赤い手裏剣(昭和40年)

大藪春彦の時代劇小説を市川雷蔵主演で映画化、でもシリーズ化にはならず

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、田中徳三監督の『赤い手裏剣』です。主演の市川雷蔵は大映の看板俳優でしたから、ヒット作は必ずシリーズ化されていました。本作もあわよくば雷蔵の新しいシリーズを狙った浪人ものの時代劇ですが、残念ながら続編は作られることはありませんでした。原作はハードボイルド小説が得意な大藪春彦で、唯一の時代劇小説なんだそうです。どこかで見たお話だなと感じられるかもしれませんが、元をたどると別の小説に行き当たることになります。

【ご覧になる前に】田中徳三・宮川一夫は名監督を支えてきた名スタッフです

とある宿場町にやってきたのは伊吹と名乗る浪人。馬宿に馬を預けると伊吹は町の居酒屋で、この宿場町では「仏一家」「絹屋」「炭屋」の三組が縄張り争いをしていることを聞きつけます。懐に潜ませた手裏剣を使い、刀の腕前も一級品の伊吹は、三組の中で劣勢に立たされている「炭屋」に自分を売り込み、五十両で「仏一家」を潰すことを約束するのですが…。

田中徳三は大映に入社して京都撮影所で助監督をつとめていました。助監督としてついたのが溝口健二、市川崑、吉村公三郎、伊藤大輔という一流監督ばかり。特に溝口健二監督のもとでは『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』と映画史に残る名作で助監督にクレジットされています。溝口健二の没後50年記念国際シンポジウムが2006年に開催されたのですが、その催しに主催者の蓮實重彦と山根貞男からゲストスピーカーとして招待されたのが田中徳三でした。面白いのは、映画評論家の二人が溝口作品についての解釈をなんとか難解な方向に持っていこうとするのに対して、田中徳三が「いや、映画ってのはもっと楽しんで見たほうがいいいと思うよ」的な発言をしていたことです。その肩の力の抜け加減というか書斎ではわからない現場感というか、チーフ助監督として溝口健二の現場を仕切ってきた人の矜持が伺える話になっていました。そんな田中徳三が監督しているので、本作もまあ難しいことはどこかに置いておいて、まずは映画の世界に浸ってみましょうよという感じの、幅広に観客を迎え入れるような作り方がしてあります。

スタッフの中で注目はやっぱりキャメラの宮川一夫でしょうか。そのキャリアは戦前の日活京都撮影所から始まり、戦時統制で集約された後の大映京都では次々に有名監督とともに名作を輩出することになります。宮川一夫の名前が世界的に広まったのは、やっぱり黒澤明の『羅生門』でしょうか。当時太陽にキャメラを向けてはならないという不文律があったのを破って、森の中から木々の葉を通して見え隠れする太陽の光を世界ではじめて白黒画面に収めたのです。かたや溝口健二の映画では、川が霧で霞む中を登場人物たちがさまよう幻想的な映像づくりに貢献しました。また、市川崑の『おとうと』ではカラーフィルムの発色部分に銀を残す「銀残し」の技法で、発色が抑制されて少しすすけたカラー映像を表現することに成功しました。本作はカラー作品ですが、非常に落ち着いたマットな感じに画面が仕上がっていて、これも宮川一夫の撮影技法によるものなのかもしれません。

大藪春彦の原作を脚色したのは黒岩肇と野上龍雄。二人とも大映や東映で量産されていたプログラムピクチャーの脚本を大量に書いていた職業的シナリオライターで、ともにこれというオリジナルシナリオは残していません。逆に言えば原作ものの脚色には持ってこいの適役だったようで、短編で構成された原作「孤剣」のエピソードをうまくつなぎ合わせて映画用シナリオを仕立てています。

そして主役の市川雷蔵は大映オーナー永田雅一の養女と結婚して三年が経った頃の出演となります。永田に近い立場であったため、出演作品にも意見をするなど大映においてはプロデューサーの領域にも踏み込んだ仕事をしていたそうで、本作も雷蔵自らが承諾したうえでの出演だったのでしょう。昭和38年に始まった『眠狂四郎』シリーズが本数を重ねていた時期でもあったので、大映も雷蔵も別の時代劇シリーズとなるネタを探していたのかもしれません。本作の主人公伊吹は宿無しの浪人という設定ですから、宿場町の舞台を変えればすぐに次の作品が作れたことだったでしょう。しかし本作だけに終わってしまったわけですから、予想ほどヒットしなかったのでしょうか。あるいは雷蔵自身が伊吹を演じてみた結果、自分にはフィットしないタイプの主人公だと感じたのかもしれません。

【ご覧になった後で】『用心棒』にそっくりですが雷蔵は三船ではありません

見ていて「あれ、これどっかで見たことあるな」と感じられたのではないでしょうか。昭和36年に大ヒットをとばした黒澤明監督の『用心棒』とそっくりの展開で、『用心棒』は宿場町のふたつの組の争いを描いていましたが、本作はそれが三つの組になっているだけ。そこに無関係の浪人がやってきてヤクザ同士を戦わせるという設定はそっくり同じです。それもそのはず、『用心棒』の脚本のもとになったのはダシール・ハメットが1929年に発表した「血の収穫」で、大藪春彦もこの「血の収穫」の大ファン。本作の原作「孤剣」も「血の収穫」をベースにした作品でしたので、似るのもむべなるかなという背景があったのでした。

しかし『用心棒』に比べると、やっぱり黒澤明のダイナミックな痛快時代劇には敵わない感じですね。一番の要因は市川雷蔵と三船敏郎の俳優としての持ち味の違い。雷蔵は歌舞伎出身ですので、型を決めるのは誰にも劣ることはありません。だから眠狂四郎の円月殺法のような静的な剣の構えは雷蔵にぴったりとハマります。しかし暴れ者十数人を相手にして次から次へとメッタ斬りにしていくスピーディで大胆な殺陣は雷蔵の本分ではなく、それこそが三船敏郎にしかできない、誰にも真似できない動きの剣なのでした。だから伊吹が宿場町のはずれでならず者たちを次々に斬り捨てる場面に『用心棒』ほどの圧倒的スピードが出てこないんですよね。そこがやや惜しまれる点でした。

また本作の伊吹は狭い宿場町においてなぜかいつも神出鬼没でとらえどころのない行動をします。『用心棒』の三十郎でさえ敵に捕まって半殺しの目に合いますが、伊吹は南原宏冶演じる政の小刀を肩にくらうくらいで、いつも余裕があり過ぎる感じです。また、本作の舞台となる宿場町の構造が今ひとつ観客に伝わらないんですよね。三つの組がどのような位置関係でいがみ合っているのかとか、中立地帯はあるのかとか、町の立体構造がつかめません。たぶん本作は専用のセットではなく、大映京都の時代劇用常設セットで撮っているはずなので、それもやむをえないとは思いますけれども。

それにしても宮川一夫のキャメラは印象的でしたね。特に空を背景に雷蔵が馬に乗るオープニングとエンディングのショットがすばらしい出来栄えを示していました。雲や光の加減が抜群で、しかも色合いがややくすんでいてクリア過ぎないところがいいんですよね。音楽も西部劇風で、政の登場シーンでは必ずギターがかき鳴らされるのも効果的でした。脇役ではやっぱり三親分に注目です。小津安二郎常連の須賀不二男(絹屋)、「男はつらいよ」の芸人一座団長吉田義夫(炭屋)、そして『浮雲』のエセ新興宗教宗主山形勲(仏一家)。女優陣がちょっと小粒なので、こうした個性の強い脇役がなおさらに光る結果になっていました。(Y122321)

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