甘い生活(1960年)

カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したフェリーニ監督の代表作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』です。ロベルト・ロッセリーニの作品に共同脚本で参加したフェリーニはネオリアリスモ路線を継承して『道』でアカデミー賞外国語映画賞を受賞するまでになりますが、現代社会を痛烈に風刺したこの『甘い生活』がフェリーニにとっての転機になったといわれています。主人公を演じたマルチェロ・マストロヤンニは紆余曲折を経て本作に起用されたのですが、フェリーニのお気に入りの俳優となり、次作『8 1/2』ではフェリーニ自身を投影したグイドを演じることになるのでした。本作はカンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれ、1960年のキネマ旬報ベストテンでも『チャップリンの独裁者』に次いで二位にランクインしています。

【ご覧になる前に】「パパラッチ」という言葉はこの映画から生まれました

バチカンのサンピエトロ寺院にキリスト像を運ぶヘリコプターを追いかけるのはゴシップ誌の記者マルチェッロとカメラマンのパパラッツォの二人。彼らは社交界や芸能界の有名人を追いかけて特ダネをとることに執念を燃やしていて、今夜はナイトクラブに潜入しています。そこでマルチェッロが出会ったのは富豪の娘マッダレーナ。マルチェッロとマッダレーナは車で街娼のアパートメントに行き、そこで一夜の交情を愉しむのですが、帰宅したマルチェッロを待っていたのは自殺未遂を図った恋人のエンマでした。一命を取りとめたエンマのことを気にしつつ、マルチェッロはアメリカからローマにやってきた大女優シルヴィアの取材に向うのでしたが…。

フェデリコ・フェリーニは新聞記者をしながらラジオドラマの台本を書いていたときに、偶然映画監督のロベルト・ロッセリーニと知り合って『無防備都市』のシナリオに参加したのが映画界入りのきっかけとなりました。続く『戦火のかなた』などのロッセリーニ監督作品で共同脚本をつとめた後に『寄席の脚光』で監督デビュー、1953年の『青春群像』で脚光を浴びた翌年に発表した『道』がアカデミー賞外国語映画賞を獲得して一躍世界的な映画作家の名声を手に入れることになりました。妻であるジュリエッタ・マシーナを主演に起用した『カビリアの夜』まではロッセリーニに学んだネオリアリスモ調を維持していましたが、その後三年の空白期間を経て発表したこの『甘い生活』では大きく作風を変えて、映像の感覚を重視したコメディタッチの社会風刺的視点を重視するようになります。

本作では主人公をゴシップ誌の記者にすることで、上流社会や芸能界、イタリア貴族の厭世的で退廃的な日常を盗み見るというような構成をとっていて、観客は主人公マルチェッロの目を通して普段接することのない特権階級の裏の生活を目撃することになります。記者のマルチェッロとコンビを組むカメラマンは常にニュース的な価値のある写真を撮ることを仕事としていて、その役名は「パパラッツォ」といいます。フェリーニがスズメの方言からとったというパパラッツォの複数形が「パパラッチ」で、現在的にゴシップネタを追いかけまわすメディアの取材班をパパラッチと称するのは、この『甘い生活』の役名がもとになっていたのでした。

本作はもともとは『道』『カビリアの夜』を製作したディーノ・デ・ラウレンティスが継続してプロデューサーをつとめることになっていて、ラウレンティスは主人公にハリウッドで売り出し中だったポール・ニューマンを起用することを画策していました。しかしフェリーニがそれを拒絶したため、ラウレンティスは本作から手を引くことになり、フェリーニが主役に抜擢したのはルキノ・ヴィスコンティ監督の『白夜』などに出演していたマルチェロ・マストロヤンニでした。マストロヤンニは本作をきっかけにして世界的な俳優となり、フェリーニ監督の次作で自伝的作品でもある『8 1/2』ではフェリーニ自身を投影したグイド役を任されることになるのでした。

音楽は『白い酋長』以来フェリーニ監督作品に続けて楽曲を提供してきたニーノ・ロータが継続して起用されていて、物悲しくも浮世離れしたような軽快な音楽をつけています。また美術のピエロ・ゲラルディは『8 1/2』でもセットデザインを担当することになりますが、本作ではサンピエトロ寺院の内部やナイトクラブや富豪のビーチハウスなど80以上ものスタジオセットを組んだのだとか。唯一ロケーション撮影されたのは、旧館で夜明かしをする場面での貴族の城だったそうです。

女優ではアヌーク・エーメが相変わらずクールな美貌を見せてくれるほか、ハリウッド女優役にはスウェーデン出身のアニタ・エクバーグが起用されていて、そのグラマラスな肢体を惜しみなく披露してくれます。ちなみに主演のマルチェロ・マストロヤンニは多くの浮名を流したプレイボーイでしたが、生涯で真剣に愛したのはアニタ・エクバーグとカトリーヌ・ドヌーヴの二人だけだったと語ったことがあったそうで、二人だけといいながら誰もが憧れる大女優を二人も愛したというのはなんと贅沢な恋愛経験だったことでしょう。ただただ羨ましいのひとことに尽きます。

