本日休診(昭和27年)

井伏鱒二による町医者が主人公の小説を渋谷実監督が映画化した群像劇です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、渋谷実監督の『本日休診』です。井伏鱒二が「別冊文藝春秋」に発表した小説は第一回読売文学賞を受賞していて、松竹の渋谷実監督が映画化しました。「本日休診」の札を掲げたものの次々にいろんな患者が現れたり事件に巻き込まれたりする主人公の町医者を柳永二郎が演じていますが、なぜかクレジットロールでは鶴田浩二と淡島千景の次に出てきます。昭和27年の東京近郊の風景が生き生きと活写されており、この年のキネマ旬報ベストテンでは黒澤明の『生きる』、成瀬巳喜男の『稲妻』に続く第三位に選出されています。

【ご覧になる前に】人気連載小説の映画化で配給収入でもトップテンでした

郊外の町にある三雲医院では翌日の休診日に何をするかをみんなで話し合っています。大先生は甥を院長にしていて、院長や看護婦が早朝から箱根の温泉へ出かけたのを見送って、婆やと二人でのんびりしようと「本日休診」の札を掲げた矢先に、婆やの息子で戦争で精神を病んでしまった勇作が通行人とケンカを始めてしまいます。勇作に庭で休憩を命じた大先生のもとに今度は近所の松木巡査がやくざ男に暴行された女性を診察してくれと連れてきました。診察が終わると18年前の開業日に診察した初めての患者湯川夫人がやってきて、タイピストの仕事をしているという息子の春三を紹介し、大先生の休日はてんてこまいの一日になるのでした…。

井伏鱒二は大正末期から小説を書いていましたがなかなか目が出ず、やっとのことで「ジョン万次郎漂流記」で直木賞をとったのが昭和13年、井伏は四十歳になっていました。戦争が始まると陸軍に召集されてシンガポールに渡り、現地では「昭南新聞」の編集に携わっていましたが、終戦前に帰国して山梨県に疎開。山梨は釣り好きな井伏にとっては第二の故郷のような土地になっていきます。そして昭和25年に発表した「本日休診」がヒットして、戦後を代表する作家の一人となったのでした。

その原作を脚色したのは斎藤良輔で、松竹で150本の脚本を残した脚本家です。監督の渋谷実は昭和12年に『奥様に知らすべからず』で松竹で監督デビューした後は、松竹蒲田の伝統を受け継いだ軽いタッチのホームドラマを得意分野として活躍を続けました。実は渋谷実と斎藤良輔のコンビは昭和25年の『てんやわんや』、昭和26年の『自由学校』に続く組み合わせで、しかもこの三作品とも製作は山本武、撮影は長岡博之という四人組が揃った仕事でした。前の二作はヒットしたもののキネマ旬報ベストテンにはランクインしていませんけれども、この『本日休診』はキネ旬三位に選ばれ、しかも年間配給収入でも第十位に入るほどの大ヒットを飛ばしました。渋谷以下四人組にとって、やっと作品的価値が認められた快心のヒット品だったのではないでしょうか。

主人公の町医者を演ずる柳永二郎は大正から昭和にかけて新派の演劇人として活躍した人でした。先輩には上山草人や真山青果がいて、同年代には花柳章太郎や水谷八重子がいたということですから、演劇界においてはなかなかの重鎮だったようです。戦後は舞台から離れて映画出演に場を移して、映画会社の枠にとらわれずにホームドラマから時代劇まで幅広い役をこなすようになります。例えばこの『本日休診』の前後には溝口健二の『お遊さま』『西鶴一代女』に出ていますし、小津の『お茶漬けの味』に出た後には東宝の『太平洋の鷲』で海軍軍人米内光政を演ずるという器用さを見せています。本作では柳永二郎の軽妙な演技とセリフ回しが町医者の大先生役にぴったりとハマっています。

