女が階段を上る時(昭和35年)

成瀬巳喜男監督・高峰秀子主演のコンビが銀座のバーで働く女たちを描きます

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』です。高峰秀子は『秀子の車掌さん』で成瀬巳喜男監督作品に初出演して以来、生涯で17本の成瀬作品に出演してきましたが、本作はその10本目にあたります。銀座のバーで働く女たちを主人公にした一種の風俗もので、当時においては当たり前だった女性の夜の職業がつぶさに描かれています。高峰秀子は衣裳も担当しているので、高峰秀子がセレクトした女たちのきものやドレスも見どころになっています。

【ご覧になる前に】オリジナル脚本を書いた菊島隆三が製作も担当しています

銀座のバー「ライラック」では昼下がりに女たちが集まって仲間の結婚を祝っていますが、ママをつとめる圭子はマネジャーの小松とともにオーナーに呼び出されて、売上の低迷は上得意だった美濃部が新しく店を出したユリのバーに取られているからだと責められています。その夜、小松が呼び出した美濃部が店に来て、一緒にユリに店に行くことになった圭子は、そこで密かに慕っていた藤崎が飲んでいるのを見ます。酔いつぶれた純子を自分のアパートに連れ帰った圭子は、夫を事故で亡くして小松に誘われて5年前から夜の街で働くようになったと話すのでした…。

オリジナル脚本を書いた菊島隆三は八住利雄に認められて戦後の争議中に東宝脚本部に入社しました。東宝争議で映画が撮れなくなった黒澤明は成瀬巳喜男らとともに創設した映画芸術協会に所属していましたが、黒澤が新東宝で監督した『野良犬』で菊島隆三は黒澤とはじめてコンビを組んで脚本家としてデビューを果たします。以後、『醜聞』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』と黒澤作品で共同脚本チームの一角には常に菊島隆三の存在がありました。本作はそんな黒澤作品とは全く毛色の違う女性を主人公にした風俗ものですが、菊島隆三は千葉泰樹監督の『鬼火』など、世相を反映しながら社会の裏側で生きる人々を題材にして綿密な取材をベースにした脚本を多く残しています。

菊島隆三は黒澤プロダクションが発足すると取締役に就任して『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』ではプロデューサーとしても映画全体の製作管理を担当することになります。本作は菊島隆三にとって初めてのプロデュース作品ですので、その経験が昭和30年代後半に黒澤明が連続して大ヒットを飛ばす作品づくりの練習にもなったのではないでしょうか。しかし日米合作体制がうまくいかず黒澤明が途中降板となった『トラ・トラ・トラ!』では黒澤プロダクションに損害賠償が発生しないよう黒澤ノイローゼ説を唱えて事後処理にあたったため、黒澤明とは絶縁状態になってしまったんだとか。そういう意味では黒澤明に見い出され、黒澤明に突き放された脚本家人生だったといえるかもしれません。

黒澤と同じく戦後映画芸術協会に所属していた成瀬巳喜男はそのときの契約が残っていた大映で『稲妻』『あにいもうと』を撮りましたが、争議が終結した後は基本的に東宝に復帰しましたので、昭和29年の『山の音』以降の全作品を東宝で作っています。黒澤明は自分のイメージ通りに作品を完成させるまでは製作予算や撮影期間などの制約は一切構わず自分の我を貫くタイプの映画監督でしたが、成瀬巳喜男はその正反対で、会社から指定された予算と期間の中できっちりと作品を完成させる職人的仕事を貫くタイプでした。映画会社幹部にとっては誠に都合がいいというかありがたい存在だったそうですが、成瀬巳喜男にいわせると自分の満足のいく作品を追求していたらキリがないから、消えていくものと割り切って職人仕事に徹するしかないのだという諦念のようなものがあったようです。

撮影開始は午前9時と決まっていて、その開始時間に合わせてスタッフは撮影に入れる準備を整える必要がありましたが、12時になるときっちりと昼食の時間をとり、午後5時にはもう完全にその日の撮影が終了している状態が成瀬組の日常でした。時間通りに家に帰れるのでスタッフは喜ぶ一方で、残業代を稼いで安月給をなんとかしのいでいる人も多く、そんなときには成瀬巳喜男はわざと日曜日に撮影日程を組んで休日手当てが出るようにしたんだとか。管理一辺倒ではなく自分も若い頃はそうだったからという温情派の一面もあったんですね。

撮影期間を守るということは効率的に撮影カットをこなしていくということになるので、例えば二人が会話する切り返しのショットなどは必ず一方向からの全ショットを撮り終えてから逆方向にキャメラを設置して切り返し用のショットを撮るようにしていました。俳優からすると演技はブツ切りで切り返し作業後に同じ芝居を繰り返さなければならないのですが、順撮りで交互にキャメラを設置し直していたらその準備だけで大変な作業になってしまいます。また二方向からマルチキャメラで撮るなんてことをしたらフィルムを倍消費することになるので経費がかさむことになります。成瀬の考え方は映画は1週間や2週間で消費されていくものなんだから、その消費速度に見合う効率で製作しなければならないというようなビジネス感度溢れるものでした。なのでフィルムの消費量も会社が指定したフィートに必ず収まっていたそうですし、OKテイクの比率が3分の2と高かったといいます。しかも残りのNGテイクから予告編を作ってしまうので、ほとんどフィルムの無駄がなかったんだそうですよ。

