ジェームズ・M・ケインの小説を映画化した保険金をめぐる犯罪サスペンス
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ビリー・ワイルダー監督の『深夜の告白』です。ジェームズ・M・ケインが書いた「殺人保険」を脚色したのは監督のビリー・ワイルダーと小説家レイモンド・チャンドラーの二人。1944年当時としては反道徳的なテーマを扱った映画は、後にフィルムノワールにおけるファムファタールものの原典と評されるようになりました。アカデミー賞でも作品賞・監督賞・主演女優賞など7部門にノミネートされたのですが、オスカーは同じくパラマウント映画の『我が道を往く』にすべてかっさらわれてしまい、無冠に終わりました。
【ご覧になる前に】ワイルダーとチャンドラーの仲は険悪だったらしいです
深夜の道路を信号無視で突っ走る車はあるビルの前で停まりました。車から降りた男は保険セールスマンのネフで、エレベーターを吹き抜け回廊になったオフィス階で降りると、部屋のボイスレコーダーに向って「殺したのは俺だ」と告白を始めます。自動車保険の更新でディトリクスンの家を訪れたネフは、留守宅にいた妻フィリスがアンクレットをつけて現れたのに見とれ、数日後にフィリスから夫を傷害保険に加入させたいと相談されました。保険金詐欺の臭いを感じたネフは一度は拒絶しますが、自宅にやってきたフィリスを抱きしめてしまうのでした…。
ジェームズ・M・ケインは新聞社でジャーナリストとして働く傍らに小説を執筆するようになり、ハリウッドで脚本家兼小説家として活動していました。1934年に書いた「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がベストセラーとなって注目され、1935年には「殺人保険」(倍額保険)を発表。初版出版時に2万5000ドルで映画化のオファーがあったものの、映画製作倫理規定の審査を担っていたヘイズオフィスから映画化には不適と判断されてしまいます。最終的にパラマウント映画が1万5000ドルで映画化権を獲得し、ヘイズコードをクリアした際にやっとジェームズ・M・ケインはギャラを全額受け取ることができたそうです。
ケインの小説に目をつけたのはビリー・ワイルダーで、最初はチャールズ・ブラケットに脚色を依頼したのですが、保守的な信条をもつブラケットは「殺人保険」を不道徳な小説だと決めつけ、協力を拒んだんだとか。そこでビリー・ワイルダーの共同脚本家に起用されたのがレイモンド・チャンドラー。1939年の処女長編小説「大いなる眠り」でフィリップ・マーロウを登場させたチャンドラーは、「さらば愛しき女よ」「湖中の女」の発表後にハリウッドに招かれ、パラマウント映画から高額の報酬を得ることでシナリオライティングの契約を交わしていました。なのでチャンドラーの起用はビリー・ワイルダーが望んだわけではなく、パラマウント側の事情だったようです。
シナリオ化の共同作業が開始されると、ビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラーの関係は最悪だったらしく、特に五十代半ばになっていたチャンドラーは気難しく、三十代で才気煥発なワイルダーのことが気に入らなかったようです。チャンドラーからみるとワイルダーの「仕事中なのに女からの電話に出る」「窓を開けてと頼むときに”Please”をつけなかった」「部屋の中にいるのに帽子を被ったままだ」といった言動が気に障ったらしく、謝罪がなければ仕事から降りるとチャンドラーが言い出し、結果的にワイルダーはプロデューサーと一緒に謝罪させられる羽目になったのでした。
キャスティングも難航したようで、ネフ役の候補にあがったジョージ・ラフトやアラン・ラッド、スペンサー・トレイシーなどの男優が全員辞退したため、B級コメディ映画専門だったフレッド・マクマレイが起用されることになりました。またフィリス役第一候補だったバーバラ・スタンウィックはワイルダーに不安を訴えたそうで、ワイルダーから「あなたは女優なのかネズミなのか」と言われて奮い立ったんだとか。この二人に続いて三番目にクレジットされるエドワード・G・ロビンソンは主演でないことを不満に思っていましたが、キャリアのピークを越えたとはいえ主演の二人と同じ報酬を少ない出演時間で得られるのだからと自分を納得させたそうです。
【ご覧になった後で】バーバラ・スタンウィックの悪女ぶりがあっぱれです
いかがでしたか?ジェームズ・M・ケインの原作は読んだことないのですが、双葉十三郎先生によると、映画化された本作はラスト以外は原作をそのまま踏襲しているらしく、逆にエドワード・G・ロビンソン演じるキーズとフレッド・マクマレイのネフの友情を示す終幕は原作者ケインが自作に採用したいと思うほどのアレンジぶりだったそうです。原作はネフがガス室送りになるところまで描かれているようですから、本作のエンディングは暗いトーンの末にほのかに光が差してくるような雰囲気を加えていましたので、ビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラーのコンビは仲が悪かったとしても作品的には極めて優れた良作を残したのではないでしょうか。