そのほかにもなかなか豪華な俳優陣が顔を揃えていまして、三國連太郎、鶴田浩二、淡島千景、岸恵子、佐田啓二、望月優子など当時の松竹の俳優に加えて、中村伸郎、十朱久雄、多々良純といった演劇人たちが個性豊かな登場人物を演じ分けています。そして角梨枝子という女優さんについてはよく知らなかったのですが、戦後すぐ東宝にスカウトされて映画界入りしたものの東宝争議が始まって松竹に移籍、その翌年に出演したのが本作なのでした。そして昭和28年には松竹のカラー映画第二作で三島由紀夫の小説を映画化した『夏子の冒険』に主演して大ヒットを記録しました。当時にしてはかなりインパクトのあるエキゾチックな美貌の女優なのですが、出演作が少なくあまり見る機会が少ないのが残念です。

【ご覧になった後で】五十六歳の柳永二郎がエンジンとして映画を動かします

いかがでしたか?次々にいろいろな患者が出てきてさまざまな事件が発生するので、かなりひっちゃかめっちゃかな展開なのにもかかわらず、映画全体が非常に軽くて清涼感にあふれているのはひとえに主演の柳永二郎の飄然とした演技によるものではないでしょうか。本作出演時に柳永二郎は五十六歳なのですが、そんな年齢は感じさせないくらいにフットワークが良く、同時に年長者としての威厳もありつつ決してエラそうではないという三雲医院の大先生を見事に体現していました。本作はこの映画化のあとにも幾度もTVドラマ化されていまして、大先生役を演じたのは清水将夫、有島一郎、宇野重吉、いかりや長介といった人たちだったようです。見ていないのでよくわかりませんが、たぶん柳永二郎の大先生には敵わなかったのではないかと思ってしまいます。

何がいいかというと滑舌の良いセリフ回し、これに尽きます。日本映画では録音の悪い作品もたくさんありますし、アフレコでセリフを採録する映画も多いので、セリフが聞き取りにくかったり映像にぴったり合っていなかったりすることがたびたびあります。しかし柳永二郎のセリフは非常に明瞭ですし、かなりの早口でセリフをしゃべっているにしては映像と見事にシンクロしています。もしかしたら同時録音されたのかもしれませんけど、身体的な演技力だけでなくセリフで感情に訴えかけてくるので見ていても非常に印象深い町医者になっていました。ここらへんは舞台で徹底的に鍛えられた俳優の段違いな発声術を見せつけられたようで、たぶん共演した俳優たちもお手本にしようと思ったことでしょう。

井伏鱒二の原作がたぶんいろんなエピソードの積み重ねになっているんだと思いますが、映画でも次から次へと登場人物が現れ、事件が起き、場所を変えていきます。なので脚本としてもかなりテンポが早い構成になっていて、ひとつ間違うと混乱しただけのストーリーになってしまうところですが、そこは渋谷実監督の手練手管によって非常にうまく処理されていました。すなわち空間認識にズレがないので、人物が町のどこにいて、次にどこに移動して、そして今どこに帰って来たのかがすごくクリアなんですよね。たぶん路地や線路や川など指標になる場所をうまく選んでいることと、キャメラの中での人物の動かし方が完璧に統率されているので、空間の中での人物配置が映像によって観客に伝わってくるのです。こうした動きの多い映画は、ややもすると散漫な印象に偏ってしまうことが多いのですが、渋谷実監督の演出力がしっかりとベースを作っているので、リズムのあるカッティングでテキパキと見ることができました。

その中心にいるのが柳永二郎で、この大先生の運動量は映画の中でも随一ではないでしょうか。そして常に軽妙で陽気な大先生が映画のエンジンとなってストーリーを動かしていくので、飽きずに見られますし映画世界の中に引っ張りこまれていく気分になってきます。多くの登場人物をたくみに差配する脚本も見事ですが、その中で常に中心に大先生がいるので安心して見ていられました。

いろんな登場人物の中ではやっぱり三國連太郎の中隊長が印象的でしたね。佐田啓二も若々しくて初々しい感じですし、『てんやわんや』で映画デビューした淡島千景はその二年後の出演ながらもう大女優の雰囲気を漂わせていました。そんな中でいちばん笑わせてくれたのは十朱久雄の巡査でした。この人は脇役で出てくると何の役でもこなしてしまう俳優で、本作では賭博の現場をおさえるカムフラージュとしての宴会場面でのはしゃぎぶりがめちゃくちゃおかしくて、大勢の中のひとりなのになぜか十朱久雄の酔狂な踊りに目が吸い付けられてしまいました。(Y111922)

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