【ご覧になった後で】マルチェッロを道化役にしたオムニバス作品でしたね

いかがでしたか?この映画をはじめて見たのは学生時代にさかのぼりまして、火事になる前の京橋フィルムセンターで入場券をゲットするために5時間くらい並んでやっと見たという記憶があります。そのときは映画史探求に燃えておりましたので、なんとコンセプチャルな傑作なんだろうかと感激した気分になっておったのですが、齢を重ねてから再見すると、マルチェッロを道化役としたいくつかのエピソードが羅列されたオムニバス映画にしか見えず、3時間近い上映時間をなんとか我慢して見ることができたというくらいの感想しか持ち得なくなりました。確かに映像はどのショットも無駄がなく洗練されていて、特にショット内での人物の動かし方などは他の監督が決して真似することができない映画的演出の奥深さの賜物ではあるものの、基本的に映画とは楽しんで見るものであって耐えるものではないという点からすると、この『甘い生活』は楽しみより忍耐のほうがやや比重が大きくなってしまった、マニア向け映画に見えてしまいました。

備忘録的に記載しておきますと、本作は大きく8つのエピソードで構成されていました。1)キリスト像からナイトクラブへとゴシップを追いかけるマルチェッロがマッダレーナと一夜を過ごした後で恋人エンマの自殺未遂を救う、2)ハリウッドからローマに来た女優シルヴィアを夜のローマへ案内したマルチェッロがシルヴィアの夫ロバートに殴られる、3)奇跡を起こすという姉弟がいるアパートメントを取材するマルチェッロが神聖な木を争う群衆の中でエンマを見失う、4)友人であるスタイナーと再会を果たしたマルチェッロが彼の自宅を訪ねると観念的議論に明け暮れる人たちをよそに子供を慈しむスタイナーの姿を垣間見る、5)突然ローマにやって来た父親をナイトクラブに連れ出したマルチェッロは体調を崩した父親の帰りを心配そうに見送る、6)貴族のパーティに招待されたマルチェッロはマッダレーナの告白を受けるもひなびた旧館で一夜を明かす、7)エンマと別れるに別れられないマルチェッロはスタイナーが子供を殺してピストル自殺を遂げた現場に立ち会う、8)ビーチハウスで夜通し乱痴気騒ぎをやったあげくに海外にあがった怪魚を目にしたマルチェッロはタイピスト志望の少女の声を聞き取ることができない。もしかしたら抜けているエピソードがあるかもしれません。なにしろ3時間近い長編なので覚えていられないですよね。

フェデリコ・フェリーニの特徴はやっぱり映画を総合芸術として捉えているところだと思います。ひとつひとつのショットはどれも完成度が高いのですが、その完成度はキャメラマンだけでなくセットデザインや照明、小道具、俳優、俳優や車の動きの制御など、画面に映っているすべてのものを完璧にコントロールすることで成立していて、監督の差配は総合的アウトプット全体に行き渡っています。なのでこの『甘い生活』以降のフェリーニの作品は単純に論ずることができずに、単なる感想では全く不足していますし、どんな難しい評論を書いたとしてもすべてを言い表すことなどとても及ばない感じになってしまいました。そうするとやっぱり普通の映画好きとしてはストーリーラインに目が行ってしまい、上記のようなエピソードの羅列が何を意味しているのかちょっと受け止めにくく感じてしまうのでした。

それにしても以前海辺のカフェで出会ったタイピスト志望の少女が、怪魚が引き上げられた海岸の入り江越しにマルチェッロに投げかける言葉はなんだったのでしょうか。一説によると「そんな人生でいいのか」的な問いかけだという話ですが、そんな観念的な言葉をカフェ勤めの少女が口にするんでしょうかね。ここは普通に「タイピストの職を紹介してくんないの?」みたいなきわめて即物的で自己都合的な問いとしたほうが自然ではないでしょうか。ちなみにこのパオラという少女はヴァレリア・チャンゴッティーニが演じていて、彼女は本作でフェリーニに見い出されてから若くて純粋な少女という役柄で多くの映画やTVドラマに出演することになりました。

少女が何を伝えたかったかはさておき、重要なのは何も聞き取れなくなっているマルチェッロの変容ぶりなのだと解釈したいところです。ゴシップジャーナリズムにどっぷりと浸かりながら父親の具合を心配する普通の職業人だったマルチェッロが、現世離れした階級社会を追いかけまわすうちにそっちの世界に取り込まれてしまったこと。そして現代とは誰もがそっちの世界に憧れをもっていて、いつでも誰でもそっちの世界にひとたび足を踏み入れれば抜け出せなくなってしまうこと。その恐ろしさを表現したのが、少女の問いかけが聞こえないマルチェッロだったのではないでしょうか。まあこのようにアレコレ考えてしまうことが本当の映画の愉しみ方なのかどうかは、ちょっとわからなくなってしまったんですけども。(T090122)

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