心中天網島(昭和44年)

近松門左衛門の人形浄瑠璃を篠田正浩監督が様式的に映画化したATG作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、篠田正浩監督の『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)です。近松門左衛門作の人形浄瑠璃が初演されたのは享保5年(1720年)のこと。その原作を文楽の黒子を登場させたり美術セットに浮世絵を使用したりして様式的に映画化したのが篠田正浩でした。このような実験的な作品が製作できたのは、ATG(アート・シアター・ギルド)が低予算での映画製作事業に進出していたからで、本作は映画評論家からも高い評価を得て、昭和44年度のキネマ旬報ベストテンで見事に第1位を獲得したのでした。

【ご覧になる前に】脚色には篠田のほか富岡多恵子と武満徹も参加しています

川の土手に敷かれた筵には心中して死んだ男女の遺体が置かれています。太鼓橋を白装束の信徒の集団とすれ違いながら渡る男は、紙屋を営む治兵衛。治兵衛が曾根崎新地の河庄の軒下で、馴染みの女郎小春を抱きしめながら、女房子供がいながら深い仲となった我が身を嘆き、小春とともに死ぬしかないと決心します。しかし河庄に呼ばれた小春は客の侍から治兵衛との関係を問われると、言い寄られているだけで情死など考えていないと答えます。その話を盗み聞きしていた治兵衛のところに、小春を身請けしようとしている商人の太兵衛が通りかかり、商売がうまく行かない治兵衛をからかうのでしたが…。

「心中天網島」は曾根崎新地で実際にあった情死事件を近松門左衛門が人形浄瑠璃にした作品で、近松の数多い世話物の中でも傑作と評されていて、現在でも文楽で繰り返し上演されていますし、歌舞伎では見どころの多い「河庄」の場がよくかけられています。明治期に初代中村鴈治郎が治兵衛を演じた「河庄」は鴈治郎の当たり役となり、二代目鴈治郎、藤十郎と受け継がれ、現在でも頬かむりして花道を出てくる治兵衛を当代の鴈治郎が演じ続けています。

映画化にあたって近松の戯曲を脚色する際、篠田正浩は富岡多恵子と武満徹に協力を頼みました。富岡多恵子は詩人として活動を始め、H氏賞や室生犀星詩人賞を受賞した人。小説を書くようになるのですが、小説家として有名になるのは本作で脚色を担当した後の話ですので、篠田正浩は詩人としての富岡多恵子を共同シナリオライターに起用したことになります。また武満徹はもちろん本作の音楽を担当していますが、後にも先にも武満徹がシナリオにクレジットされたのは本作だけ。どこまで共同作業に加わったのかはわかりませんけど、セリフを書くというよりも構成にアイディアを出すとか、映画化にあたってのアドバイザー的役割だったのではないでしょうか。何の根拠もありませんけど。

治兵衛を演じる中村吉右衛門はクレジットでは東宝専属になっていて、もとは松竹にいた実父松本幸四郎が染五郎(現・白鷗)と吉右衛門とともに東宝に移籍したのが昭和36年のことでした。東宝の菊田一夫に招かれて東宝歌舞伎を旗揚げするためでしたが、吉右衛門は昭和49年に父と兄を残して松竹に復帰し、古典歌舞伎と向き合うことになります。なので本作での主演は、歌舞伎役者として大きく大成する以前のことでした。一方で小春とおさんの二役を演じる岩下志麻は言うまでもなく篠田正浩の妻で、篠田とともに立ち上げた独立プロダクションの表現社は、昭和42年に『あかね雲』を製作しています。本作は表現社としては監督篠田正浩・主演岩下志麻の第二作にあたるわけです。

当時の日本映画界は坂道を転げ落ちるようにして観客が減少していた時期。映画館入場者数はピークだった昭和33年の4分の1になっていました。メジャー5社はそれぞれにリストラを進めていた時期で、日活や大映は直営映画館を売却して興行部門が弱体化し、東宝は子会社化することで製作部門を切り離しました。そんな流れに抗うようにして芸術志向の映画を一般の興行路線に乗せようとしたのがATG(アート・シアター・ギルド)でした。ATGがとった手法は、製作費1千万円を独立プロダクションと折半して出資し低予算で映画を作り、東京と大阪のアート系映画館で興行をうつというもの。折半ですから5百万円あれば映画製作がスタートできますし、日劇文化劇場や新宿文化劇場、北野シネマといった若者が集まる映画館で確実に上映ができるという製作と興行の直結型システムを目指したのでした。

この『心中天網島』はアート・シアター興行における大ヒットとしても日本映画史に名を残していますが、篠田正浩がキネマ旬報で大島渚と対談した際には「当たったって言ったって、たかが知れている」と述べていて、4千万円が入って収入もATGと折半ですから、表現社には2千万しか入ってこないとボヤいています。ATGはもとはアート系外国映画の配給からスタートした会社で、日本映画では三島由紀夫の自主製作映画『憂国』を世に送り出したり、勅使河原宏の『おとし穴』や羽仁進の『彼女と彼』などを劇場ルートに乗せていました。どれも興行的には不発だったのですが、昭和42年に大島渚の『忍者武芸帖』が大ヒットすると、ひょっとすると日本映画も結構行けるんではないかということになり、今村昌平の『人間蒸発』が1千万円スタイルの第一回作品として製作されます。

