柔らかい肌(1964年)

フランソワ・トリュフォーの長編映画第四作は不倫に陥る著名人の物語です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フランソワ・トリュフォー監督の『柔らかい肌』です。カイエ・デュ・シネマの評論家だったフランソワ・トリュフォーは長編映画初監督作品『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で監督賞を獲得し、自由に映画を撮れる立場になりました。本作は『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』に続く長編第四作(直前の『二十歳の恋/アントワーヌとコレット』は短編ですので)にあたります。実はトリュフォーはレイ・ブラッドベリの小説『華氏451』の映画化権を獲得して製作に入っていたのですが、その準備がなかなか進まなかったため、著名人の評論家が不倫に陥る本作を先に作り上げたと言われています。

【ご覧になる前に】ジャン・ルイ・リシャールが共同脚本に加わっています

信号を待ちきれず道路を渡って妻のいる自宅に帰ったのは評論家のピエール。講演に招かれているリスボン行きの飛行機に乗るため友人の車で飛行場まで送ってもらったピエールは、機内で美しいスチュワーデスを見かけます。講演を終えてホテルのエレベーターの中でスチュワーデスと再会したピエールは、部屋に電話をして翌日の夜一緒に食事することになりました。夜明けまで話に夢中になった二人は、そのまま部屋でベッドを共にします。翌日パリに帰る飛行機で彼女から渡されたマッチには「ニコル」の名前と共に電話番号が書かれていたのでしたが…。

フランソワ・トリュフォーは長編映画では必ず他の脚本家とともに共同でシナリオを完成させてきましたが、本作ではじめてコンビを組んだのがジャン・ルイ・リシャールでした。リシャールはエディ・コンスタンティン主演のナチ狩り映画の脚本・監督をした経験をもっていましたが、映画上のキャリアよりもジャンヌ・モローの初婚相手だったことのほうが有名だったようです。ジャンヌが二十一歳のときの結婚はうまく行かずわずか二年で二人は別れてしまったものの、トリュフォーが『突然炎のごとく』でジャンヌを主演に起用したことが、トリュフォーとリシャールが知り合うきっかけになったのかもしれません。本作の共同脚本作業がうまく行ったおかげで、トリュフォーは『華氏451』『黒衣の花嫁』『アメリカの夜』でリシャールとのコンビで脚本を書くことになります。

二人が書いたオリジナル脚本はトリュフォーが読んだ新聞記事から発想されたそうで、『突然炎のごとく』で男二人と女一人のラブロマンスを描いたトリュフォーは、二人の女と一人の男の三角関係という正反対の物語を書こうとしたそうです。1964年のカンヌ国際映画祭で上映された際には観客からブーイングを浴び、興行的にも振るわなかったそうですが、この時期のトリュフォーは敬愛するアルフレッド・ヒッチコックに大きく影響されていました。というのもトリュフォーは1962年8月からヒッチコックのインタビューをはじめて、四年間をかけてそれを「ヒッチコック/トリュフォー」という本にまとめる作業中だったのです。本作の脚本・監督をしていた時期とほとんど重なっていますので、トリュフォーの頭の中にはこの映画をどう作るかとヒッチコックのインタビューをどうまとめるかの二つの命題が同時に渦巻いていたと思われます。

キャメラマンは『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』に続いてラウール・クタールがやっていまして、ラウール・クタールはいうまでもなくゴダールの映画で一貫してキャメラを回していた人。音楽のジョルジュ・ドルリューも同じ作品でトリュフォーの映画に楽曲を提供していますので、ヌーヴェル・ヴァーグの本流にいた人たちが勢ぞろいした作品だったともいえるでしょう。

主人公の評論家を演じるジャン・ドサイはジャン・ピエール・メルヴィル監督の『いぬ』に出演しているのが目立つくらいですが、フランスの演劇界ではコメディ・フランセーズと同じくらいに有名なルノー・バロー劇団の主力のひとりとして活躍した俳優さんです。不倫相手のニコル役はカトリーヌ・ドヌーヴのお姉さんのフランソワーズ・ドルレアックが演じていて、本作の直前にはフィリップ・ド・ブロカ監督の『リオの男』でジャン・ポール・ベルモンドの相手役をつとめて一気に人気女優となりました。妻役のネリー・ベネデッティは本作以外の出演作はあまり知られていないようですが、撮影時にジャン・ドサイが四十四歳でネリー・ベネデッティは四十三歳なので、ちょうど年齢的に適役だったというキャスティングだったのかもしれません。

【ご覧になった後で】トリュフォーの中で上位に入る傑作ではないでしょうか

いかがでしたか?第五回ぴあフィルムフェスティバルで「フランソワ・トリュフォー全集」と銘打って当時の全監督作品を上映したことがありました。そのときにはじめて本作を見てひょっとしてこれはトリュフォーの最高傑作なのではないかと思った記憶があります。今回久しぶりに再見してみてそのときの感想は間違っていなかったと確信しました。公開時にカンヌでブーイングを受けたというこの『柔らかい肌』こそがトリュフォーの作品群の中でもトップランクに位置する傑作ではないかと思われます。

