愛妻物語(昭和26年)

新藤兼人の初監督作品で、脚本家の宇野重吉を妻の乙羽信子が支えるお話です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、新藤兼人監督の『愛妻物語』です。本作は新藤兼人の初監督作品で、実質的パートナーとなる乙羽信子を主演に起用して、宇野重吉演じるシナリオライターを妻が支えるという夫婦の愛情物語になっています。海岸の波を映した映画の冒頭には「たまにはシナリオライターのお話も見てほしい」みたいなナレーションが入っていますが、確かに脚本家を主人公にした映画というのは非常に珍しい設定だと思います。昭和26年度のキネマ旬報ベストテンで第10位に選出されたことで、新藤兼人は脚本家兼映画監督として活躍することになるのでした。

【ご覧になる前に】映画会社が三社に統合された戦時中の撮影所が舞台です

娘の孝子の訴えを退けて妻がなだめるのにも耳を貸さずに、父親は下宿人の沼崎を追い出そうとしています。沼崎は駆け出しのシナリオライターとして映画会社で働いていて、下宿先の娘である孝子と恋仲になっていたのですが、父親は娘をそんな職業の男にやるわけにはいかないと交際を禁じたのでした。アパートで独り暮らしを始めた沼崎の元にある日父親と喧嘩別れしたという孝子が訪ねてきて、二人は駆け落ちのような形で結婚しますが、戦局が悪化し始めたことで映画会社は三社に統合されて、人員整理の対象になってしまうと考えた沼崎は、映画会社をやめて旋盤工見習いにでもなるかと悲観するのでしたが…。

明治末期に生まれた新藤兼人は広島の尾道で山中貞雄の映画を見たことをきっかけにして映画界に入ることを決心したそうで、単身京都に出てなんとか新興キネマの現像部に働き口を見つけることができました。やがて美術部に移って水谷浩の元で下働きをしているうちに独学でシナリオを書き始めて、昭和15年に『南進女性』という映画で脚本家デビューを果たしました。戦争が始まると海軍に召集され雑役夫のような仕事をさせられながら前線送りを待っていましたが、そのまま終戦を迎えて復員すると松竹大船撮影所に入ることになりました。

松竹大船では溝口健二の戦後第一作『女性の勝利』の脚本を書いたのを手始めにして、昭和22年には吉村公三郎監督の『安城家の舞踏會』で脚本を書き、作品はキネマ旬報ベストテン第一位と高評価されました。以後年に7~8本くらいのシナリオをコンスタントに発表していて、終戦直後の松竹大船を支える脚本家のひとりとして活躍を続けますが、会社からシナリオの内容にクレームがつくようになります。昭和25年に松竹を退社した新藤兼人は、吉村公三郎、殿山泰司らとともに近代映画協会を設立、独立プロダクションの先駆けとなったのでした。

主演の乙羽信子は宝塚歌劇団の娘役トップとして、戦後には淡島千景と人気を二分していました。その淡島千景が昭和25年に松竹に入社して映画界に入ると、娘役として限界を感じていた乙羽信子も後を追うようにして大映に入社。大映では「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズで乙羽信子を売り出すことになりました。溝口健二監督の『お遊さま』で田中絹代に仕える侍女役を演じるなどしていましたが、本格的な主演作はこの『愛妻物語』がはじめてで、本作の力演によって乙羽信子は実力派女優として大いに認められることになっていきます。

本作は大映の配給ですが、近代映画協会が大映から請け負う形で製作していましたので、出演者は大映専属俳優ではなく劇団所属の俳優に頼ることになりました。殿山泰司は同じ近代映画協会の仲間ですし、主演の宇野重吉と大御所監督を演じる滝沢修、企画部長役の清水将夫は劇団民藝の中心人物で、小津映画に多く出ている菅井一郎も第一協団という俳優集団にいてフリーでした。大映専属だったのは父親役の香川良介くらいかもしれません。

