旗本退屈男 謎の七色御殿(昭和36年)

市川右太衛門主演の「旗本退屈男シリーズ」第28作は鍾乳洞が舞台となります

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、佐々木康監督の『旗本退屈男 謎の七色御殿』です。サイレント映画時代から活躍を続けた時代劇俳優・市川右太衛門は旗本退屈男を当たり役としていて、本作はその28本目の作品にあたります。将軍家次男が預けられていることから葵の宮と呼ばれている月照宮が鍾乳洞の洞窟とつながっているという設定で、市川右太衛門が全編に渡って見事な立ち回りを見せる娯楽時代劇に仕上がっています。

【ご覧になる前に】演歌歌手村田英雄が巫女の兄役で出て歌も披露しています

豪華絢爛な楼門や五重塔、宝物殿が立ち並ぶ伊豆の月照宮には将軍家次男義丸君が預けられていて、別名「葵の宮」と呼ばれています。将軍家嫡男鶴丸君が二十年ぶりに弟と対面するため月照宮を訪問することになり、退屈の殿様早乙女主水之介は半五郎やおみねを従えて当地に先乗りしますが、月照宮では七人の巫女がある密書を覗き見たために軟禁されていて、裏門につながる鍾乳洞を通って抜け出そうとした真弓が黒装束の忍者に斬殺されるところに出くわします。忍者たちを蹴散らかした主水之介は道に迷った双子の歌い手姉妹とともに宿へ入るのですが、そこでも忍者の襲撃を受けることになるのでした…。

市川右太衛門は日本舞踊を習っていた頃に子役として舞台に立つようになり二代目市川右團次の弟子として歌舞伎界に入りました。十八歳のときに牧野省三に招かれてマキノ・プロダクションに入社。芸名を市川右太衛門として映画界に移籍します。阪東妻三郎、月形龍之介とともにサイレント映画の剣戟スターとなった後に、自らの製作プロダクション「右太プロ」を設立して昭和5年に右太衛門自身が原作を読んで気に入り製作した『旗本退屈男』に主演。以来「旗本退屈男シリーズ」は市川右太衛門のライフワークとなり、右太プロから松竹と製作会社を変えながら、昭和28年に公開された14作目『旗本退屈男 八百八丁罷り通る』以降はすべて東映京都撮影所で作られることになりました。

東映設立時に片岡千恵蔵とともに東映の取締役になった右太衛門は京都北大路に住まいがあったことから社内では「北大路の御大」と呼ばれていたそうです。本作は「旗本退屈男シリーズ」の28本目の作品で、シリーズは昭和38年1月に公開された第30作『旗本退屈男 謎の竜神岬』で打ち止めになりました。翌年には市川右太衛門主演の時代劇はもう製作されなくなり、昭和41年に取締役を降りて相談役に退いてほしいと打診された右太衛門は潔く東映を退社。北大路の住まいも引き払って東京へと移り住むことになりました。

元は佐々木味津三という人が文芸倶楽部という雑誌に連載していた小説でしたが、これほど多く映画化されていますので、ほとんどの作品が早乙女主水之介の設定だけを受け継いだオリジナル脚本だったのではないかと思われます。本作の脚本を書いた結束信二は東映京都で時代劇のシナリオを150本以上残していて、東映時代劇を支えた職人シナリオライターの一人でした。一方監督の佐々木康は松竹蒲田出身で蒲田時代には小津安二郎や清水宏の助監督もつとめていました。松竹大船で50本以上のプログラムピクチャーを監督した後に、昭和27年に東映に移籍して時代劇を80本くらい監督したという記録が残されています。

本作で巫女の兄役で出演している演歌歌手の村田英雄はもちろん当時も人気歌手のひとりではありましたが、「王将」が大ヒットするのは本作公開の三ヶ月後のことでした。そして翌年のレコード大賞を獲得して村田英雄は歌謡界を代表する歌手のひとりになっていきます。本作でも田舎の子供たちといっしょになって歌を披露していて、このタイミングで東映が本作に村田英雄を起用したのはまさに予言的というか先読みした配役だったと言えるかもしれませんね。