まず脚本の緻密さがすばらしいですね。ストーリー自体は「男が若い女に熱を上げて不倫関係になり、妻に発覚して不倫相手からも見放され妻に殺される」という三角関係の悲劇に過ぎず、言ってみれば過去から何百万回と語り継がれてきたような定番的な物語なわけです。しかしそこに張り巡らされたちょっとした伏線やキャラクターの描き方が非常に細やかなので、全体感が統一されていて、作品自体がシャープな仕上がりになっていました。ひと目会いたくてパリ空港に向かったピエールはニコルが飛び立ったと思い込み電報文に「愛してる」と書きますが、実は飛行機が故障していたために二人は会うことができました。しかしゴミ箱に捨てた電報の「愛してる」こそがニコルが欲しかった言葉で、その言葉を一度も伝えなかったピエールは勝手にアパルトマンでの同居計画を進めてしまいニコルに見放されてしまいます。ニコルがタクシーに乗って去っていくのをベランダから見下ろす俯瞰ショットが、あのゴミ箱をふと思い出させるような作りになっていました。

ランスの街でピエールとニコルの気持ちが食い違い始めるシークエンスもうまくて、ストッキングを買ってきてというニコルのセリフが二度ほどリフレインして聞こえてきます。講演の主催者を待たせて下着店を見つけたピエールの目の前で店が閉店してしまうもののなんとかストッキングを手に入れるのですが、実はピエールが手に入れるべきだったのは映画館の入場券のほうでした。講演会付き上映会に入れなかったニコルは見知らぬ男に声をかけられて惨めな気持ちになりひとりでホテルに帰る羽目になるのですから。そんなちょっとしたボタンの掛け違いが燃え上がる不倫の関係に冷水を浴びせることになるという組み立てが実にリアルで、大人の気分を十分に理解したうえで脚本化されているという感じでした。

そしてクライマックスの電話ボックスの場面。コインを借りに行っている間に若い女性がボックスに入ってしまい、ピエールは妻のフランカと話をすることができません。そもそもフランカが上着をクリーニングに出さなければ写真も発見されなかったわけですから、ほんのちょっとのズレが重なって妻が夫を射殺することになるのです。ここらへんが細かいパーツを実に繊細につなぎ合わせて行き、最後にショッキングな結末にもっていくシナリオ技術が冴えたところで、普通ならば不倫した夫を妻が撃つなんてマンガのような流れにはならないはずなのに、プロットがしっかりと構築されているので衝撃的なラストを観客は当たり前のように受け止められてしまうんですよね。

というわけで本作の一番の成功要因はトリュフォーとリシャールの共同脚本にあったといっていいでしょう。写真を見てうろたえているフランカをナンパして輪をかけて絶望を感じさせる金髪男が登場しますが、男を演じたのがジャン・ルイ・リシャールでした。撮影時には一般の通行人がリシャールからベネデッティを守ろうとしてキャメラの視界に入ってきてしまって、難儀したそうです。ちなみに本作は『華氏451』を撮る前のつなぎのような低予算作品だったためスタジオ撮影は一切なく、オールロケで撮影されたそうです。なのでこの場面も普通にパリの街頭で撮影されましたし、ピエールとフランカの豪奢なアパルトマンはトリュフォーが住んでいた家そのものが使われたらしいですね。

もちろんトリュフォーの映像演出も見事でヒッチコックタッチをそのまま流用するのではなく、換骨奪胎して自己流にアレンジしていました。ニコルから折り返し電話をもらったときにホテルの部屋の電気を次々に点灯させる場面は、男の歓びを電灯をメタファーにして表現していましたし、飛行機の中でニコルが靴を履き替えるのをカーテン下に覗くようにして見るピエールの視線は、ホテルでうたた寝するニコルのストッキングを脱がせていくフェティシズムにつながります。森のコテージでピエールの視線が自分にないことを悟るニコルのクローズアップも、その表情と視線でニコルの背後に電話があるのだと観客に知らせるような撮り方だったのがうまいところでした。そしてフランカが走らせるミニを前方から高速ドリーバックでとらえたショットの積み重ね。普通のショットなのに非常にサスペンスが盛り上がっていきます。いかにもヒッチコックというのではなく、トリュフォー的な解釈をするとこうなるんですよという感じのサスペンスタッチに仕上がっているのが非常に印象的でした。

そして本作を不倫ものとして成立させているのはジャン・ドサイとフランソワーズ・ドルレアックの二人がともに品がある大人の俳優だったためではないでしょうか。ジャン・ドサイはバルザックやジッドの研究をする評論家としてのインテリジェンスを感じさせますし、理知的で社交的であるからこそ八方美人的な優柔不断さが表面化して、結果的にはすべてを失ってしまう哀しさというか哀れさのような感じをうまく出していました。かたやフランソワーズ・ドルレアックは美しいことはもちろんですけど、卑屈なところが一切なく、ピエールの知性に素直に惹かれつつもしっかりとした自尊心があるがゆえにはっきりとした愛情を表現しないピエールに愛想尽かしをするプロセスを大変うまく表現していました。見事な脚本のうえにキャラクターを深く理解した俳優の演技が乗っかったことで、観客が見ていても全く矛盾なく破綻なく納得して衝撃的結末を迎えられる映画になったのだと思います。(V071723)

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