【ご覧になった後で】主人公はほとんど新藤兼人自身がモデルだったようです

いかがでしたか?主人公の宇野重吉が大監督の滝沢修から「これはストーリーであって、シナリオになっていない」とダメ出しされる場面がありますが、これは新藤兼人が溝口健二から直接言われた言葉そのまんまのセリフなんだそうです。新藤兼人は溝口健二の『元禄忠臣蔵』の美術を担当していて、そのときに自作のシナリオを溝口健二のところに持ち込んだのですが、酷評されて自殺を考えるほど落ち込みました。そんな新藤兼人を支えたのがスクリプターをしていた女性で、名前を孝子といいました。孝子は新藤が召集されていたときに結核で亡くなっているそうですから、本作は新藤兼人が未熟なシナリオライターだった若き日を振り返るとともに早逝した恋人孝子に捧げる内容になっていたのでした。

なので滝沢修が演じた坂口監督というキャラクターは実は溝口監督のことだったわけで、菅井一郎の撮影所長や清水将夫の企画部長にもモデルがいたことは間違いありません。バックステージものですし、俳優たちが演技上手な人たちばかりなので、実に撮影所の雰囲気が生き生きと活写されていて、撮影所のステージから出てきたスタッフが暑い暑いといいながら水を飲む光景なんかは貴重な映像アーカイブにもなっていました。その場面で剣豪姿で腰かけていたのが大河内伝次郎だったんでしょうかね。カメオ出演だけらしいので、見逃してしまいました。

そして乙羽信子の慎ましくも凛々しい姿にはハッとさせられるような美しさがありましたね。後年の新藤兼人作品のイメージが強いので、本作のように輝くばかりの美しく気丈な女性を演じる乙羽信子はちょっと意外でもありました。やっぱり宝塚出身だけあって元は美少女なわけですし、舞踊で鍛えたからかもしれませんがスタイルも非常に良いので、結核でそのまま死んでしまう展開は観客から見ても哀れというか惜しいというか、失いたくないような存在感がありました。

戦時中の松竹、東宝、新興、日活の各撮影所の全景写真が出てきて、三社に統合されたという展開になるあたりは戦争の影を感じさせましたが、出征風景や空襲警報の場面がところどころ出てくるだけで、撮影所の仕事が戦争の影響を大きく受けるようなリアリティはあまり感じられませんでしたね。当時のシナリオは大御所監督の意見よりも映画法の検閲のほうを優先せざるを得ない状況だったでしょうし、戦意高揚的な内容でないと作れなかったはずです。新藤兼人が海軍に召集されていて当時の実態を体験していないからかもしれませんが、ちょっと物足りない感じがしました。それでも、強調したい場面ではドリーやクレーンによる移動ショットを使っていて、初監督作としての意欲は感じられましたね。

ちなみにこの映画は昭和26年9月7日に公開されたという記録が残っていて、その前日9月6日はサンフランシスコ講和条約が締結された歴史的な日でもありました。アメリカを中心とした西側諸国との講和を先行させる「単独講和」派とソ連など東側諸国も含めた「全面講和」派で日本国内の世論も二分されていたのですが、そもそもアメリカにおいても国防省が占領継続を主張していて、日本の独立自体を否定していたんだそうです。しかしそんな論戦を一掃したのが昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争でした。北朝鮮が韓国への侵攻を開始してソウルが陥落、韓国軍はあっという間に釜山に追い詰められてしまったのです。その後マッカーサーによる仁川上陸作戦などで戦争は膠着状態に入りますが、アメリカは早急に日本を東アジアにおける自立した防衛拠点として同盟国に加える必要があると判断するようになりました。経済復興を優先させた吉田内閣が沖縄だけでなく日本各地に米軍駐留を認めたことで国防省も態度を軟化させて、情勢は一気に「単独講和」に傾いていったのでした。

朝鮮戦争によって日本に駐留していた占領軍が朝鮮半島への出兵することになり、日本本土が空っぽにならないためにGHQは警察予備隊の創設を日本政府に要求します。これが自衛隊として拡大していくわけで、本作が公開された昭和26年前後は戦後日本の安全保障体制が外圧的に確立された時期でした。しかし日本映画はGHQの検閲下にあったこともあり、男女同権や自由恋愛の促進などきわめて日常的な民主主義的生活を教宣するような作品が主流となっていたようです。新藤兼人も松竹では社会派映画の脚本に注文がつけられたといいますから、大映で再出発することになった近代映画協会第一回作品としてはいきなり波風は立てられなかったんでしょう。自らの前半生記のようなプライベートなお話にするのが、時勢に合致した安全策たったのかもしれませんね。(A032923)

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