東京ジョー(1949年)

GHQ占領下の東京でハンフリー・ボガートが旧日本軍の陰謀に巻き込まれます

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、スチュワート・ハイスラー監督の『東京ジョー』です。太平洋戦争終結4年後の1949年にGHQの占領下にあった東京を舞台に、ハンフリー・ボガート演じる主人公が事業を起こそうとして旧日本軍の陰謀に巻き込まれるクライムサスペンス作品です。早川雪洲が黒幕バロン・キムラ役で堂々とした貫禄を見せるのですが、実は早川雪洲の存在が本作を成立させたといういわくつきの作品でもあります。

【ご覧になる前に】早川雪洲はハンフリー・ボガートにとって憧れの的でした

富士山を見下ろしながら羽田空軍基地に到着した飛行機から降りてきたジョー・バレットは、指紋や写真などの面倒な入国審査を受けてから銀座にあるバー「東京ジョー」にやってきます。戦前にその土地を所有していたバレットは旧友のイトウに店を任せていて、軍役を終えて再会した二人は柔道の腕試しをしますが、二階の居室から聞こえてきたのはバレットの妻トリーナが得意としていた「These Foolish Things」のレコード。そこでバレットは戦争で死んだと思っていたトリーナがまだ生きているというイトウの話に驚くのでした…。

房総半島の七浦に生まれた早川雪洲は二十一歳のときに単身アメリカに渡り、妻の青木鶴子とともにハリウッドで『タイフーン』に出演します。鶴子を女優として起用していた東洋好きのトーマス・H・インス監督が雪洲の舞台を見たのがきっかけだったのですが、その雪洲を凄みのある悪役として『チート』に主演させたのが当時のハリウッドを代表する監督セシル・B・デミルで、白人男性にはないセクシーさが観客に大受けしました。イタリア人のルドルフ・ヴァレンチノとともに雪洲はサレント期のハリウッドで大スターへの階段を昇り詰めていくことになるのです。

当時の映画ファンの間では「悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート」という合い言葉があったほどで、早川雪洲は部屋数32室、250人のダンスパーティが開ける大広間を擁したハリウッド大通りの大邸宅を購入します。のちに日本に帰国しハリウッド美容室を創設するハリー牛山(牛山清人)や戦後日本映画で監督として活躍することになるジャッキ阿部(阿部豊)などの内弟子も屋敷に起居していました。チャップリンが撮影所に行く前に立ち寄ってコーヒーを飲み、ヴァレンチノが鶴子にイタリア料理を教えにきたという雪洲の家は「グレンギャリ城」と呼ばれ、日本領事館が来客をもてなす迎賓館として広間を借りるほどだったそうです。

そんな早川雪洲を憧れのスターとしてあがめていたのがハンフリー・ボガート。第二次大戦中の『マルタの鷹』『カサブランカ』、戦後すぐの『三つ数えろ』『黄金』でハリウッドを代表するスターになっていたハンフリー・ボガートは、少年時代の憧れの的だった早川雪洲との共演を強く希望し、コロンビア・ピクチャーズは日本支社に早川雪洲にコンタクトを取るように連絡します。かつて「雪洲プロダクション」に合弁をもちかけたロ・コール社が雪洲にチャップリン以上の生命保険をかけ、保険金を得るために雪洲の命を狙った殺人未遂事件を起こすという事態となっていて、トーキー時代に入ったときに雪洲はハリウッドを去り、日本に帰っていたのです。しかし日本支社からの返事は「早川雪洲行方不明」というものでした。

実は雪洲は一度日本に戻ったものの、『チート』で悪役を演じたことで日本人からバッシングを浴びていたのです。その後、ヨーロッパに渡り、日本に戻ったりしながら、第二次大戦前にフランスに居を構えます。ナチスに占領されたフランスでの映画づくりは思うように行かず、雪洲は得意だった絵の才能を活かして個展を開くなどして糊口をしのいでいました。コロンビア・ピクチャーズは雪洲を探し出したら賞金を出すという新聞広告まで出して、雪洲がパリにいることを突き止めます。講和条約発効前に自由に海外渡航できない時代にもかかわらず、フランス政府に渡米許可を出させて、ハリウッドに呼び戻し、ようやく『東京ジョー』の製作が開始されたのでした。

1949年当時のアメリカには、自分たちが占領する敗戦国日本を意識的に取り上げて世界的にアピールする考えがあったそうで、本作が富士山の全景から始まるのはその象徴かもしれません。敗戦後の日本での撮影が最初に許可された映画だったようで、確かに戦後まもない時期の東京でロケーション撮影された銀座の風景などが映像として残されている点で貴重な作品になっています。

監督のスチュワート・ヘイスラーは、ゲーリー・クーパーの『ダラス』などを監督した後は、TVドラマの演出に移っていった人みたいです。脚本家もキャメラマンもそれほど有名な人はいないようで、ハンフリー・ボガート主演作にしてはB級スタッフで製作された低予算作品といってよいでしょう。イトウ役で出ている島田テルだけは『007は二度死ぬ』の大里化学(ホテルニューオータニの建物が本社ビルになっていたあの会社)の社長役として有名ですね。

