海軍少年航空兵育成機関の予科練を宣伝する海軍のプロパガンダ映画です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、渡辺邦男監督の『決戦の大空へ』です。この映画が製作・公開されたのは昭和18年。原節子が主演する東宝製作の映画ですが、クレジットに「海軍省検閲済み」「情報局国民映画」と出てくる通り、海軍による国策映画として作られました。国策映画だからといって「戦争を賛美するだけの絶叫型の気色悪い映画でしょ」というわけではなく、原節子の弟は病気がちで、跳び箱も跳べないひよわな少年として登場します。まあ、結局はそんな青白い少年でさえも兵隊さんになってほしいという、切羽詰まった状況での宣伝映画ではありますが、きちんとしたひとつの映画として鑑賞に堪え得る作品です。
【ご覧になる前に】映画法の制約の中で、しっかり作られた作品です
土浦にある予科練の近くに住む杉江の家は、毎週日曜日に訓練生たちを受け入れる「倶楽部」を開いています。きょうも班単位でやってきた訓練生たちに母親が芋饅頭をふるまう傍らで、弟のかっちゃんは病気で寝込んでしまっています。休日に英気を養った訓練生たちは、予科練では航空機の構造を実機で学び、操縦桿操作の実技で腕を磨く日々を送ります…。
昭和に入って日本映画は大変な隆盛期を迎えていまして、昭和10年代には年間500本の映画が製作・公開されていたそうです。これは当時ではアメリカに次ぐ規模でした。しかし、その日本映画の最初の黄金時代は、太平洋戦争開戦によって一気に萎んでしまいます。その大きな要因は昭和14年に施行された「映画法」。いわゆる検閲で、映画の内容が大衆に国威発揚を訴えかけているか、または軍国主義の国策に合致しているか(あるいは反していないか)が求められました。そのような背景を受けて、娯楽映画を作っていた各映画会社に所属する監督たちも、映画法に沿った作品を発表することになります。黒澤明も昭和18年のデビュー作『姿三四郎』は柔道を極める武道家を描いた映画として認められましたが、昭和19年には兵器工場で働く少女たちを主人公にした『一番美しく』を撮っていますし、木下恵介も昭和19年に陸軍省からの依頼を受けて『陸軍』を作りました。猫の杓子も戦争戦争という時代ですので、当時のメディアの中でも国民への影響力の強い映画においては、避けて通れない道だったのだと思います。
主演の原節子は、日活でデビューしてから日独合作映画『新しき土』に主演し、その美貌が注目の的でした。PCLを前身として発足した東宝に移籍して間もなく太平洋戦争が勃発、戦意高揚映画のヒロインとして『ハワイ・マレー沖海戦』や『勝利の日まで』などに出演しています。監督の渡辺邦男は、戦後新東宝が設立されると大ヒット作を早撮りで仕上げる監督として活躍する人ですが、それ以上に注目したいのは脚本の八住利雄。シナリオライターたちが集まって昭和40年に「日本シナリオ作家協会」が設立されると、その初代理事長についたのが八住利雄でした。そんなような熟練の監督や脚本家の仕事ですから、情報局国民映画であっても、映画作りとしての基本はしっかりとしています。
ちなみに当時の映画館では、本作のような戦意高揚映画ばかりを上映していたわけではなく、国策に反しない内容であれば以前と同じような娯楽作品も普通に公開されていたようです。なのでエノケン主演の時代劇仕立ての喜劇などが上映されているとその映画館は満員御礼で、国策映画を上映している隣の映画館はガラガラだったという報告も記録されています。あっちもこっちも戦争一色の時代ですから、映画くらいは楽しんで見たいという雰囲気があったのかもしれませんね。
【ご覧になった後で】「攻撃精神」「犠牲的精神」が重要って結局…。
今の平和な時代の視点では、海軍の自画自賛的な描写は大変に恥ずかしい感じがしてしまいますね。例えば「班長はお兄さん」ということで、急病の訓練生を徹夜で看病するなんて場面が出てきて、「おいおい、嘘もいい加減にしろよ」と言いたくなります。一方で、教育にはある程度の厳しさも必要だなと思わせるところもあって、ときに厳しくときに優しく導いてくれる先輩という存在は、このような特殊技能集団を育成する場に欠かすことができなかったのかもしれません。
しかしながら、予科練といえば当時の少年たちの憧れの的で、予科練のテーマソング「若鷲の歌」で歌われるように「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦には でっかい希望の雲が沸く」ような若者たちから選ばれた精鋭を育てるエリート養成機関でした。たぶん真珠湾攻撃から半年くらいの日本軍の快進撃は、予科練で高度に訓練された航空兵たちの航空技術や照準技術がもたらしたものだったのでしょう。しかし昭和17年6月のミッドウェイ海戦での敗戦を契機に日本軍の劣勢が明らかになっていきます。優秀な操縦士たちは激戦を重ねることに撃ち落されてどんどんと減っていきましたので、海軍としてはひとりでも多くの次の若者が必要になりました。なので、かっちゃんのように、跳び箱も跳べない、懸垂もできないなんて子どもは昔なら予科練なんてとても入れないところだったのが、かっちゃんレベルでも十分予科練に入れますよと宣伝せざるを得なかったのでしょう。エリート養成機関は、戦況の悪化とともに誰でもウェルカムの戦闘員募集機関に変わり果てていたのでした。
訓示の中で教官が「お前らに必要なのは、攻撃精神と犠牲的精神のふたつだ」と叫びます。この「攻撃」と「犠牲」を重ね合わせると、思い浮かぶのはあの「特攻」になってしまいますね。日本軍が「神風特別攻撃隊」を組織してアメリカの機動部隊に体当たりの自爆攻撃を行うのは、昭和19年のこと。ですからこの『決戦の大空へ』を昭和18年に見た少年たちは、憧れの予科練に入隊して、操縦士となったときには、ちょうど「特攻」に出撃しなくてはならなかったことになります。俳優の三船敏郎は海軍従軍時にこの特攻隊員たちを戦地に送り出すトレーナーのような役割をやらされていたそうです。そうした若者というか少年たちを上からの命令で送り出さなければならなかったことを三船敏郎は誰にも語ることなく、生涯背負い続けていたといいます。そういう世の中にさせないという気持ちを忘れないためにも、本作のような国策映画であっても映像記録としてきちんと残していくことが必要なのではないでしょうか。(Y103021)
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