰三枝子の登場場面を優先してつなぎ合わせたのかもしれません。

原作の読みどころなんだとは思いますが、監事祐三と令嬢啓子と看護婦ぎんの三人の関係が面白くて、ぎんが祐三を好きで、祐三はぎんの気持ちには気づかず啓子に結婚を申し込み、啓子は内心は祐三に思いを寄せているけどその気持ちをおさえて祐三にぎんとの結婚を勧めるという三角関係が観客を惹きつけます。なのですが、どうにもすべてに唐突感がぬぐえず、ぎんがスパイ役をするうちに祐三のことを好きになる経緯の描き方が薄いですし、祐三が実は啓子を好きだというのも伏線が足りません。そして啓子に結婚を断られた祐三がいきなりぎんとの結婚を承知するのもちょっと軽過ぎますよね。

そしてなぜこの時代の人たちは「付き合う」という段階をすっ飛ばして「結婚する」ことを宣言してしまうのでしょうか。これが当時の結婚プロセスだとすると多くの人が結婚を後悔したんではないかと勘繰ってしまいます。あるいはただ単に生活を共にし子供を産んで育てるのが結婚で、その意味ではどの学校に通うかとかどんな仕事をするかと同じレベルの選択肢として結婚相手がいた時代だったんでしょうか。現在的にはそのへんが理解しにくいので、ストーリーラインにはなかなか共感しにくいのが実際のところでした。

ダイジェスト編集のせいかどうにもこうにもショットが短いような感じがしてしまい、映像自体が短兵急に進んでいくような印象しかないので、吉村公三郎が『安城家の舞踏會』で見せたような映画の教科書的演出は見られませんでした。それでも本作で最も目を引いたのが啓子が堤さんおよびぎんと二人でお茶を飲む聖ニコライ堂近くのカフェの場面でした。というのもこの場面、テーブルをはさんで向かい合う二人を真横から撮ったショットで、右側が白、左側が黒と色彩設計を完璧に分断して見せているからです。

これ、もしかしたら今泉容子著の「映画の文法 日本映画のショット分析」という本でも例題として取り上げられていたかもですけど、啓子と堤さんの二人のときは明らかに人生の陽の当たるところにいる啓子が白い右側にいて、堤さんはずっと左の黒いほうに据えられたままです。でもぎんと二人になるときは、最初白側にいた啓子が窓の外を見た後、祐三が好きだというぎんの告白を聞いて左の黒いほうに席を代わるんですよね。すなわち祐三との恋愛関係においては自分が陰の存在になろうと決めて、ぎんに陽の当たる場所を譲るという啓子の気持ちの動きを、白黒を反転させる映像によって表現していました。美術の金須孝という人のキャリアは昭和17年で途絶えていますので、もしかしたら召集されてそのまま還らなかったのかもしれませんけど、たぶんこの白黒の効果的使い方は美術さんの仕事というよりは吉村公三郎監督のディレクションなのではないでしょうか。コーヒーカップが半分白で半分黒なのが、見ていて笑えてしまいましたけど。

なぜ松竹が昭和22年に戦前の作品のダイジェスト版を公開したのかは不明ですが、GHQの検閲によって男女平等と自由な恋愛を肯定するような民主主義啓蒙映画、いわゆるアイデアピクチャーが必要とされていた時期でしたので、本作の啓子もぎんも自ら恋愛を主導するような女性だったことが再上映の決め手になったのかもしれません。ダイジェストにすれば、戦前の家父長制の臭いがするところはカットしてしまえば良いわけで、松竹にとっては製作費をかけずにそれなりの動員が見込める番組になったんではないでしょうか。

本作は昭和14年のキネマ旬報ベストテンで第7位にランクインしていますので、公開時はそれなりに話題になったと思われます。谷崎潤一郎の「細雪」はちょうどこの時期の大阪を舞台にした小説で、蒔岡家に派遣される看護婦が水戸光子に似ていることから「水戸ちゃん」というあだ名で呼ばれる描写があります。映画の影響で水戸光子が一般家庭にその名を知らしめたんだろうなということが、日本文学を代表する名作である「細雪」に記されたのは水戸光子本人にとっても名誉なことだったでしょうね。(Y011123)

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