ひろしま(昭和28年)

原爆を投下された広島の惨状を真正面から描いたヒューマンドラマです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、関川秀雄監督の『ひろしま』です。昭和20年8月6日が広島に原爆を落とされた日だということを知らない人はいないと思いますが、戦後GHQ占領下の日本においては原爆投下の事実やその後の惨禍については厳しく報道規制されていたため、大半の日本人がその実態を写真などで確認することができなかったんだそうです。そんな背景もあり、GHQによる占領が終了してすぐに広島の実態を映画にして伝えようという動きが起こり、この映画が製作されたのですが、一部の描写が反米的と捉えられて一般のルートでは公開されないままになってしまいました。しかし近年になって再評価され、やっとTVで放映されるようになったのでした。

【ご覧になる前に】長田新が編集・刊行した「原爆の子」を脚色しています

広島市の高校で教師がラジオ番組の朗読を授業で聞かせているとひとりの女生徒が鼻血を出して倒れてしまいました。戦後に広島に赴任してきた教師は、医者から女生徒が白血病だと告げられ、広島では今でも原爆の後遺症に悩む人たちがいることを知ります。見舞いに訪れた家では女生徒には幻聴のように軍艦マーチを聞こえてきて、少女だった戦時中に女先生とともに建物疎開の現場で働いていたのを思い出します。真夏の真っ青な空を見上げると、やがて生徒たちは「Bの音だ」と言ってB29が飛来してくるのを感じますが、その次の瞬間、猛烈な光を浴びたかと思うとものすごい熱線で周囲の建物が吹き飛び、たちまちのうちにあたり一面火の海となっていたのでした…。

GHQによる日本占領は昭和27年4月にサンフランシスコ平和条約が発効して終了となりました。GHQ占領下においては広島・長崎への原爆投下による惨状については、GHQが厳しく報道統制を敷いていたことからあまり実態が伝えられなかったといいます。しかし日本が主権を回復するとその規制がなくなり、昭和27年夏には原爆被害者の痛々しい写真を掲載した「アサヒグラフ」が出版されたり、公民館や学園祭などで原爆写真展が開催されたりして、次第に隠されていた実態が明らかになっていきました。

長田新が編纂した原爆体験文集「原爆の子」はGHQのプレスコードをかいくぐって昭和26年10月に岩波書店から刊行されました。広島市の小中高校から集めた子供たちの作文をまとめたものだということで出版が許可されたのかもしれませんが、原爆被害の実態を赤裸々に伝えるはじめてのメディアでしたので国内外に大きな反響を呼ぶことになりました。そしてこの「原爆の子」を映像化しようという企画が近代映画協会と日教組の合同で持ち上がり製作の準備に入るのですが、近代映画側の新藤兼人による脚本が原爆の実態を描いていないと日教組側が反発し、結果的には近代映画協会が単独で製作した『原爆の子』は昭和27年8月に公開され、翌年にはカンヌ国際映画祭に出品されるなど世界的な注目を集めることになりました。

一方で日教組側は中央委員会が原爆投下の8月6日を忠実に再現した作品をつくろうと、全国の組合員にカンパを募って製作費を捻出し、内田吐夢監督の『限りなき前進』の脚色などを担当した八木保太郎が広島県の教職員組合との話し合いのもと脚本を練り上げ、タイトルも『ひろしま』に変更することになりました。撮影には実際に原爆被害にあった広島市民8万人がエキストラや端役として協力出演したということですが、8万人といったら甲子園球場二個分以上のものすごい人数ですから、のべ人数なのかもしれません。俳優としては広島出身の月丘夢路はノーギャラで出演したらしく、たぶん山田五十鈴や加藤嘉、花沢徳衛、三島雅夫、信欣三など他の俳優たちもほとんど出演料はなかったのではないでしょうか。そのような協力を得て、日教組版の『ひろしま』は新藤兼人の映画公開からちょうど一年後の昭和28年8月に広島市内の映画館で試写会が開かれたのでした。

しかし日教組が配給元として交渉していた松竹は映画の内容を見て反米的描写がある一部のシーンのカットを要求して、ついには日教組側と決裂。東宝や大映などの大手各社からも揃って配給を拒否され、日教組による自主上映に頼るしかなくなっていきます。さらには試写を見た大阪府教育委員会が教育映画としての推薦をしない方針を決めたことで、学校内での上映会も進まないことになりました。海外では2年後の1955年にベルリン国際映画祭で上映されて賞を獲得しているようです。

監督の関川秀雄はPCLから東宝に進んだ人でしたが、戦後の東宝争議の際に退社し、本作のような社会的な問題意識を取り上げた作品を監督しています。東映に活躍の場を移した以降は、東映東京撮影所製作の刑事ものやギャングものも作ったりして、さらには霞が関ビルディングの建設ドキュメンタリーとして有名なPR映画『超高層のあけぼの』を監督しています。

【ご覧になった後で】原爆被災の実態が凄まじいまでに描かれていましたが…

GHQがひたすら隠匿しようとした原爆による被災と戦後まで継続する被害の実態を、ここまであからさまに余すところなく描こうとした意欲は賞賛に値するというか、賞賛だけでは及ばない労苦のもとに製作された映画なのだと思います。プロットの作り方も見事で、戦後原爆のことを忘れかけている広島の日常から始めて、そこに鼻血の一滴が消えないのと同じように原爆後遺症が継続していることを訴えながら、一気に8月6日当日の禍々しい被災の実態に迫っていくという組み立てになっていました。

何よりも被災当日から数週間後までの描写は本当に正視していられないくらいのむごたらしさで、月丘夢路と山田五十鈴の熱演はもちろんですが、とりわけ加藤嘉が演じる遠藤一家のエピソードは何の罪もない平凡な一家全員がその人生を台無しにされてしまう悲惨さを強く伝えていました。全身を火傷して「寒いよ寒いよ」と叫び続ける子供の描写のかたわらで、死にかけた父親の顔を見て「お父ちゃんじゃない!」と走っていってしまう妹が結果的に兄とはぐれていなくなってしまう展開は、その後の妹を一切描かないことでかえってリアルさが際立っていて、見ていて恐ろしいぐらいでした。

8月6日の回想から再び時制が今時点に戻ってくるのですが、そこからの描き方には製作サイドの当時の政治的姿勢や意図が盛り込まれていて、現在的にはそこが余分だったような感じがします。工場に通い始めた遠藤少年が大砲の弾を造ることになって工場をやめてしまうとか、宗教にすがる伯父一家の描き方にやや嘲笑するような態度が感じられるとか、せっかくここまで広島の実態を描き切っていながら、変なバイアスを入れてくるのが少し残念でした。ストレートに原爆の惨禍の前では、イデオロギーも経済体制も宗教も教育もすべての対立が無意味であるという姿勢を貫いた方が効果的だったのではないでしょうか。

とはいえ、昭和28年にこのような映画を製作したことの意思と勇気には脱帽するしかありません。もしかしたらアラン・レネはどこかで本作を見て、それをきっかけにあの『二十四時間の情事』すなわち「ヒロシマ・モナムール」を作る決意をしたのではないでしょうか。岡田英二を起用したことも本作でその存在を認識したという見方のほうが正しいような気もします。(V080922)

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