犯人が自分の罪を回想するという形式もワイルダーとチャンドラーの脚色が切り拓いた手法のようで、フィリスの見事な悪女ぶりを含めて本作は後のフィルムノワールに大きな影響を与えるエポックメイキングな作品でした。最初に車を飛ばす場面から始まりエレベーターが12階に着いたところが吹き抜けになっていて、階下にオフィス机が並んでいる導入部が一気に観客の目を引き付けます。なぜなら深夜に管理人がいるビルに入って行くとしたらそこはアパートメントのような住居だとしか思えないわけで、デスクが並んでいるショットが出てきたのを見て観客はオフィスビルなのかと自分の見方を疑うことになります。提示される映像や物語を信じていいのかどうか不安にさせるこの導入部が非常に効果的で、本作は登場人物やストーリー展開をちょっと疑いつつこの映画世界に引き込まれることになるのです。
脚本は、ネフとフィリスの出会いと共謀、殺人の実行、キーズの追求と最終的な破局という三幕構成になっていて、それぞれに犯罪サスペンスのムードがうまく醸成されていました。ネフはフィリスのアンクレットに目を引き付けられるという設定で、女性が右足につけたアンクレットは「恋人募集中」の意味になるというのは映画を見終わったあとで知りました。この序盤はまあ普通レベルで進みますが、ディトリクスンが列車に乗ることになったとフィリスが電話してくるあたりから一気呵成にエンジンがかかり始めます。ここではオフィスにキーズがいてなかなか立ち去らないという状況がサスペンスを醸し出していましたし、夜の犯行現場では列車の展望車両にオレゴン男が座っているところや、犯行後になかなか車のエンジンがかからないなども観客を不安にさせる演出が満載されていました。
さらに犯行がうまく行ったかに思われた終盤では、ネフのアパートにキーズが現れドアの背後にフィリスが隠れる場面のサスペンス演出が印象的でしたし、娘の告白によって実はフィリスが当初から保険金を狙った殺人鬼だったことがわかる展開も意外性が感じられました。こうしたサスペンス演出にビリー・ワイルダーの手堅さが伺えたと同時に、フィリス邸に出入りするネフの帽子を被った影が常に壁に映し出されてドイツ表現主義っぽい映像が見られたのも特徴的でした。キャメラマンのジョン・サイツはサイレント期から活躍する大ベテランで、1950年代まで多くのプログラムピクチャーを撮った人。本作でアカデミー賞撮影賞(白黒部門)にノミネートされましたが、受賞は逃しています。
俳優では早口で保険金詐欺事件のあれこれをまくしたてるエドワード・G・ロビンソンに一日の長が感じられ、その一方でバーバラ・スタンウィックの悪女ぶりが見事にハマっていて、それまでスクリューボール・コメディに出演していたイメージを180度裏切るようなファムファタールになり切っていました。それには金髪の鬘が大いに貢献したと思うのですた、ビリー・ワイルダーはスタンウィックの鬘は失敗だったと撮影中に感じていたそうで、でも撮影済み場面を撮り直すこともできずに「役作りのためだ」という言い訳を考えていたんだとか。ワイルダーの思いとは裏腹にあの個性的な髪型が彼女の存在感をグッと高めていたと思います。スタンウィックはアカデミー賞主演女優賞に本作を含めて四度ノミネートされ結局一度も受賞できなかったのですが、1981年にアカデミーはスタンウィックを「ハリウッドの偉大な淑女の一人」であるとして名誉賞を授与することになるのでした。
この二人に比べるとフレッド・マクマレイは「市電から降りる」と翻意するあたりの動揺した感じがうまく表現できておらず、やや凡庸な感じがしてしまいます。しかし本作で大きくイメージチェンジが図れたことで、後の『ケイン号の叛乱』や『アパートの鍵貸します』などの作品に起用されたわけですから、キャリアにおける転機となった役ではあったでしょう。
追記するならばミクロス・ローザの音楽も犯罪サスペンス映画に陰影を加えることに成功していて、不安感を醸し出すと同時に流麗さを伝えるマイナー調の楽曲も犯罪サスペンスに男女関係のムードを加える効果がありましたね。ミクロス・ローザも本作をステップとして『失われた週末』『白い恐怖』とキャリアを積み重ねていくことになりますから、この『深夜の告白』は多くのスタッフやキャストにとってターニングポイントとなる作品であったわけです。ビリー・ワイルダーの作品群の中では今ひとつ注目度が低く、映画評論家たちもあまり取り上げることが少ないのが不思議なほど、犯罪サスペンスとしての完成度は高いものがあると思います。ちなみに双葉十三郎先生は☆☆☆☆、レナード・マルティン氏も****と高得点をつけていました。(A092725)
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