【ご覧になった後で】東映時代劇のクオリティの高さが伝わる娯楽作でした

いかがでしたか?「旗本退屈男シリーズ」を見たのははじめてのことだったのですが、TVシリーズでもおなじみのキャラクターですので、いきなり殿様が最前線に立って活躍するという設定は違和感なく受け止めることができました。しかしそんなことよりも驚かされたのは数多いのシリーズ作品のひとつにしか過ぎないのに実に面白く楽しめる娯楽作に仕上がっていること。起承転結がはっきりしたプロットと義丸が偽物であるという謎が徐々に解き明かされる構成で物語に引き付けられますし、右太衛門の立ち回り場面が随所に挿入されて活劇の趣が継続されます。そして登場する俳優たちがみんな芸達者なため自然とそれぞれのキャラクターに思い入れができるようになっています。これこそが東映時代劇のクオリティだったんだなと妙に感心してしまいました。

そんな本作の一番の成功は「七色御殿」として耕三寺をロケーション撮影の場所に選んだことではないでしょうか。色彩鮮やかな大伽藍が立ち並ぶ境内はまさに本作の「葵の宮」にふさわしいケレン味がありましたし、中身のない虚飾性を象徴していました。耕三寺は広島県尾道市にある仏教寺院で、昭和11年から建造が始まったという歴史の浅い新しいお寺です。日本を代表する建築物を模して作られていて、山門は京都御所、本堂は平等院鳳凰堂、五重塔は室生寺、孝養門と名付けられたきらびやかな建造物は日光東照宮の陽明門を模したものです。新しいとはいっても百年近くが経過しているわけで、現在では国の登録有形文化財に指定されている建造物も少なくありません。この「西の日光」とも称される耕三寺の雰囲気が本作のベースとなっていることは間違いないでしょう。

そしてやっぱり市川右太衛門の時代劇スターとしての存在感は超一流でしたね。右太衛門が出てくるだけで画面がグッと引き締まりますし、立ち回りの際の殺陣も見事に決まっています。「忠臣蔵もの」なんかをみるとセリフがモゴモゴしていて何を言っているかよく聞こえないという印象があったのですが、本作ではセリフも明瞭でキレのいい啖呵を聞くことができました。もちろん敵役の月形龍之介も同じでして、目がギョロッとした右太衛門に対して、月形龍之介の冷ややかな細い目もこれまた貫禄十分でした。鍾乳洞の洞窟内で二人が向かい合うクライマックスはどのように斬りあうかではなく、どう対峙するかだけで成立してしまうくらい、重みのある二人が見どころとなっていました。

脇で出てくる人たちも安定感抜群で、東千代之介は本作のような軽めの役がぴったりですし、渡辺篤のコメディリリーフぶりもいつも通りでした。女優の中で注目はなんといっても久保菜穂子で、身長163cmは当時としては長身でしたから実にスラリとしたスタイルが目立っていましたし、顔が小さくて本当に八頭身美人とも言える正統派の女優さんでしたね。

いずれにしてもシリーズで回を重ねるごとに派手になっていったという主水之介の衣装に象徴されるように東映時代劇は豪華絢爛なだけではなく、その歴史と共に面白く見せる作り方が洗練されていったのでしょう。なにしろ東映京都撮影所では年がら年中時代劇を作り続けていたわけです。スタッフもキャストもその繰り返しの中で次はこうしようとかあんなことに挑戦しようとかいう創造性がスパイラル的に積みあがっていったのではないでしょうか。本作が公開された昭和36年はもう日本映画の観客動員も下り坂を転がり落ちる時期に入っていましたが、製作する側では映画を面白く見せるテクニックがまだまだ噴出し続けていたのでしょう。東映時代劇の黄金期を再確認するには最適な作品のひとつかもしれません。(Y081323)

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