しかしATGの初代社長井関種雄は『人間蒸発』の興行を日活に売ってしまったそうで、まあATGとしても金になる道があればそちらに流れるのは仕方なかったんでしょう。大島渚の『絞死刑』はATG系で公開されて好評だったようですが、二番館興行を東宝に任せてしまい、契約上映館が増えたもののその分プリントを配給しなければならないので経費が増えてしまったんだとか。そんな紆余曲折があった後に、羽仁進『初恋・地獄篇』、篠田正浩『心中天網島』、大島渚『少年』とATGを代表するような作品が連打されることになり、日本映画の新しいムーブメントのようなものが立ち上がっていくのでした。

【ご覧になった後で】公開当時は画期的だったんでしょうが退屈な映画でした

いかがでしたか?キネマ旬報ベストテンでは第1位になっただけでなく、日本映画監督賞、主演女優賞も受賞しており、毎日映画コンクールでも日本映画大賞、女優主演賞、音楽賞、録音賞と各賞を総なめした記録が残っています。近松ものだったということや、歌舞伎や文楽でもおなじみだったことも高評価の要因になったんでしょう。また浜村純が演じる黒子が映画に登場して、不要になった小道具を片づける演出や、浮世絵や墨絵を大胆に使い、江戸時代の家屋や街並みを様式化して表現した粟津潔の美術セットも画期的で前衛的だと受け取られたのだと思われます。日本映画界の凋落傾向を打破するような作品として、公開当時は特にアート系の界隈からもてはやされたことだったでしょう。

しかしそれから長い年月が経ってから冷静に見てみると、確かに実験的で面白いなと感じるところもありますが、どちらかといえば退屈で、見ているうちに寝落ちしそうになるのをなんとか我慢して最後まで見ることができました。別に難解な内容ではないので、道ならぬ恋にはまった男女が情死するまでを描く悲恋物語として見ているわけで、結局のところ当時は画期的に思われたさまざまな仕掛けが、逆に現在的には余計なお世話で邪魔な要素にしか感じられなかったせいかもしれません。黒子の存在は、治兵衛と小春が死を選ぶのが影から操られているような表現を狙っていたのだと思いますが、黒子が運命のメタファーだとすると、小道具の後片付けなんかはさせずに、小刀を渡すとか小春の番をしている藤原鎌足の耳を塞ぐとか、主人公二人を情死に向わせる道化役にしたほうが、より効果的だったんではないかと思ってしまいました。

それでも文楽や歌舞伎では実現できないものを、映画でこそ表現できていた点には注目でした。それは道行の場面で、墓場に着いた二人はともに髪の毛を切って死ぬ決意を示し、固く抱きしめ合います。その抱擁はそのまま二人にとっての最後の情交へと発展していき、互いの体を激しく求め合うのです。一緒に死のうとする男女が最後に何かをするとしたらもうそれしかないわけですが、歌舞伎にしても文楽にしても道行にはそれらは決して描かれたことはありませんでした。なにしろ舞台の一番の盛り上がりで観客を感動させる場面ですから、そこにそっち系の要素は必要ありません。

でも現実的に考えてみれば、死ぬ前にもう一度お互いの存在を確かめ合いたいと思うのが人間の性(さが)なのでありますし、最後だと思えば思うほど最高のエクスタシーを得られたことでしょう。そして事が終わって心地よい疲れの中で眠ってしまい、明け方近くに目覚めた二人は「夜が明けてしまう!」と言って急いで心中を実行するのです。このあたふた感にリアリティが込められていました。映画化にあたっては、富岡多恵子も武満徹も篠田正浩も、道行こそをリアルに描きたいと考えたのではないでしょうか。なので、本作の見どころは、岩下志麻が太ももを露わにして大きく開く墓場の場面にあったことは間違いありません。

文楽の楽屋裏の映像に篠田正浩の電話の声が重なるドキュメンタリータッチのタイトルバックは、映像アーカイブとしての価値も高く、巧みに首の動きを確かめる唇の厚いあの人形遣いはなんて人なんでしょうね。篠田正浩が電話で話しているのも道行を盛り上げるための美術セットの打合せのような内容だったので、タイトルで映画のネタを明かしているととれないこともありません。

退屈だと言ってしまいましたが、この映画が1千万円の予算で完成できたのは、様式的な描き方を選択したからで、低予算という制約条件を逆手にとってアート色を打ち出した篠田正浩の戦略だったわけですよね。河庄の場面では室内セットや店先の小道も作り込んであるわけでなく、現代アート風な造作になっていて、あれを東映や大映の時代劇のようにしっかり作ったらそれだけで1千万円の大半を使い果たしてしまうでしょう。黒子が小道具を片づけるのもある意味では製作費のローコスト化に効果的だったからかもしれず、中村吉右衛門はともかくとして、小松方正や滝田裕介、加藤嘉、浜村純などはほとんどノーギャラに近い契約での出演だったんではないでしょうか。いずれにせよ、それだけのエネルギーが本作に込められていたわけですから、面白い映画ではないですけど、低迷していた日本映画界をなんとかしようという当時の映画人たちの息吹きを感じるのが、正しい見方かもしれませんね。(U081524)

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