清水宏が引き取って育てていた戦災孤児たちを出演させて自主製作しました
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こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、清水宏監督の『蜂の巣の子供たち』です。戦前には松竹監督部の筆頭だった清水宏は戦時中に松竹を離れ、戦後になると戦災孤児十数人を引き取って熱海の山中で育てていました。その子供たちを出演させて映画を作ることを考えた清水宏は同人たちを集めて「蜂の巣プロダクション」を設立し、本作を自主製作します。当時争議で映画製作がストップしていた東宝が配給して一般公開されると、子供たちの自然な演技が評判となり、昭和23年度のキネマ旬報ベストテンでは第四位に選出されました。
【ご覧になる前に】下関から広島を経由して四国に渡るロードムービーです
下関駅で復員兵たちが列車に乗り込むのを眺めていた戦災孤児の晋公と義坊は、背嚢を背負ったひとりの男が列車に乗らないでいるのを見つけます。子供たちは男を「おじさん」と呼び、もらったパンを片足の叔父貴の元に運びます。どうやら傷痍軍人らしいその叔父貴は子供を使ってピンハネ業をやっているようでした。おじさんは自分が育った「みかえりの塔」という施設に行くため四国を目指すと言って歩き出し、晋公たち6人の子供たちは叔父貴の元を離れておじさんの後をついていきます。荷役仕事にありついたおじさんは子供たちと一緒に日雇い仕事につき、「働いて食べるものはおいしい」と芋を食べながら岩国の錦帯橋を渡るのでした…。
清水宏は大正11年に松竹蒲田撮影所に入社、翌年に入社してきた小津安二郎とは親友の仲だったそうです。入社2年で監督に昇格し、下加茂撮影所に移ったときには新人女優だった田中絹代と恋仲となり「試験結婚」の末に別れています。松竹蒲田に復帰後は『大学の若旦那』で恋とスポーツをからませた都会派喜劇スタイルを確立し、大船撮影所に移転以降は『有りがたうさん』など移動ショットを多用したロケーション撮影の手法が「実写的精神」と呼ばれて松竹監督部筆頭の立場になります。
戦時中に台湾で『サヨンの鐘』を撮ったあとで清水宏は松竹を追放されているのですが、原因は現在的にいうところスタッフに対するパワハラだったようです。一時は隠遁生活を送ったとされていますが、戦後になると戦災孤児を引き取って熱海の山中で子供たちとの共同生活を始めます。そんなときにこの子供たちを出演させて映画を作ろうと思いつき、後に東宝の特撮映画で多くの脚本を書く関沢新一や本作でキャメラマンをつとめている古山三郎などが製作同人となって「蜂の巣プロダクション」を立ち上げることに。和歌山の地主が清水宏の活動に賛同して資金を出したという話もあり、清水宏は140本以上の作品を監督した松竹を離れてから初めての映画を独立プロで製作することになったのでした。
映画の冒頭に「この映画の子供たちにお心当りの方はありませんか」という字幕が出てくる通り、本作に出演している子役は全員清水宏が引き取った戦災孤児たちです。役名もほとんどその子供の名前を使用していて、主人公格の晋公は久保田晋一郎、義坊は千葉義勝という子供が起用されています。もともと清水宏は子供を扱った映画を得意としていて昭和12年の『風の中の子供』では松竹の名子役だった爆弾小僧と葉山正雄に非常に自然な兄弟役を演じさせていました。清水宏は子供たちと一緒に遊んでやりながら、気持ちを通い合わせたうえで撮影にのぞんでいたそうで、そういう子供好きなところからわざわざ戦災孤児たちの面倒を見ていたのかもしれません。
戦後すぐに東宝で起きた「東宝争議」は戦後最大の労働争議で、第一次争議が昭和21年3月、第二次が10月に勃発しました。第二次争議後の昭和22年には大河内伝次郎らのスター俳優たちが結成した「十人の旗の会」が東宝を離脱したのをきっかけに新東宝が設立され、製作を新東宝が担い東宝が配給することで争議中の東宝を支えていくことになります。昭和23年には最大規模となる第三次争議が起こり、4月から10月までの長い闘争が始まりました。
この『蜂の巣の子供たち』の公開は昭和23年8月ですから、まさに「来なかったのは戦艦だけ」という労働紛争の渦中で上映されたことになります。この年の東宝製作による映画は五所平之助の『面影』と黒澤明監督の『酔いどれ天使』が4月に公開されただけ。その2本以外で東宝が配給したのは新東宝製作作品と本作で、松竹出身の清水宏による独立プロ製作の本作が東宝配給で映画館にかけられたのは、東宝争議のおかげでもあったのです。
【ご覧になった後で】お得意の移動撮影がクライマックスで冴えわたります
