新馬鹿時代(昭和22年)

前編・后編を合わせると2時間46分にも及ぶエノケン・ロッパ初の共演作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、山本嘉次郎監督の『新馬鹿時代』です。昭和22年10月12日に前編が公開され二週間後の10月26日に后編(クレジットタイトルではこの漢字が使われています)が続いて劇場にかかりました。主演の古川ロッパと榎本健一はそれぞれロッパ一座、エノケン劇団を主宰して舞台に立っていましたが、戦前は決して共演することはありませんでした。しかし戦後の暗い世相を笑いで吹き飛ばそうと昭和22年4月に日比谷の有楽座で合同公演が実現し「弥次喜多道中膝栗毛」は大ヒットを記録、二ヶ月のロングラン公演となりました。その余勢を買って東宝が映画化したのがこの『新馬鹿時代』の前編・后編で、合計すると2時間46分にも及ぶ長編喜劇となったのでした。

【ご覧になる前に】監督と製作は東宝を代表する山本嘉次郎・本木壮二郎です

多くの露天商が客を集める闇市の横にある交番では、小原庄之進巡査が闇市撲滅を呼びかけるマイク放送を行っていますが、カストリを抱えた金次郎を見つけると巡査は金次郎を逮捕しようとして街はずれまで追いかけ回します。逃げる金次郎がばったり出会ったのが姉のあや子で、15年ぶりに再会した姉の貧しい暮らしぶりを見て金次郎は闇で調達した米をあや子に差し出します。あや子が幼い庄太を食べさせるのに苦労しているのは夫が闇市での物資調達を禁じているからで、その夫というのは金次郎を追いかけた小原巡査だったのでした…。

古川ロッパは映画の編集者を経て芸人になり昭和8年に劇団笑いの王国の旗揚げに参加、浅草でアチャラカ芝居と呼ばれる喜劇を上演していました。東京に進出したPCLに移って劇団名もロッパ一座とすると、得意芸の声帯模写やミュージカル仕立ての喜劇でホワイトカラー層から人気を得るようになり、やがてはPCLの映画にも出演するようになります。PCLが東宝になると『ロッパのガラマサどん』などの喜劇映画が次々に製作され、古川ロッパは芸能界の大物喜劇人としての立場を確立していったのでした。

かたや榎本健一も浅草の出身で、軽い身のこなしが注目されて早くから映画にも出演し、PCLと東宝で「エノケンの~」という名前を売りにした作品が2~3ヶ月おきに公開されるほどの人気コメディアンでした。加えてポリドールレコードから発売された和製ジャズ歌謡曲もヒットを繰り返して、名実ともに日本を代表する喜劇役者になっていきます。戦後は歌手の笠置シヅ子を相手役にして有楽座を連日満員にしていたそうですが、そこに出てきたのがそれまで一度も共演したことのない古川ロッパとの共同公演の企画でした。これが結果的に「戦後大衆演劇の最高のイベント」と評されるほどの人気を呼び、東宝で本作が作られることになりました。

映画の舞台は戦後すぐの闇市ですが、戦時下に制定された昭和17年の食糧管理法が戦後にも効力を発揮していて、主要な食品は卸値も小売値も統制され、人々は配給制だけでは食べていくことができなくなっていました。元々は物々交換の露店から始まった闇市は、食品だけでなく横流し物資も含めて次第に拡張し、ついには的屋が商売する場所の管理を仕切って売上のピンハネをするようになっていきます。こうした闇行為を取り締まるのが警察の役目で送検された者は裁判にかけられたのですが、山口良忠という裁判官が闇で捕まった人を裁く自分が闇市を利用するわけにはいかないという信念から、配給食だけでの生活を自らの強いたせいで栄養失調で亡くなるというニュースが世間を賑わせました。しかしGHQは闇市の存在を知らしめるような報道を厳しく規制していて、闇市は戦後社会における必要悪のような存在として経済が安定するまで人々に食料や物資を売り続けていたのでした。

監督の山本嘉次郎は日活からPCLに移籍した当時からエノケンものを連続して監督していました。戦争が始まると東宝は軍部に接近して陸軍や海軍の協力なしでは作れない国策戦争映画でヒットを飛ばすようになり、『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』などの大作は山本嘉次郎が監督しています。山本嘉次郎といえば戦時中でも『馬』などの秀作を監督して当時助監督だった黒澤明を育てた人物というイメージがある一方で、国策映画に積極的に協力し当時の戦意発揚に貢献したことをよく思わない人たちからは評判がよくないようです。まあ戦時下の行動を個人の責任に帰するのはなかなか難しいことだとは思いますけど。

製作者としてクレジットされている本木壮二郎は昭和13年に東宝に入社して最初は助監督などをやっていましたが、プロデューサーシステムを中心にしていた東宝で製作主任を勧められて、戦後には黒澤明監督作品を企画・製作する名プロデューサーとして活躍しました。あの『生きる』や『七人の侍』も製作は本木壮二郎で、完全主義者の黒澤明が大幅に予算を超過して撮影を続けるのを本木壮二郎が東宝経営陣と掛け合ったりしてなんとか完成にこぎつけていたらしいのですが、一方ではプライベート面で金使いが荒く、会社のお金を私用に流用していた事実が発覚することとなりました。この事態は黒澤明もかばうことができず、本木壮二郎は東宝を退社。以降は女性の裸を売り物にしたピンク映画の道を歩むことになるのでした。

