真昼の暗黒(昭和31年)

八海事件をモデルに冤罪の実態を告発したキネ旬ベスト1位の社会派ドラマ

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、今井正監督の『真昼の暗黒』です。正木ひろし弁護士によるノンフィクション本は、当時裁判が進行中だった八海(やかい)事件の犯人が冤罪であると訴え、ベストセラーになっていました。それを脚色したのが橋本忍で、冤罪を告発する社会派ドラマとして高く評価され、キネマ旬報ベストテンで第1位に選出されました。今井正監督はキネ旬で5回もベストワンを獲得していますが、本作は最も脂の乗った時期の代表作といえるでしょう。

【ご覧になる前に】最高裁から圧力がかかり自主上映を余儀なくされました

野次馬を押しのけて警察の鑑識課員たちが村の一軒家に入って行きます。老夫婦が惨殺された現場を見た鑑識課員は複数犯による犯行ではないかと所轄警察の主任に私見を述べます。遊郭で血の付いた上着を見つけられ、警察に逮捕され取調室に連行された小島は、ぼそぼそと前の晩に行った殺人の凶行について語り出しました。しかし金に困っての単独犯であるという自白を警察主任は受け付けず、仲間と一緒だったんだろうと決めつけてます。寝ることも食べることも許されない小島は、朦朧としながら仕事仲間の名前を警察に告げるのでしたが…。

八海事件は昭和26年1月に山口県熊毛郡で発生した強盗殺人事件のこと。惨殺された老夫婦の夫は刃物で頭をメッタ打ちにされ、妻は首を絞められ鴨居に縄で吊られていました。二人の殺され方が違っていたことや夫婦喧嘩の末の殺人・自殺に見せかけた偽装工作の跡があったことから、警察は複数犯による犯行だとして、逮捕した男に拷問を加えて共犯者の名前を無理矢理告白させました。あらたに4名が共犯として警察に捕まり、5人が裁判にかけられることに。山口地裁で全員が有罪とされた5人は控訴し、広島高裁では最初に逮捕された男が無期懲役で確定したものの、共犯だと名指しされた男性は主謀者と断定され死刑判決を受けたのでした。

高裁判決後に弁護団に加わったのが正木ひろし弁護士。戦時中に起きた「首なし事件」で警察による拷問を告発した経歴をもつ正木は、八海事件主謀者の無罪を確信して「裁判官:人の命は権力で奪えるものか」をカッパノベルスから出版して冤罪の可能性を広く社会に訴えました。これに対抗した山口地裁判事が有罪を主張する反論本を出版するに至り、八海事件は世間の耳目を集めることになったのです。

正木ひろしが書いた本を映画化しようと企画したプロデューサーの山田典吾は、東宝砧撮影所芸能部長を辞めて独立、現代ぷろだくしょんの創設者です。正木ひろしが書いた本に着目した山田は今井正を監督に据えて、橋本忍に脚本化を依頼します。『羅生門』で黒澤明に見い出された橋本忍は、『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』と黒澤組の共同脚本家として活躍する一方、東映や新東宝で時代劇を書くなど活動の幅を広げていた頃。山田・今井・橋本の三人は事件現場で徹底した実地調査を行い、裁判調書をもとに「絶対に無罪の線で行く」という方針で橋本忍はシナリオを完成させました。

「有罪だったらもう映画は作らない」という決意のもとで映画の製作が進行します。しかし控訴された裁判は広島高裁から最高裁に移っており、昭和30年1月に山田典吾は最高裁判所事務総局から「最高裁判所に係属している事件の映画化は賛成できない」と告げられます。あくまで製作を続ける山田に対して、最高裁事務総局は映倫に圧力をかけ、脚本の修正点を尋ねる山田と今井に対して内容ではなく映画化自体に賛成できないと主張。そんな逆境下で作品が完成すると、今度は配給会社の東映が最高裁に忖度して配給を辞退し、他の大手映画各社も手を引くことになりました。

結果的に自主上映を余儀なくされたことが話題になり、映画は大ヒットを記録することになりました。現代ぷろだくしょんの製作なので、俳優もスターは不在で、劇団民藝(草薙幸二郎・内藤武敏・加藤嘉北林谷栄・下元勉)劇団中芸(松山照夫・牧田正嗣)俳優座(矢野宣・左幸子)などの劇団出身者頼みでしたし、山村聰、菅井一郎、飯田蝶子、夏川静江、殿山泰司、山茶花究などフリーの俳優たちの協力なしでは成り立たなかったことでしょう。キャメラマンの中尾駿一郎も『また逢う日まで』から『橋のない川』まで東宝を独立してほるぷ映画を創設した今井正を支えた人ですし、音楽を提供したのは伊福部昭先生です。

