欲望(1966年)

カンヌ映画祭パルムドール受賞のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品です

《大船シネマおススメ映画 おススメ度★★》

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』です。平凡かつ内容を表していない邦題のせいでかなり損をしているのですが、原題は「Blow Up」で、写真の引き伸ばしのことです。主人公の写真家デヴィッド・ヘミングスがたまたま撮影したフィルムを現像して、印画紙に拡大するとそこに映っていたものは…というサスペンス仕立てになっていると同時に、見るとか映すとかいう行為の意味を突き詰めていくような哲学的な作品になっていて、1967年のカンヌ国際映画祭でパルムドール受賞作でもあります。

【ご覧になる前に】1960年代のスウィンギング・ロンドンが描かれています

顔を白く塗ったヒッピーたちが早朝の街に車を走らせている横で、簡易宿所から出てきた労働者の中のひとりの男は少し離れたところに停めてあった黒いロールスロイスのオープンカーに乗り込みます。彼は実は売れっ子写真家で、日雇い労働者たちをモデルにした写真を撮っていたのでした。スタジオに戻った写真家はすぐにトップモデルのグラビア撮影に取り組みますが、ひと仕事を終えると郊外にある骨董品店に向います。店主が戻るまで写真家が近くの公園を散歩していると、初老の男と若い女が抱き合っていて、写真家は何気なくニコンFを向けるのですが…。

ミケランジェロ・アントニオーニは本作製作時には五十四歳。ストーリーラインのはっきりしないモノクロームの映像による『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』は「愛の不毛三部作」と呼ばれていまして、1964年の『赤い砂漠』で初めてカラーで撮影し、この『欲望』はアントニオーニ監督にとっては二度目のカラー作品となりました。多くの作品で主役をつとめたモニカ・ヴィッティはアントニオーニ作品に欠かせない女優でしたが、仕事上のパートナーとしての関係にとどまり、結婚することはありませんでした。

本作は1967年のカンヌ映画祭で見事パルムドールに輝き、アントニオーニ監督はヴェネツィア映画祭、ベルリン映画祭とともに三大国際映画祭すべてで最高賞を獲得することになり、それは当時としてはアンリ・ジョルジュ・クルーゾーに続いて二人目の快挙だったそうです。そんなわけでアントニオーニ監督はフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティと並んでイタリア映画界を代表する映画監督と言われるようになりました。

製作はカルロ・ポンティでこちらもイタリア映画界を代表するプロデューサー。ソフィア・ローレン主演作を多く製作していて、カルロ・ポンティのほうはついにはソフィア・ローレンと結婚しています。そんな出資者の関係で、クレジット上ではアメリカ・イギリス・イタリアの合作ということになっていますが、実質的にはイギリス映画といえるでしょう。ロンドンを舞台にしていることによって当時「スウィンギング・ロンドン」と呼ばれたストリート・カルチャーが作品の中に取り上げられていて、ファッションモデル、サイケデリックアート、ブリティッシュロック、メディテーションなど、1960年代のロンドンの有り様がカラー映像として残されています。

キャメラマンのカルロ・ディ・パルマは、『赤い砂漠』に続いてアントニオーニ監督のカラー作品を担当しました。1982年の『ある女の存在証明』までアントニオーニ作品に付き合い、その後はアメリカに渡って長くウディ・アレン監督作品でキャメラを回すことになります。1986年の『ハンナとその姉妹』以降、ウディ・アレンとは12本の映画でコンビを組んでいますので、よほどウディ・アレンから信頼されていたんでしょうね。

そして本作がある種カルト・ムービーとして見られているのは、伝説のバンドともいえるヤードバーズが出演しているからです。いろいろとメンバーが入れ替わりする中で、本作出演時のヤードバーズはジミー・ペイジとジェフ・ベックの二人が同時にバンドメンバーだったとき。アントニオーニは最初はザ・フーに出演してもらおうとしたのですが、断られたのでヤードバーズが出演することになり、ザ・フーのピート・タウンゼントがライヴコンサートで見せていたギター破壊のパフォーマンスをジェフ・ベックがやることになりました。

