戦後初の総選挙が行われた昭和20年4月公開のGHQプロパガンダ映画です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、今井正監督の『民衆の敵』です。「民衆の敵」というタイトルは1931年に製作されたジェームズ・キャグニー主演のアメリカ映画もありますし、イプセンが書いた戯曲を映画化したスティーヴ・マックイーン主演の1978年版もありますが、本作は終戦の翌年に今井正監督が撮った東宝作品です。戦後初の衆議院議員選挙が行われたのは昭和21年4月10日のことでしたが、本作はその2週間後に封切られていて、戦時中に中小工場の軍需工場化と増産を進めた財閥を痛烈に批判する内容になっています。GHQが「映画検閲に対する覚書」を発出したのが昭和21年1月のことでしたから、その数か月後にはもうGHQの指導に従った財閥否定・民主主義礼賛のプロパガンダ映画が作られていたことがわかる貴重な作品といえるでしょう。
【ご覧になる前に】今井正は本作で毎日映画コンクール監督賞を受賞しました
昭和19年「金子肥料工場」の看板が爆薬工場にかけ替えられるのを眺める金子工場長は不自由な足を引きずりながら、社長室にいる大東財閥の花園専務を訪ねます。金子は工場の設備改善を要求しますが、花園は徴用工を働かせることで増産体制を強化するといって取り合いません。その徴用工たちは、反戦歌を唄ったといって憲兵に糾弾されている丸山を救おうと大塚たちが自分も歌ったから殴ってくれと憲兵に詰め寄るところでした。本社に戻った花園を訪ねてきたのは将校クラブのマダムはるみ。はるみは大東財閥の小谷理事長に会わせてくれるよう花園に頼み込むのですが…。
今井正は東京帝国大学在学中に秘密組織に関わったことで停学処分を受け、そのまま大学を中退してしまったため、東宝の前身のひとつであるJOスタヂオの入社試験を受けて合格し映画界に入りました。東宝が設立されて人手不足だったこともあり、すぐに監督に昇進して昭和14年公開の『沼津兵学校』で監督デビュー。本作は今井正にとって戦後初の監督作品で、昭和21年に創設されたばかりの第一回毎日映画コンクールで監督賞を受賞しました。
今井正は日本共産党の党員で戦後の東宝争議が収束すると東宝を退社して、山本薩夫・亀井文夫らとともに独立プロダクションを設立し、労働者を主人公にした映画や反戦映画を発表していくことになります。しかし戦時中は積極的に軍部に接近した東宝が率先して戦意高揚映画を作っていたこともあり、朝鮮の人々が日本軍に協力する姿を描く『望楼の決死隊』や『愛の誓ひ』、海軍主力艦を設計した平賀譲の英雄譚『怒りの海』といった軍国主義的な作品を監督したのも今井正その人でした。それらの作品が公開されてから終戦をはさんでわずか1年後に、今度はGHQが推奨する民主主義啓蒙映画を作るわけですから、新聞とラジオと映画が主要メディアだった当時においては、一個人のポリシーなどあってないようなものだったんでしょうね。
脚本はPCL時代からの東宝のメイン脚本家八住利雄と山形雄策。この山形雄策という人はやっぱり争議後に東宝を辞めて山本薩夫監督の『真空地帯』の脚本を書いていますし、今井正とは『愛すればこそ』に脚本で参加するなど共通した仕事に関わっています。一方で、製作は本木荘二郎ですし、音楽は早坂文雄なので、その手の人たちばかりで作っていたわけではないようです。キャメラマンの鈴木博もサイレント期から長くやっている人で、成瀬巳喜男がPCLに移って撮った『妻よ薔薇のやうに』でもキャメラを回していました。
【ご覧になった後で】右から左への手の平返しで偏向し過ぎはどうでしょうか
いやいや、見ていて笑ってしまうほど勧善懲悪じゃなく勧左懲右の作品になっていて、戦時中のついこの前までは軍部に言われるままに戦争映画を撮っていたのに、GHQが権力を握った途端に手の平返しで労働者こそが正義だみたいな映画を作ってしまうのもどうなんでしょうかね。右でも左でも偏向し過ぎの内容だと本当にシラケてしまうというかあまりに安易過ぎてしまって、映画を見る愉しみがかけらもないような気持ちの悪い映画になっていました。現在的に見ると戦時中の戦意高揚映画が軍国主義の化け物に思えるのと同様に、本作は共産主義国家によるプロパガンダ映画にしか見えません。
