志賀直哉の小説を池部良主演で豊田四郎が映画化した文芸作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、豊田四郎監督の『暗夜行路』です。小説「暗夜行路」は前後編で構成された志賀直哉畢生の大作で、約四半世紀にわたって書き上げられたものです。監督の豊田四郎は小説を映画化した文芸作品を多く発表していて、石坂洋次郎『若い人』、森鴎外『雁』、織田作之助『夫婦善哉』、谷崎潤一郎『猫と庄三と二人のをんな』、川端康成『雪国』など日本文学を代表する作家の作品をひと通り網羅するほどです。その豊田四郎監督の文芸路線の頂点ともいえるのがこの『暗夜行路』。志賀直哉は映画化を渋ったそうですが、池部良が主演するならと許可したのだとか。東宝の子会社である東京映画の製作作品です。
【ご覧になる前に】原作を忠実に映画化していてまるで小説を読んでいるよう
時任家の次男謙作は幼い頃に母親が死ぬと祖父の家に引き取られて育てられました。謙作が父親に幼馴染の愛子との結婚の仲介を頼むと、父親は自分で直接申し込めと告げます。仕方なく謙作は懇意にしていた愛子の母親に直接結婚の申し込みをしますが、その反応は期待とは全く逆で、兄の信行を通じて断りの手紙を送ってきたのでした…。
志賀直哉の「暗夜行路」は夏目漱石の「こころ」と双璧をなす日本の近代文学の代表作です。実際に夏目漱石は朝日新聞で連載されていた「こころ」が終了したら、志賀直哉にそのあとを継いでほしいと依頼していたのでした。志賀直哉は父子の不和を題材にして「時任謙作」を書き始めますが続かず、夏目漱石に詫びを入れて朝日新聞への連載を諦めたといいます。そんな話のあった十年後、雑誌「改造」から依頼を受けた志賀直哉は「時任謙作」を発展させて「暗夜行路」の題名で連載を開始し、その次の年には「前編」が完成しました。しかし後編に入ると筆が進まなくなり、連載が休止され小説は未完のままとなってしまいます。それからさらに十年近く経ったときに志賀直哉全集の刊行が企画され、「暗夜行路」を全集に収録したいという思いから志賀直哉は執筆を再開、昭和12年にやっとのことで「後編」が出来上がり、「暗夜行路」は完成したのでした。
この小説に心底感銘を受けたのが小津安二郎。従軍中に「暗夜行路」を読んだ小津ですが、文学と映画は違うと言って「暗夜行路」を映画化することはありませんでした。小津が選んだのは、「暗夜行路」に似たモチーフを別の作品として映像にすること。戦後、映画界に復帰した小津は、田中絹代と佐野周二の主演で『風の中の牝鶏』を作ります。小津が斎藤良輔とのコンビで脚本を書いた『風の中の牝鶏』は失敗作とされ、このあと脚本は野田高梧との共作のみになっていったのです。その小津安二郎は「暗夜行路」が映画化されると聞いたとき、天に唾を吐く行為だと批判的な態度だったとか。しかし、そんな態度とは裏腹に本当は生涯かけて撮りたかったのが「暗夜行路」だったのかもしれない、と脚本家で作家の高橋治は小説「絢爛たる影絵」の中で振り返っています。
主役の謙介を演じる池部良は『雪国』でも豊田四郎監督と組んでいます。相手役の直子には山本富士子。山本は大映所属ですが、もとから会社に縛られずに女優活動をしたいという意向をもっていて、大映と契約更改する際に年間二本の他社出演を認めるという条件をつけていました。よってその契約範囲の中で東京映画の本作に出演できたわけです。脇役陣も豪華で、淡島千景、中村伸郎、千秋実、仲代達矢、北村和夫、仲谷昇、小池朝雄、賀原夏子、そしてご存じ杉村春子。それぞれ違った個性があるので、その演技を見比べることができるのも本作の特長です。
【ご覧になった後で】「文学と映画は違う」~ 小説を映画にするのは難しい
