激怒(1936年)

ナチスドイツから逃れ渡米したフリッツ・ラングのハリウッド初監督作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フリッツ・ラング監督の『激怒』です。ドイツで活躍していたフリッツ・ラングはユダヤ系オーストリア人で、ナチスドイツによる迫害の対象となることをおそれ、ドイツを脱出してパリに滞在後、アメリカに渡りました。本作はフリッツ・ラングがハリウッドのMGMで初めてメガホンをとった作品で、当時MGMと契約していたスペンサー・トレイシーが主演しています。

【ご覧になる前に】製作はジョセフ・L・マンキーウィッツが担当しています

雨の中をそぼ濡れる犬を拾って二人の弟たちが待つ自宅に帰ったジョーは、恋人のキャサリンと結婚するために自動車工の仕事でお金を貯めています。西部に待遇の良い仕事を見つけたキャサリンは地元を離れますが、それぞれに蓄えた貯金で二人はやっと結婚することになり、ジョーは中古車を買いキャサリンが待つ町に急ぎます。しかしその途中でジョーは警察の検問に遭い、乗っていた車の車種が同じだということで町で起きた誘拐事件の犯人だと疑われ、逮捕されてしまいます。約束の時間に到着しないジョーを心配したキャサリンが町に走っていくと、暴徒と化した町民たちがジョーのいる刑務所に押しかけようとしていたのでした…。

ドイツで『メトロポリス』や『M』などの傑作を発表していたフリッツ・ラングは、ナチスドイツ宣伝相ゲッベルスから宣伝省映画部門の責任者を任されますが、母親がユダヤ系だったこともありナチスの迫害を恐れて、その誘いを断りパリに亡命します。パリに1年ほど滞在した後でアメリカに渡ったラングはMGMから誘いを受けて、ハリウッドでの初映画監督として本作を作りました。ゲッベルスの弄する甘言に乗らなかったというのは渡米後のフリッツ・ラングの言い分で、実はナチスドイツに取り入ろうとして失敗したのでドイツを脱出したという説もあるらしく、本当のところはよくわからないようです。

それはともかくドイツの有名監督がMGMで映画を監督するということで、MGMは本作のプロデューサーにジョセフ・L・マンキーウィッツを指名しました。というのもマンキーウィッツはシカゴ・トリビューン誌のベルリン特派員をしていたこともあり、ドイツ語に堪能だったので、英語が不自由なラングとスタッフとの架け橋になることを期待されたのでした。マンキーウィッツはパラマウントからMGMに移籍して監督になることを熱望していましたが、重役のルイス・B・メイヤーからまずはプロデューサーとして映画製作の経験を積むよう命じられ、本作や『フィラデルフィア物語』などの製作を担当します。

しかし1943年にプロデュースした『踊る海賊』に主演したジュディ・ガーランドと不倫関係に陥ってしまい、メイヤーの不興を買ってしまったマンキーウィッツは、MGMを追われて20世紀フォックス社に移籍します。そしてダリル・F・ザナックに見い出されて『三人の妻への手紙』と『イヴの総て』で2年連続アカデミー賞監督賞を獲得することになるというのは、フリッツ・ラングとは全く関係のない別のお話です。

ドイツの映画製作現場しか知らないフリッツ・ラングは、ハリウッドではスタッフの身分が細かな労働条件で守られていることを知りませんでした。ラングは照明のセッティングに手間取っているときに手早く自分の昼食を済ませ、準備ができたときに撮影に入ろうとしますが、スペンサー・トレイシーがフリッツ・ラングに「午後1時半を過ぎたのにスタッフが食事休憩を取っていない」と抗議したそうです。フリッツ・ラングは「これは自分の現場なんだから昼食時間は自分が指示する」と答えると、トレイシーはその言葉を無視して「昼食にするぞ」とスタッフとともにスタジオを出て行ってしまったんだとか。そんなこともありスペンサー・トレイシーは二度とラング監督とは仕事をしないと決めたんだそうです。でもフリッツ・ラングとしては初めてのハリウッド作品ということもあったのか、本作を『M』と並んで「私の好きな映画」として挙げています。

【ご覧になった後で】復讐は正義なのかというテーマが重く陰鬱な映画でした

いかがでしたか?スペンサー・トレイシーとシルヴィア・シドニーの恋人同士がお金がなくて結婚できないという物語の発端がやや暗めの設定ですし、そぼ濡れた野良犬を拾ってくる冒頭のシーンもなんだか不吉な雰囲気が漂っていて、映画に入り込むのに躊躇してしまうような導入部でした(あの犬は『オズの魔法使い』でジュディ・ガーランドが飼っていたトトをやった犬なんだそうです)。そして案の定、結婚できると期待に胸を弾ませて車を走らせるスペンサー・トレイシーの前にライフルをもった警官が現れて、物語は暗い穴に落ち込んでいくような気配になっていきます。それに続く暴徒たちによるリンチと生き残ったトレイシーによる復讐劇となり、裁判シーンで町民たちが「有罪!」「無罪!」と裁かれていく展開は、何も発散することができない息苦しさを感じさせて、見ていてどんどん陰鬱な気持ちになるような映画でした。

そんな展開なので実をいうと刑務所から命からがら抜け出してきた煤だらけのトレイシーのショットあたりから、眠気が襲ってきてしまい、何度か寝落ちしながらの鑑賞となってしまいました。ストーリーが暗いうえに、映像的にもフリッツ・ラングお得意の影を効果的に使ったショットや俯瞰などのアングルを変えたショットが見られず、逆にシルヴィア・シドニーの超クローズアップなどが多用され、映像的にも惹きつけられる要素がなく、見続けるのが正直辛かったです。

後半の裁判シーンがトレイシーの復讐を成立させるためのカタストロフを醸成するはずなのに、そもそも殺されたわけではないトレーシーが自らの生存を隠して町民たちを殺人者に仕立てて有罪にさせるという展開が、見ていても納得しがたいですし、群集心理に陥って一時的に狂気に走った人々を個人個人の罪状に分けて審判するなんてことが成り立つかどうかもよくわからないところです。トレイシーの復讐自体に正義を感じられないとしたら、本作は観客の心理を突き放したまま進んでいく映画になってしまっていたと思います。

最後に弟たちやシルヴィア・シドニーに見放されたトレイシーが自分の復讐心の恐ろしさに気づき、自分が生きていることを示すために出頭して終幕となります。この結末はラング本人は「あの結末は普遍的なものではなく、個人的なものだ。人々に生きるすべを教えるなどということは不可能なのだ」と述べています。まあ、本作は映画史的にもフリッツ・ラングが渡米後に撮った初監督作品でありながらも、ドイツ時代とは違うB級プログラムピクチャーであると捉えられていますので、何か普遍的なテーマを提示するというつもりはフリッツ・ラングにもなかったんでしょうね。(U060324)

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