クラッタ―一家殺人事件を扱ったカポーティの小説をモノクロで完全映画化
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こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、リチャード・ブルックス監督の『冷血』です。1959年にカンザス州で発生した殺人事件をトルーマン・カポーティが小説として発表したのは1965年のこと。映画化権を40万ドルで購入したリチャード・ブルックスが自ら脚本を書いて製作し、コロンビアピクチャーズが配給したのが本作で、リアリズムを重視するためモノクロ映像で撮影されました。アカデミー賞ではリチャード・ブルックスが監督賞・脚色賞、コンラッド・ホールが撮影賞にノミネートされましたが、いずれもオスカーは獲得できませんでした。
【ご覧になる前に】犯人役ペリーとディックには無名の俳優が選ばれました
大きな荷物とギターを抱えたペリーはカンザスシティ駅に降り立って出所した刑務所に電話しますが担当の教誨師は不在でした。駅で待ち合わせしていた刑務所仲間のディックは、年老いた父親と暮らしていて、ペリーと会うなりフロイドという男が働いていた農場を襲って金を奪う計画を話し始めます。600km離れたホルカムという町に車で向かう二人は、ロープやガムテープを購入して、深夜遅く農場を経営するクラッタ―家に到着するのですが…。
『ティファニーで朝食を』の原作でも知られる1924年生まれのトルーマン・カポーティは両親が離婚したためにアメリカ南部の遠い親戚の家を転々とする子供時代を過ごした人。アラバマにいたときの幼なじみハーバー・リーはカポーティをモデルに『アラバマ物語』の少年を書いたと言われています。「ザ・ニューヨーカー」のライターを経て小説家になったカポーティは天才作家としてもてはやされ、社交界で話題の人物となっていきますが、カンザス州で発生したクラッタ―一家殺人事件に興味を持ち、現場で入念な調査を行い、殺人犯にもインタビューをしたノンフィクション・ノベル「冷血」の執筆を始めました。
ロシア系ユダヤ移民の家に生まれたリチャード・ブルックスはもとは脚本家の出身で、『十字砲火』の原作や『真昼の暴動』『キー・ラーゴ』のシナリオを書いた人でした。1950年代から監督業に進出して『雨の朝巴里に死す』『暴力教室』『熱いトタン屋根の猫』などの作品を輩出します。1965年の『ロード・ジム』からはプロデューサーを兼ねるようになり本作は『プロフェッショナル』に続いて製作した作品になります。
カポーティの小説を映画化するにあたって、リチャード・ブルックスはドキュメンタリータッチで描こうと考え、当時はよほど低予算映画でないと使われなくなっていたモノクロで撮影することでリアリティのある映像表現を試みました。また配給のコロンビアピクチャーズがポール・ニューマンとスティーヴ・マックイーンというスター俳優を出演させる意向を示したのに対して、無名俳優の起用にこだわりました。「ポール・ニューマンのことはみんなが好きだがそれが問題で、観客は誰も怖がらない」というのがその理由で、結果的には子役しか経験のなかったロバート・ブレイクがペリー役、『夜の大捜査線』しか出演経験のなかったスコット・ウィルソンがディック役に抜擢されたのでした。
リアリズムを追求するリチャード・ブルックスは撮影場所にもこだわって、殺人現場となったクラッタ―邸や実際の法廷でロケーション撮影を敢行しました。キャメラマンのコンラッド・ホールはブルックスの前作『プロフェッショナル』に続くブルックス監督作品での撮影を担当することに。また音楽はエルマー・バーンスタインが候補に上がったそうですが、ジャズ・トランペッターのクインシー・ジョーンズがクールな印象の楽曲を映像に加えています。
【ご覧になった後で】淡々と進む犯罪の経過と殺人現場の対照が見事でした
いかがでしたか?トルーマン・カポーティの小説は圧倒的なリアリズムでぐいぐい引き込まれる迫真性がありましたが、映画のほうはぐいぐいというよりは淡々と事実を描いていきます。小説は読むほどに事件の凄惨さが重くのしかかってくるような印象であったのに対して、映画は一定のテンポで進展していきますので、殺人事件後の小切手詐欺やメキシコ逃避行のくだりなんかもあまり暗くならずに見ていられました。小説では一家四人殺害を後悔することもなく逃げ続けるペリーとディックに感情移入できず、二人の行動があまりに通常の理解からかけ離れているので、読み続けるのがどんどん辛くなってくるんですよね。でも映画は時間芸術ですから勝手に物語が進行してくれるので、それが淡々とした印象を観客に与えるのかもしれません。