本作でキネマ旬報ベストテン第1位に輝いた今井正は、『また逢う日まで』『にごりえ』『米』『キクとイサム』と計5回もベストワンを獲得した名監督でした。昭和28年の『にごりえ』なんかは小津安二郎の『東京物語』を抑えての1位ですし、本作の翌年には『米』『純愛物語』がワンツーフィニッシュで上位を独占しています。しかしながら平成21年(2009年)にキネ旬が実施したオールタイムベストではトップ30の中に今井正作品はひとつもランクインしていません(ちなみにベストワンは『東京物語』)。人気投票でたまに出てくるのは原節子版『青い山脈』ですから、本作も含めて時局性の高い作品が評価された傾向があるのかもしれません。

【ご覧になった後で】迫真性に引き込まれますがやや一面的になり過ぎかも

いかがでしたか?開巻の殺人事件の現場検証シーンから真に迫ったリアリティがみなぎっていて、ぐいぐいと映画世界に引き込まれていきます。橋本忍は回想シーンの挿入の仕方が本当にうまくて、自白するセリフの現在時間と凶行に及ぶ映像の過去時間とが見事にコントロールされているため、殺人の現場に立ち会っているような迫真性がありますし、事件の時系列や証拠品の残置などがはっきりと観客の記憶に留められるように提示されていました。

殺人事件の経緯が導入早々に明かされるのは、「絶対に無実」の線で行くと断言した通り橋本忍の巧妙な作戦で、単独犯で実行可能な状況を視覚的に明瞭に描写することが目的でした。なので松山照夫演じる小島の証言で事件の全貌が明らかになっているのに、加藤嘉の警察主任が「ひとりでできるはずがない」と言って複数犯の犯行にもっていこうとするのが非常な違和感が出てくるわけです。警察による複数犯への思い込みに端を発し、起訴したからには複数犯で通さなければならなくなった検察庁の威信を守ることで八海事件は冤罪事件へと変貌していったのですから、本作には犯罪推理ものの要素は皆無で、真犯人が真実を告白しているのに警察が事実を歪め、架空の犯人を作り上げてしまう警察機構と検察の在り方を糾弾するために本作が作られたのでした。

なので草薙幸二郎演じる植村は、前科がありながらも実直で誠実な人柄だと描かれますし、矢野宣演じる青木が「川で溺れた自分を救ってくれた恩人を殺すなんてできるわけない」と訴える姿には同情を禁じ得ません。無罪判決が出ると信じ込む飯田蝶子や夏川静江が植村に死刑を告げる高裁判決の場面は、肉親の情が画面から溢れ出るようで正視できないくらいに不当判決に怒りの気持ちが湧いてきます。そういう意味では、権力が間違いを正せないことに鋭く切り込んだ本作の製作意図は達せられたと思われますし、この映画を見た真犯人が真実を告白して誤認逮捕された少年たちを救うことになった「五番町事件」の結末も本作がもたらした正義のひとつだったことでしょう。

このような本作の立ち位置を十分に理解しるものの、現在的にひとつの社会派作品としての本作を鑑賞すると、描き方があまりに一面的過ぎて、警察や検察を鼻から悪者に仕立てようとする作為が逆に気持ち悪いものに感じられてしまうのも否定できないところです。『砂の器』の父親役をやった加藤嘉が複数犯の見込みを立てる悪徳警察官を憎々しく演じるその演技力には脱帽しますが、どこかで自分の判断を逡巡するような場面やショットを入れても良かったかもしれません。あるいは検察官の山茶花究は弁護側の論証を眼鏡をフキフキして聞き流すように描かれますが、痛いところを突かれて焦るみたいな表現を加えるべきだったと思います。すなわち本作では犯人・弁護側が絶対善で、警察・検察および裁判所側が悪の権化であるという極端な二元論に立脚していて、真実を追求するというよりも権力への抵抗と社会の分断を促すスタンスから離れられなかったのではないでしょうか。

内藤武敏は非常に好感の持てる抑制した演技で、青年弁護士を爽やかに演じていました。もちろんこの近藤弁護士は正木ひろしをモデルにしているので、本作におけるヒーロー的な存在になるのはやむを得ないことだったでしょう。それにしても検察側に反証するのにコマ落としをしてスラップスティック映画風に複数犯犯行の実現性を否定するのはやり過ぎのように感じられます。この描き方では複数犯説を採用した高裁の裁判官たち全員がアホであると断言しているようなものです。もちろん真実は単独犯だったわけですから高裁判決は間違っていて、それは十七年後の最高裁無罪判決で明らかになるのですから、高裁判決は正しくなかったんでしょう。でもそこをもっと深く追求して、これだけの反証がありながら複数犯判決が覆らなかった原因は何かを暴くのが本質的な課題解決につながるのではないかなと違和感を抱いてしまいました。

映画として非常にうまくできていますし、ところどころには泣かせる場面もあり、脚本の完成度と俳優の演技力でここまで迫真性のあるドキュメンタリータッチの社会派作品を作り上げたことは賞賛に値します。だからこそ、弁護側だけに思い入れした一面的な描き方に終わるのではなく、一度決めたら後戻りできない警察機構の在り方や下本勉の巡査だけでなく上位職ほど保身に走る実態を暴いてほしかったと思います。それにしても無罪判決までの十七年間はあまりに長く、取り戻すことは決してできるものではありませんね。(T091525)

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