いかがでしたか?戦災孤児をそのまま出演させているというのはどうやら本当のようで、確かに子供たちはみんな自然のようでいながらもどこか言わされている通りのことを言っているだけに見えます。それがリアルであると同時に素人っぽい感じがしてしまうので、素人芝居を映画で見せられているような感じにも思えます。復員兵のおじさんをやっている島村修作という人も本作以外に出演作がありませんので、清水宏が本作のためにどこかで見つけてきた人なんでしょう。お姉さん役の夏木雅子という人も同様で、おじさんはまだしもお姉さんの方の演技は学芸会っぽさが抜けません。
独立プロの作品でしかもオールロケーション撮影で作られており、現場でプロの映画人は監督の清水宏とキャメラマンの古山三郎だけだったそうですし、子供たちは自分の出番がないときはレフ板をもったりして照明係のようなお手伝いをしていたんだとか。なのでキャストもスタッフも食事と寝床がギャラ代わりだったのではないでしょうか。そんな手作り感が良いとも言えますし、イタリアのネオリアリスモのような臨場感を生んでいるのかもしれません。
ストーリーとしてはおじさんと子供たちの交流を描きながら、終盤での義坊の死がドラマの大きなヤマ場になります。それまでは清水宏らしくトラックダウンする移動ショットで道を歩くおじさんと子供たちを正面から捉えていきますし、たまに挿入される超ロングショットによる引きの構図が登場人物たちを一気に点景のひとつにしていきます。それは清水宏が観客に対してあえて特定の登場人物に感情移入させないためのように思えますし、映画全体が風景画のような印象に感じられるのも清水宏の演出スタイルのためでしょう。なので外見はロードムービー風の作品なのですが、ロードムービーにありがちな旅をする登場人物たちが次第に濃密な人間関係を築いたり互いの過去を知り合ったりというベタついた感じはまったくありませんで、おじさんも子供たちも「旅は道連れ」的なドライな一団に感じられるのです。
そんな描き方をしているから、義坊を背負って山を登る晋公の姿をはるか遠くからとらえた移動ショットは非常にエモーショナルに感じられます。もちろん空撮なんて金のかかる撮り方はできませんから、遠景の移動ショットとはいっても、はるか上の方の道から横移動しながら撮るとか向かいの尾根から遠くを歩く晋公と義坊をとらえるとかしか出来ません。なのでキャメラは手振れしていますし、移動もスムースではありません。でもこのショットを撮るために清水宏と古山三郎と子供たちがどんなに苦労したのかがビンビンと伝わってくるのです。
どこをどう歩くか。いつ歩き出すか。いつまで歩き続ければいいのか。それをトランシーバーや携帯電話などがない中で大声を張り上げて大人と子供が一緒になって伝えあって、キッカケを出して、キャメラを回し、移動させている。そんな撮影現場の様子がこの場面から立ち上がってきます。観客は二人の子供とともに山を登り切り、遠くに海を見つけたとき義坊の死を悟ります。この場面だけで、本作がもつ素人っぽさはすべて解消され、逆に静かな感動がこみ上げてくるのです。晋公と義坊の山登りは日本映画の名場面のひとつに数えても良いのではないかと思います。
ロードムービーのもうひとつの特徴は移動する場所が映像として記録されることなのですが、本作はまず戦後すぐに下関駅の外景を見ることができます。おじさんと子供たちは四国を目指して東へと移動しますので、次に出てくるのは岩国の錦帯橋。錦帯橋の姿は現在とほぼ変わらずなんだか安心してしまったのですが、広島の街が映し出されるのを見ると原爆投下からわずか3年弱で立ち直ろうとする人々の息吹きが画面に刻み込まれていることに驚かされます。もちろん街の光景はバラックだらけのスラム街のようにも見えますが、原爆投下直後に撮影されたすべてが破壊され荒涼として広がる瓦礫の写真と比較すると、短期間に人々がどん底から復興に向ったことがわかりますし、やっぱり生命力の力強さを感じないわけにはいきません。
映画のラストはおじさんが育った感化院「みかえりの塔」に迎えられる場面となりますが、清水宏は昭和16年1月に『みかへりの塔』という1時間50分の長編映画を松竹で撮っていて、200人以上の特殊児童を収容して養育する孤児院を描いたという設定を考えると、本作はそのアンサーソングというか続編のような位置づけにあるのかもしれません。おじさんと子供たちが義坊の死を乗り越えて「みかえりの塔」に到着する結末を現実逃避だとか甘いとか見る向きもあるそうですが、戦後の混乱の中を生きる孤児たちをこれ以上いじめる必要なんてあるわけがありません。誰しも希望をもって生きたいわけですので、「みかえりの塔」に迎え入れられるエンディングこそが本作に最もふさわしいと思いますし、この結末を知って安心して映画を見終えることが出来ます。理想主義を非難しても何もいいことありませんし、そこまで意地悪したくなる気持ちは全く理解できませんね。(Y120923)
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