暖春(昭和40年)

里見弴と小津安二郎が書いたTVドラマ用シナリオを中村登が映画化しました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、中村登監督の『暖春』です。「原作:里見弴・小津安二郎」とクレジットにもある通り、昭和38年にNHKで放映されたTVドラマのためのシナリオが元になっていて、中村登監督が松竹で映画化することになりました。早くに父親を亡くした母と娘が主人公になっていて、モチーフはまさに小津映画そのものですから、昭和38年12月に小津安二郎を失ってちょうど二年後の年末に封切られた本作は、小津安二郎を偲ぶような雰囲気の中で公開されたものと想像されます。

【ご覧になる前に】京都に住む主人公母娘を岩下志麻と森光子が演じています

京都南禅寺の近くにある小料理屋「小笹」を手伝いに来ている梅垣のぼんがお店を開けたところに山口という男が訪ねてきます。山口は女主人おせいが祇園で舞妓をしていたときからの旧知の仲で、亡くなったおせいの夫と緒方とは親しい友人同士でした。久しぶりの再会を喜ぶおせいは座敷に山口を招きます。オープンカーに乗って家に帰るぼんが途中でおせいの娘千鶴とすれ違い山口の来訪を伝えると、帰宅した千鶴はおせいのいないところで母親から離れたいので一緒に東京に連れて行ってくれと山口に頼み込みます。千鶴が東京行きを告げると、おせいはお腹が痛いと言って引き留めようとしますが、いつもの仮病だと気にしない千鶴は山口と一緒に緒方のいる箱根に向うのでした…。

小津安二郎は鎌倉に居を構え老いた母親と二人暮らしを始めてから、鎌倉文士たちと交流を深めていきました。小津は戦時中に読んだ「暗夜行路」に深く感動して以来、志賀直哉を尊敬していましたが、小津を志賀に引き合わせたのが里見弴でした。十五歳も歳が離れていた里見と小津は互いの家を行き来する間柄で、小津の晩年の名作『彼岸花』『秋日和』は里見弴の原作をもとに小津と野田高梧が脚本を書いた作品でした。ちなみに里見弴の四男・山内静夫は松竹大船撮影所の製作部に入社し、『早春』『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』のプロデューサーをつとめています。

小津の遺作となった『秋刀魚の味』が公開されたのは昭和37年11月のことでしたが、里見弴と小津安二郎がTVドラマ用に書いたシナリオを映像化した「青春放課後」は昭和38年3月にNHKで1時間半の枠で放映されました。里見弴が原稿を書き、小津安二郎が手を入れ、二人で共同して脚本を執筆したということですから、たぶん『秋刀魚の味』の仕事がひと段落した後に里見弴が書いた原案に小津安二郎が参加する形で共同作業となっていったのでしょう。小津にとっては生涯で唯一のTVドラマ作品でしたし、放映された年の暮れに亡くなってしまうので結果的には小津が残した最後の脚本になってしまいました。

NHKのドラマの評判はよくわかりませんけど、小津の三回忌を迎えた昭和40年12月31日に本作が公開されていますので、松竹としては小津の残した最後の脚本をなんとか映画に残したいという意図があったのかもしれません。中村登が脚色して監督をしていますが、中村登自身は小津安二郎と一緒に仕事をしたことはないようです。しかし中村登は戦時中に松竹のスタッフが応召されるとその都度あれこれと世話を焼いたりする面倒見の良い人だったという話もあり、もちろん松竹の監督会では小津としょっちゅう顔を合わせていたでしょうから、小津を追悼する意味で本作の脚本・監督を買って出たのかもしれません。

撮影は成島東一郎で吉田喜重監督の『ろくでなし』で撮影技師に昇格して以降は、『秋津温泉』などの吉田喜重監督作品とともに中村登作品のキャメラマンもつとめていました。音楽は後に「男はつらいよシリーズ」を担当する山本直純で、昭和30年代前半は主に日活の作品で楽曲を提供していましたが、後半になると映画会社の枠を飛び越えて多くの映画音楽を担当するようになっていました。また美術の大角純一は昭和30年以降の松竹京都撮影所製作の時代劇で美術を長くやってきた人。松竹が時代劇を作らなくなって本作が松竹での最後の作品になっています。

主人公の母娘を演じるのは、岩下志麻と森光子。岩下志麻は小津の遺作『秋刀魚の味』で嫁に行く娘役を演じていますので、その路線を継承した配役だったのでしょう。森光子は昭和10年に嵐寛寿郎による寛プロで少女役としてデビューして新興プロ作品に出演していましたが、戦後は舞台活動を主軸にしていたようで映画に復帰するのは昭和30年代半ばになってからのことでした。なので基本的に脇で出ることが多く、本作の母親役は当時の森光子にとっては大役だったかもしれません。

【ご覧になった後で】嫁にやるではなく婿をもらう話になっているのに注目

いかがでしたか?やっぱり里見弴と小津安二郎の原作だけあって、小津映画っぽい雰囲気が満載のストーリーでしたね。基本線は岩下志麻の結婚相手探しになるわけですが、そこにかつてひとりの舞妓を巡る三人の男による恋のさや当てが加わり、結果的に岩下志麻は東京=川崎敬三ではなく、京都=長門裕之を選ぶことになります。ストーリー自体は大きな特徴はありませんけれどもプロットの組み立て方が秀逸なのと、乙羽信子をコメディリリーフとした笑いも利いていて、ニヤニヤしながら安心して最後まで見ていられるホームドラマになっていました。