感情移入という点では、小説ではペリーとディックには絶対的に同情する気にはなれず、逮捕されてから判決を受け死刑執行されるまでもかなり長く描かれるのが耐えられないくらいでした。カンザス州にはきちんとした拘留施設がなく、保安官事務所の一室に留置されることになって、その過程で人々や窓にやってくる鳥たちとの交流が描かれます。特にカポーティがペリーと交流を深めたため小説の後半ではペリーを好意的に描くようになるのですが、読者にはそれを受け入れる気にはとてもなれず、正直言って一刻も早い処刑を願うような気分に落ち込まされます。
ところが映画では肉体をもった俳優が演じるので、どうしても生身の人間を見ると感情移入してしまうんですよね。ディックを演じたスコット・ウィルソンはいかにもサイコパス的で、頭の回転も良く理知的な行動ができる一方で常に狂気と紙一重の緊張状態にいる雰囲気が出ていました。なのでディックはまあ突き放せるとしてもペリーをやったロバート・ブレイクは、ネイティブアメリカンとの混血という設定が直接視覚的に訴えかけてきて、ロデオに興じる子供時代や母親の姦通を子供たちが目撃したときの回想シーンが観客に「不幸な生い立ちをもつ同情すべき人物」という印象を与えてしまいます。
小説のペリーは絵や音楽が好きな混血の青年というよりはやっぱり極悪非道の犯罪者として読者は受け取るものの、映画のペリーは可哀想な人という感を強く持ってしまいます。この差が小説と映画の決定的な違いで、なじみのない無名俳優ですらこうなのですから、ポール・ニューマンやスティーヴ・マックイーンを起用していたら、観客全員が無罪放免を願うようになってしまったことでしょう。リチャード・ブルックスがスター俳優起用に反対したのは本当に正解でした。
そんな淡々とした描写の中でショッキングさが際立つのがクラッタ―家の四人を惨殺するシークエンス。金庫があるという思い込みから家族全員を拘束したうえに喉を掻き切ったりショットガンで撃ち殺したりする陰惨さはまともに画面を見ていられないくらいでした。ただ、ペリーがベッドの下に落ちた1ドル銀貨を拾い上げてこんなことのために600kmも離れたホルカムまで来たのかとキレてしまうところは、小説のような心理描写までは踏み込めていないので、ペリーの衝動がちょっと伝わりにくかったような気がします。
この殺人シークエンスを二人が逮捕されたあとの回想にもってきたのは、シナリオライター出身のリチャード・ブルックスだけあって洗練された脚色でしたし、逮捕後に控訴を繰り返す下りを省略したのも一気に絞首台のラストシーンにもっていくには最善の選択だったと思います。それでも本当に絞首台の床が外れて「首吊り」になるペリーのショットで終幕となるのは実にショッキングで、立会いの刑務官に300ドルの手当てが支払われることをペリーが聞かされるのも刑場のリアリティを残酷に伝えるエンディングになっていました。
ペリーが絞首台に連れて行かれる前、教誨師に向って自分の人生を振り返る場面のショットが本作の中の白眉でした。窓の外に雨が降っていて、窓ガラスをつたう雨だれがペリーの顔に反射し、ペリーの頬に滂沱の涙が流れるように見えるあのショットです。あれは照明の加減で偶然そうなっただけだという説もあるそうですが、絶対に偶然ではなくリチャード・ブルックスあるいはキャメラマンのコンラッド・ホールによる演出に間違いありません。懺悔も後悔もすることがなかったペリーの心情を映像的にぶち抜いた見事なショットで、しかもキャメラが動かずにバストサイズのままフィックスで撮り続けたことで観客とペリーとの間にある深い溝をも的確に表現していたのではないでしょうか。
無名の俳優を起用したということでは、ロバート・ブレイクもスコット・ウィルソンも実在のペリーとディックに似ているのですが、クラッタ―家の四人については殺人事件をレポートしたウェブサイトを見て驚いてしまいました。実際の被害者と映画に出てくる四人が本当に瓜二つなのです。特に男の子のケニヨン役は髪型から眼鏡、白いTシャツに黒いVネックセーターまでそっくりそのまま。あまりに残酷な事件だったのでアメリカではマスコミ報道もされたでしょうから、公開当時に本作を見た観客は当時の報道写真を思い出してさぞ驚愕したんではないかと思います。
トルーマン・カポーティは死刑判決を受けたペリーと親交を深めると同時に、死刑執行されないと自作の結末が書けないという相反する思いを抱くようになり、ノンフィクション・ノベルを確立した本作を出版した後は二度と小説が書けなくなってしまいました。真実は小説より奇なりなわけで、映画を見ただけではペリーとディックが犯した殺人事件は闇のままのような気分になるのが本作の正直な感想でした。ちなみに双葉十三郎先生は傑作一歩手前、レナード・マルティン氏は満点の評価を本作に与えています。(A021726)

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