【ご覧になった後で】サブカルっぽく見えて実は哲学的示唆に富む傑作です

いかがでしたか?この映画を初めて見たのは本作公開から十年後くらいの高校生のころでした。よくこんな映画が地方都市で再上映されたなあと感心してしまうのはともかくとして、そのときは前半のつまらなさとは打って変わって、公園の写真を現像して引き伸ばす後半のサスペンスに圧倒されました。テニスボールがあるかのようにパントマイムでゲームをするヒッピーたちとそれに合わせてボールを拾ってやる写真家の姿に、真実はともかくとして周りに合わせなければやっていけない世の中なんだよなという意味を感じ取ったのでした。

それ以来の再見となって、今さらながらに一見いわゆるサブカルチャーを代表するような映画っぽいところを持ちながら、実は哲学的にいろいろなことを示唆してくれる作品なのだったと驚いてしまったのです。というのも本作は認識論の映画と定義すべきなんではないかと思うわけでして、見るということとあるということがイコールなのかそうでないのか、はたまた見たものが真実なのか、見たと思ったことが真実なのか、あるいは証明できなければ真実でないのか、などという様々なテーゼが本作の中には圧縮して詰め込まれているからです。

サスペンス映画として本作を見るならば、ヴァネッサ・レッドグレイヴ演じる女はどこかの国のスパイで、重要人物である初老の男にハニートラップをかけて公園に誘い出し、男を暗殺するというその実行場面をたまたま写真家に撮られてしまった、というストーリーになるでしょう。だとすると写真家がカフェでロンと会っていたときに窓越しにのぞき込み写真家のロールスロイスを物色した男は、公園で撮った写真を取り返そうとしたスパイ仲間だったことになります。

しかしそんな普通のエンターテインメントには決してならなくて、本作はラビリンスに迷い込むような展開を見せていきます。ヴァネッサ・レッドグレイヴは偽のフィルムを受け取ると中身を確認することなく写真家と房事に耽った末に嘘の連絡先を残して消えてしまいます。夜の街でショーウィンドウを眺める女の姿を写真家が目撃しますが、それはあの女だったかどうか明らかにされません。公園に戻って一度は初老の男の死体を発見するのですが、それも夜明けには消えています。写真家が自ら焼いた印画紙はすべて何者かによって盗み出されてしまい、たった一枚残されたのは引き伸ばした写真で、その写真も全体の中の一部として見るのでなければ何が写っているかわからないようなものになっています。

というようなわけで、本作は写真家が見たものが真実だったのか、いや写真家は真実を見たのではなく、写真を見たのか。そもそも写真とは、カメラを通してフィルムに投射され現像されて印画紙に浮かび上がった表象のことで、よってそれはすでに真実そのものとは違っているのではないか。写真家は公園に倒れた初老の男を見たが、それはもしかしたら写真家の妄想だったのはないか。だとすると観客が見ているこの映画は真実を描いているのか、妄想を描いているのか。真実とそうでないものの境目はどこにあるのか…。などと映画を見るということ自体を観客が再認識せざるを得ないような迷宮に迷い込まされてしまうのです。

その象徴がエンディングのパントマイムテニスの場面で、写真家はないはずのテニスボールをヒッピーたちに投げ返してやります。公園を立ち去る写真家にはラケットがボールを弾く音が聞こえてきます。果たしてボールはあったのかなかったのか。死体はあったのかなかったのか。真実はあるのかないのか。まさに「あるはない。ないはある」という哲学的思索世界に入ったまま、映画は終わってしまうのでした。

ちなみに本作のカラーの発色は実に美しく、ロンドンのちょっとくすんだ街並みのグレーと公園の芝のグリーンとの対照が素晴らしい効果を生んでいました。ミケランジェロ・アントニオーニはロケーション撮影したマリヨン公園の芝の色に不満を持っていて、画面に映るすべての芝生を自分好みのグリーンになるようスプレーで色付けしたそうです。

芝の色はともかく、「見る」ことでしか成り立たない映画というメディアにおいて、「見る」ということに疑問を投げかけすべての観客を不安にさせる映画を作ってしまったわけで、その不条理ゆえにアントニオーニの天才性を伝える傑作であるといえるのではないでしょうか。ミケランジェロ・アントニオーニは「言葉で説明できる映画は本物の映画ではありません」という格言を残しています。まさにその通りの本物の映画として永く映画史にとどめておくべき一本でした。(A122422)

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