とはいっても小津映画との決定的な違いは、小津映画によくある「娘を嫁にやる」という展開ではなく「娘が結婚相手を探す」がメインテーマになっている点でした。森光子は漠然と長門裕之演じる梅垣のぼんと結婚してくれればいいなと思っているだけで、娘の結婚をあせっているわけではありません。また岩下志麻はうるさく干渉してくる母親の元を離れて東京で羽を伸ばしたいと考えているだけで、母親を見捨てるつもりではないのです。結果的に川崎敬三にはどうやら素敵な結婚相手がいるようだとわかり、親友たちはそれぞれ家庭に収まったり自由なひとり暮らしを満喫したりと、岩下志麻は自分ひとりが放課後に学校の片隅に取り残された児童のような淋しい思いを抱きます。なのでラストの長門裕之との結婚式はこれから始まる新しい生活の希望のようなものを感じさせますし、涙にくれる森光子はひとりぼっちになるわけではなく長門裕之を婿に迎えた三人家族の一員に収まることを予感させるのです。ここが最後にひとり親が取り残される『晩春』や『秋日和』、『秋刀魚の味』のような小津映画と決定的に違っているところでした。

そして中村登の演出はタイトルバックの京都の風景を映した映像から移動ショットを多用していて、「この映画は小津安二郎の作品じゃありませんからね」と早々に宣言するようでした。もちろんローアングルなんて使っていませんし、部屋の中では人物を比較的近めにとらえたり、会話する二人をひとつの画面の中に収めてその演技をじっくり映すことを主眼にしていました。特に森光子が「あなたはやっぱりお父さんの子だ」と岩下志麻とともに泣き濡れる場面では、たぶん同時に複数のキャメラを使って芝居のつながりを重視しながら二人のショットにそれぞれのクローズアップを挿入していました。その意味で非常にTVドラマ的な演出だったと思いますし、逆にいえば本作のような本格的ホームドラマの作法をTVドラマが真似て現在に至っているということなのかもしれません。

岩下志麻は酔っ払うシーンやしんみりした場面までを清廉な印象で演じ切りますし、森光子の半分舞妓時代のままのような未熟な母親像の表現もなかなかのものでしたが、やっぱり本作の出演陣の中では男優たちの熟練の演技が見どころでした。山形勲はアクの強さを控えた包容力あふれた年長者を堅実に演じ、有島一郎は会社での地位の高さとは裏腹の家庭での小心さを卑小な感じにならずにうまく演じていました。NHKの元のドラマでは、山形勲の役を宮口精二が、有島一郎の役を北竜二がやっていて、三宅邦子はTVドラマでも山口の妻役、乙羽信子の役はTVでは杉村春子が演じていました。宮口精二と北竜二はなんとなく反対のほうがいいような気もしますけど、いずれも巧い役者さんたちばかりで、娘は小林千登勢で、川崎敬三がやった長谷川役は佐田啓二でした。

実は「青春放課後」は長門裕之が演じた梅垣のぼんが話の中で出てくるだけで、母親おせいの扱いも導入部に出てくるだけになっています。なのでラストは結婚式ではなく、いい人を見つけられなかった千鶴が京都に帰ったあと山口と緒方がバーで我々は人生の放課後だと自嘲する場面で終わっています。中村登はスタイルだけではなく、里見弴と小津安二郎の原作を未来志向へと大胆に改変し、かつ「嫁に行く」から「婿をもらう」話に変換していたのでした。中村登、なかなかやるじゃないですか。

TVで「青春放課後」が放映された翌月小津安二郎は入院して手術を受け、闘病の末に年末に亡くなってしまうのですが、胸騒ぎがしたのかどうかいつも小津映画に登場する悪友三人組のうちのひとりが本作では遠い昔に死んでいるという設定になっていました。亡くなった佐々木という男はただひとり舞妓のおせいが妊娠したのを自分の子供だといってさっさと結婚を決めてしまいますが、そうした潔さは小津自身の人生のスタンスそのものを表しているような気がします。本作は決して小津映画ではないのですが、小津のエッセンスをうまくすくいとって作られた複製画のような作品になっていましたよね。山本直純の音楽だけがあえて斎藤高順(TVドラマの作曲もしています)風にまとめられていたのも、中村登が本作に込めた思いを反映しているように思われます。

ちなみに公開当時の松竹のポスターに「三大女優初顔合わせ」と書いてありまして、桑野みゆきは「鉄人28号」の主題歌をハミングするだけで倍賞千恵子は珍しく蓮っ葉な役で出るだけですから、非常に違和感のある惹句でした。加えて現在の松竹の正式ホームページでは本作の公開が「1966年12月31日」と表記されていまして、これは明らかに年度を間違えています。松竹ホームページはこうした間違いが散見されるので、もっと自社のコンテンツを丁寧に扱うべきだと思ってしまいますね。(T082223)

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