労働者が工場の主権を取り戻し、農家のための肥料づくりを再開するというラストを見ていると、これって旧ソ連のコルホーズを推奨する教宣映画なのかなと思えてきてしまいます。財閥の描き方も辛辣で、工場や工員を弾圧する江川宇礼雄は戦争推進派の代表的悪者になっていますし、日本の敗戦を予測してすぐさま増産体制から手を引く志村喬は戦後も生き抜く狡猾な大物財界人の典型として描かれます。一方で河野秋武は労働者側を代表する自由の戦士として英雄的に扱われていて、東北弁まがいの方言を話す藤田進は最後には暴力革命さながらに旧軍人たちを叩きのめして凱歌をあげます。そのどれもがステレオタイプだらけで、俳優の個性が全く生かされていないので、自由に演じられることになったはずの俳優たちの演技もなんだか窮屈で凡庸に見えてしまいました。
特にひどいのは花柳小菊がやるマダムのキャラクターで、戦時下で男たちを手玉にとってたくましく生きるファムファタールかと思えば、父親の愛を求める乙女的娘に早変わりして、ほんのちょっとすれ違っただけの工場長河野秋武に涙を流しながら謝罪するという、全く理解不能なちゃらんぽらん女になっていました。河野秋武も財閥幹部に向って「君たちは大衆の暮らしを知っているか」とエラそうにのたまうわりには、自宅は豪勢な二階建ての洋館だったりするので、エセコミュニストにしか見えませんよね。
本作が公開された昭和21年4月25日の二週間前、4月10日は戦後初の衆議院議員選挙が行われた記念すべき日でした。敗戦から8ヶ月も経たないうちに婦人参政権や選挙権・被選挙権年齢の引き下げなど新しい制度の下で総選挙が行われたのは驚くべきことですが、戦後処理を担当した東久邇宮内閣の後を継いだ幣原喜重郎内閣が昭和20年10月に発足してすぐに着手したのが選挙法改正だったのです。GHQから文句を言われる前に自前で作ってしまえと指示したそうですから幣原内閣の先読みは当たったわけですが、法案成立後に内閣を解散して昭和21年1月に総選挙を行おうとした幣原内閣の動きにストップをかけたのがGHQでした。
GHQには、選挙制度を変えても日本国民の意識はそんなにすぐに変わらないので選ばれる人も昔の顔ぶれになってしまうだろうと読みがあったそうです。そしてGHQが選挙の実施時期を遅らせたのは、旧権力者を追放するための公職追放を準備していたからでした。GHQの内部でも民政局と参謀二部(G2)の覇権争いがあってすったもんだしたようですが、結果的にはホイットニー准将率いる民政局が勝利を収めて、昭和21年1月に公職追放が発出されて3月以降に総選挙をやっていいよということになりました。
公職追放によって総選挙の結果、衆議院議員の8割を新人が占めることになり、女性議員も39名誕生して社会党が躍進しました。戦前の流れを汲む進歩党を議席数で上回った自由党が第一党となって、自由党党首だった鳩山一郎が首相になると思われた矢先、なんと選挙明けの5月に鳩山一郎も公職追放で議員を辞めさせられることになったのです。鳩山一郎は戦時中大政翼賛会に属していなかったものの、ヒトラーやムッソリーニを礼賛する書物を記していたり、満蒙政策を支持していたりしたことが追放の根拠になりました。
このようなGHQの動きを見ると、なぜこの『民衆の敵』が昭和21年4月に公開されたかの背景が見えてくるような気がしてきます。これほどまでにうさんくさい労働者バンザイの民主主義礼賛の財閥は巨悪である的な映画を作って公開させたのは、映画を見に来た観客に総選挙の結果を納得させると同時に、有名人・著名人の公職追放を受容させるためだったのではないでしょうか。公職追放は有力企業や軍需産業、思想団体の幹部に対象が広げられて、昭和23年5月までに20万人以上がその職を追われることになります。GHQによる権力行使の恐ろしさもさることながら、権力下に置かれたときの映画が簡単にプロパガンダになってしまうことを証明しているのがこの『民衆の敵』なのです。その意味で全くつまらないクソのような映画ですが、歴史的に評価を下されるべき作品のひとつだといえるのかもしれません。(Y032023)
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