そんな成瀬巳喜男の仕事を支えたのが成瀬組と呼ばれたスタッフたちで、キャメラマンの玉井正夫は原節子と上原謙が出た『めし』以降のほとんどの成瀬作品でキャメラを回し続けた人ですし、照明の石井長四郎や録音の下永尚、美術の中古智などが成瀬作品を支え続けてきました。本作で成瀬組ではないのは音楽の黛敏郎くらいでしょうか。でも黛敏郎のジャズっぽいBGMが銀座の夜のムードを盛り上げていることは間違いありません。

【ご覧になった後で】通俗的な話なのに一気見させるところがさすが成瀬です

いかがでしたか?結局のところ高峰秀子演じる圭子は仕事でもプライベートでもいろいろなゴタゴタがあっても最後にはまた階段を上がるバー勤めから逃れられないというお話で、男に引っかかったり騙されたりつい身体を許したりというゴタゴタと、お金を取った取られたとかお金が入用になるとか実家に仕送りしなきゃならないとかいうゴタゴタが入り混じって進行する通俗的な内容でした。しかしそれでも1時間50分のやや長尺の映画を全く退屈させずに一気見させるというのは、やっぱり成瀬巳喜男の映画作法によるところが大きいんでしょう。見ているうちに映画に取り込まれてしまっていつの間にかエンドマークが出るまで熱中させられてしまった、そんな不思議な引力をもつ作品でした。

それはたぶんセリフを最小限になるまでカットしてしまい、映像や俳優の演技で伝えられるものに絞り込んでいくという成瀬巳喜男の引き算の演出によるものではないでしょうか。たぶん菊島隆三が書いたシナリオでも成瀬は現場でザクザクとセリフを消していったのだと思われます。高峰秀子は成瀬と組むときは自分が演じる役のセリフを成瀬と一緒にどんどん削る作業をしたらしく「しゃべるばかりが能じゃありません」と述懐しているくらいです。とは言っても導入部ではナレーションが目立つので、そこは菊島隆三の顔を立てたのかもしれませんけど。

その点でいうと、本作は高峰秀子を主演に起用した時点で、高峰秀子の演技に頼るという基本方針が出来上がったのかもしれません。高峰秀子がやる圭子はどこから見てもバーのママになり切っていて、きものの着方や立ち居振る舞いはもちろんのこと、オンとオフで話し方が変わるところなども非常にリアルな感じが出ていました。もちろんなり切っていない部分も巧くて、思わず加東大介の結婚詐欺に引っかかってしまうところや森雅之を駅に見送りにいくところなどに、かつては幸せな主婦だったという心の底には純粋な気持ちが残っている感じが微妙に表現されていました。

中村鴈治郎や小沢栄太郎などちょっと下心のある男性陣もよかったですし、バーで働く中北千枝子や団令子など女性陣も本作にマッチしていました。トランプ占いの千石規子なんかはもう大笑いしてしまうほどの占い師ぶりでしたし、賀原夏子の情けない母親やまだ注目される前の若林映子のちょっとエロい感じも印象に残りますね。でもなぜか仲代達矢だけが浮いているようにみえてしまうのはなぜでしょうか。あの底まで響くようなバリトンの声が気に障るのかわかりませんけど、マネジャーの小松はもう少し普通の俳優にやらせたほうがよかったように思います。仲代達矢はどうにもこうにも存在感があり過ぎてしまって、高峰秀子にフラれて団令子に雇ってくれないかと頼むところあたりに哀しい感じが出ないんですよね。

今回は切り返しのショットも含めて、どうローコストで撮っているのかに注目して見ていたのですが、当たり前の話ですけどいくらの経費をかけて作ったのかが映画に出るようでは一流の監督とは言えないわけなので、そんなものはどの場面からも感じることはできませんでした。高峰秀子のアパートでの団令子との会話でもたぶん切り返しショットは片方ずつ撮影されているはずですが、全く不自然なくしっかり普通につながっていました。これこそ職人仕事なんでしょうね。撮影や製作の裏側を一切見せずにひとつの映画として完成させるという、当たり前のことを当たり前にこなしてしまうのが成瀬巳喜男の良さだったのかもしれません。導入部で山茶花究の中国人オーナーから叱られた高峰秀子と仲代達矢が並んで歩くショットは、成瀬映画に出てくる斜め前からのトラックバックショットです。おなじみの移動ショットなのですが、いかにも自然に二人の会話が耳に入ってくるんですよね。このような違和感がまったくないままのショットや演技が完成されているから、観客は何の抵抗もなく映画の世界に没入できるのではないでしょうか。大袈裟でもなんでもないのですが、これが成瀬マジックなのかもしれません。(U101123)

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