【ご覧になった後で】早川雪洲の「ああ、そう」は昭和天皇の口癖でしょうか

いかがでしたか?B級作品と思いきや、なかなか脚本がしっかりしていて90分の上映時間をきっちり楽しむことができました。ハンフリー・ボガートの妻だったフローレンス・マーリーが一方的に離婚してGHQの法務担当アレクサンダー・ノックスと再婚しているという設定はやや疑問でしたが、イトウから紹介されたキムラ男爵こと早川雪洲が戦時中に妻トリーナが日本軍に協力した過去を暴くと脅しをかけて、やむなくボギーが輸送飛行機会社を立ち上げるプロセスも面白かったですし、表向きは冷凍カエル運搬で実はソウルから旧日本軍の要人を再入国させることが目的だったというからくりもよくできていました。

トリーナの七歳になる娘が登場し、旧日本軍要人の拿捕と誘拐された娘の救出という二つのラインが映画の終盤を盛り上げることになります。ひと芝居うって旧軍関係の下っ端にアジトを案内させようとするものの、雨どいがはずれて落下死する展開は不要のような気がしますし、娘の監視役が図体のでかいカンダだけというのはいかにも手落ち過ぎて、低予算っぽい安っぽさが散見されます。それでも夜間の車のライトや街灯を活かしたフィルムノワール的な映像はそれなりの雰囲気を出していて、トリーナの夫役のアレクサンダー・ノックスやGHQの上官たちが少々ヒロイックに描かれ過ぎているところはプロパガンダ的ではあるものの、まあまあ許せる範囲なのではないでしょうか。

日本人の描かれ方は前半では妙に敗戦国の卑屈さが前面に出過ぎていて違和感がありました。特にボギーとイトウの出会いの場面はカンダがいる前だからか本音を言えない状況が曖昧に感じられて、その後で柔道の技の掛け合いですぐになごんでしまうのも逆に大丈夫なのかなと思わされました。また日本語のセリフはあまりに丁寧過ぎてわざとらしさが目立ちますが、中国語でも韓国語でもなくちゃんとした日本語だったので合格点としておきましょう。それでもやっぱり「ハラキリ」はさせないと気が済まないようで、なぜイトウが切腹しなきゃいけないのか全く理解できませんが、外国から見た当時の日本は「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」のイメージしかなかったんでしょうね。

笑ってしまったのが、ボギーの輸送会社に入社する旧日本軍パイロットが「カマクラ・ゴンゴロウ・カゲマサ」と名乗ること。日本の観客ならすぐに歌舞伎十八番の「暫」で市川團十郎が演じる鎌倉権五郎景政のことだとわかってしまうのですが、アメリカ人には普通の日本人の名前に思われたのでしょうか。けれども終盤になってこの人物がGHQが送り込んだ諜報員だということが明かされます。歌舞伎でいうところの「実は~」という「見顕し」を巧みに引用したのではなかったかというと、ちょっと深読み過ぎかもしれません。

そんなわけで多くの日本人(あるいはアジア系)俳優が多く登場しますが、その中でも存在感が際立っていたのがやっぱり早川雪洲で、表情ひとつ変えずにハンフリー・ボガートに飛行運搬の仕事を依頼する際の凄みは早川雪洲にしか出せないものがありました。本作がB級作品でありながらも、それなりの内容に仕上がっているのはボギーと早川雪洲が出演しているからであることは間違いないでしょう。でもなんで早川雪洲演じるバロン・キムラは相手に対して「ああ、そう」と答えるのでしょうか。言うまでもなく「ああ、そう」は昭和天皇の口癖で、熊本巡幸の際に「あれが阿蘇山です」と説明されたのに対して「ああ、そう」と答えたというエピソードがあるくらいです。

戦後、敗戦に打ちひしがれた国民を励ますために日本各地を天皇自らが赴き人々と触れ合ったのが「昭和天皇の戦後巡幸」でした。特に昭和24年元日より国旗掲揚が許されるようになり、多くの人々との問答で「ああ、そう」を連発したところから、この口癖が一般に知られるようになったのです。本作は1949年に公開されているので、時期的には合致しますから、天皇の「ああ、そう」がGHQ経由でコロンビア・ピクチャーズの製作現場に伝えられ早川雪洲が即興的に返事として取り入れた、という説はいかがでしょうか。知りませんけど。

一方のボギーは、銀座を移動するシーンでは背景があきらかにスクリーンプロセスですし、東京のロケーション撮影はおなじみのコートと帽子姿のスタントマンを使っているのが明らかです。たぶん東京には来日していないのでしょうけど、ボギーの望みは早川雪洲というかつての憧れのスターと共演することであって、日本を訪問することではないわけですから、まあ仕方ないところですよね。

ちなみに劇中では日本人歌手がバー「東京ジョー」の店内で歌う「These Foolish Things」は、ジャック・ストレイチー作曲、エリック・マシュヴィッツ作詞のジャズのスタンダードナンバーで、1936年に著作権登録されている曲です。昭和11年ということは、戦争が始まる前に東京ジョーでトリーナが歌っていたというシチュエーションにぴったりタイミングが合うことになりますが、映画で取り上げられたのはたぶん本作が初めてではないかと思われます。(A031625)

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