【ご覧になった後で】動きと人情で見せる前編に対して后編は暗くなりました

いかがでしたか?舞台の大ヒットを受けて、東宝は一回限りの劇場公開ではもったいないと思ったんでしょうか、ひとつの話をわざわざふたつの映画に分けて、2週間ずつ公開して興行収入を倍にする計画だったようです。昭和22年の興行成績は記録がないので不明ですが、有楽座の舞台は東京の人しか見られないわけなので、ロッパとエノケンの初共演ということで話題を呼んだのではないでしょうか。けれども前編と后編に分けてしまったことで流れが分断されてしまった感が強くて、エノケンとロッパが追いかけっこをしながら配給制度のもとでの人情噺をからませた前編がなかなか好感が持てる一方で、大金持ちになった二人が豪遊したり商売に手を出したりして結果的には失敗してまじめな仕事に戻るという后編は騙し騙されの繰り返しなので見ていて気分が悪くなる(特にロッパにたかるあき子の笑い声の不快さ!)だけで、見終わってみると暗く後味の悪い印象になってしまいました。

本作は現在的にはロッパ・エノケン初共演作としてよりも、三船敏郎のデビュー二作目としての価値が認められていまして、三船敏郎本人は『銀嶺の果て』と本作のどっちが先だかよくわからない風な発言をしたりしています。確かに『銀嶺の果て』が昭和22年8月公開で本作は10月公開ですから、撮影の順番でいうともしかしたらほぼ同じ時期にかぶっていたのかもしれません。そんな順番はともかく闇市を取り仕切る影のキーマン的存在を三船敏郎はなんとも泰然と気張らずに演じているんですよね。デビュー二作目の新人とはとても思えない余裕があって、こういう大物感は他の俳優にはちょっと出せない三船敏郎ならではのオーラのようなものがありました。

その三船敏郎が后編では単なる悪役として描かれているのも后編が暗いイメージになってしまった一因だと思われますが、本来のロッパとエノケンの持ち味は正直な巡査と身軽な闇屋という前編に生かされているわけで、特に二度繰り返される東京下町での追いかけっこは終戦直後の東京の街並みをしっかり映像に残したという意味でも十分に見応えがありました。ほとんどの家屋がバラックのような掘っ立て小屋だったり勝鬨橋だけが跳ね上がり橋としての威容を誇っていたりと、見渡すとほとんど何もさえぎるものがないくらいスカーンと抜けた都心の空間が、猥雑な闇市の表現とともに活気のある前編を印象深くしています。

ちなみに闇市をとらえたかなり長めの移動ショットは闇市のセットがいかに大きく相当な人数のエキストラを動員して撮ったものかを伺えるものでしたが、松山崇が作ったセットを『新馬鹿時代』の闇市のシーンだけで取り壊すのももったいないということで、黒澤明が『酔いどれ天使』で使い回しすることになったのは有名な話のようです。たぶんそれも両作ともプロデューサーが本木壮二郎だったからこそ実現したんではないかと思われます。

それにしてもエノケンの動きは軽快ですばやく、まるでコマ落としで見てるかのようなスピード感がありますねえ。小さい身体なのに顔が大きくて体型自体がアクションコメディアン向きなんでしょうけど、ビルの屋上を歩いたり非常階段をスイスイ上ったりと、アメリカのサイレント喜劇を見ているようでした。そんなエノケンが本作の5年後には足を怪我して10年後には義足となるのですから、運命というものは本当に残酷なものです。

かたやロッパは巡査役も大富豪役も華族出身の鷹揚な態度で演じていて、さすがに小国英雄が脚本を書いただけあってロッパにぴったりのキャラクターを用意してもらっていました。前編の子供をからませた人情ものの風情が基本的には良かったのですが、后編で唯一ロッパらしい味が出ていたのはラスト近くで巡査に戻ったロッパが「戦争に負けてみんな馬鹿になっちまったのか。悪人を捕まえるのは警察じゃなくて、国民が捕まえるんだ」というセリフをしみじみとつぶやくところでした。たぶんこのセリフと闇市不要という多数派が的屋稼業の連中を追い払う場面が、当時検閲していたGHQから合格点をもらう決め手になったのかもしれません。

本作は東宝が製作していて、戦後すぐの東宝はあの「東宝争議」の真っ最中だったのではないかとも思ったのですが、昭和21年に第一次と第二次の争議があって、後に「来なかったのは軍艦だけ」といわれるほど有名になった東宝争議は翌23年8月の第三次争議だったようです。なので昭和22年の後半は東宝でも普通に映画を作ることができたほんのわずかな時期だったわけです。東宝は戦時中に軍部にすり寄り過ぎた反省もあって戦後になると逆に急進的になった労働者側が経営に参加させろと要求したことで大きな争議に発展していき、本作の山本嘉次郎も本木壮二郎も争議が激化すると一時的に東宝を離れることになります。冒頭ののんびりとしたアニメーションによるオープニングクレジットに象徴されるように、本作はそんな波乱を迎える東宝のほんの少しのおだやかな時期の一作なのでした。(Y100922)

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