いかがでしたか?小津安二郎の言葉通り「文学と映画は違う」ということをまざまざと感じさせられましたね。冒頭から主人公謙作の独白で始まりますが、本作では登場人物の心理がすべて独白で表現されています。しかし映画なのですから、本来は映像と音、すなわち演出・演技・セリフを武器として原作を映像化しなければならないはず。脚本を書いたのは日本映画シナリオ界の大御所・八住利雄ですが、志賀直哉の原作でしかも日本文学の最高峰ともいわれる小説を前にすると、やっぱり小説に書かれた原文通りにしなくてはならないと萎縮してしまうのでしょうか。文字を読むのとは違って耳で聞く独白はなかなか観客の気持ちにまでは届いてくれません。またセリフとは話し言葉なわけなので、難しい熟語が頻発すると、観客はその意味を反芻しなければ理解できません。原作に敬意を払い過ぎて忠実に映画化した結果、本作は小説でもなく映画でもない中途半端な作品になってしまったと思います。
原作の「前編」は結構退屈な展開なので、映画化にあたっては「前編」はほぼ30分にまとめられていて、そこは映画の構成上でも功を奏しています。すなわち岸田今日子演ずる廓の女を抱いた謙作が「豊年だ」とつぶやくところまでですね。原作ではこの廓の女とのアレコレがかなり長くしつこく描かれています。ちなみに岸田今日子は山本薩夫監督の『戦争と人間』での入浴シーンで豊満な肢体を披露していて、「豊年だ」のセリフにはぴったりの配役でした。
原作が俄然面白くなる「後編」を本作では中心に描くのですが、原作でも映画でも見えてこないのが謙作の職業です。小説家であることはセリフから伺えるのですが、実際の取材や執筆活動や出版に関するエピソードなどが全くありません。これはもともと小説の欠点でもありますけれど、たぶん志賀直哉としては自らが小説家であることを知らない日本人はいないのだから謙作が小説家であることを詳細に書く必要はないと考えていたのではないでしょうか。つまるところ「暗夜行路」は日本の伝統的な私小説の範囲を超えるものではなく、人間の精神をどこまでも客観的に怜悧にえぐっていく夏目漱石の「こころ」のような姿勢に欠けた作品だったのかもしれません。
しかしながら豊田四郎の演出は、シネマスコープの画面をうまく使っていて、家屋の中を「次の間」から映すことを徹底した客観的視点を重視しています。日本間は襖を取り払えばひとつの広い空間になりますので、次の間にいる登場人物たちを常に一間離れたところからフルショットで撮るんですよね。また謙作が直子に物を投げつけて言い争うところでは、逆に取り払うことのできない壁を画面の中心に置き、謙作と直子のどちらかがその壁に隠れるという撮り方もしています。本来であれば独白ではなく、このような映像表現で原作を映画に置換してもらえればよかったのに、と思ってしまいますね。
こうした日本間の場面は美術さんの仕事の確かさの賜物でもあるのですが、かたやクライマックスでの伯耆富士とも呼ばれる大山のセットはいただけません。山々を遠景で撮った実写の次に、いかにもスタジオの中に草木を植えて作った森のセットにいる池部良が遠くを見つめるショットにつなげるのは、本当に興覚めしてしまいましたね。ここは小説「暗夜行路」の中で最も有名で最も崇高な場面で、謙作が浄化されるというか天啓を受けるというか悟りを開くという大変に重要で、しかも美しい筆致で描かれたヤマ場です。なのになぜ映画では、このような安っぽいセットで撮ってしまったのでしょうか。絶対に現地にロケして本当の自然の中で本当の夜明けに撮影をすべきでした。
もうひとつだけ加えますと、原作と比べて一番違和感があるのはお栄で、淡島千景では若過ぎるということでした。小説のお栄はなにしろ祖父のお妾なのですから謙作よりはかなり年上で、魅力的ではあるけどそれなりに年季の入った女性として登場します。しかし淡島千景では池部良と夫婦でも全然オッケーに見えてしまいますし、実際に本作の三年前に公開された小津安二郎監督の『早春』ではこの二人は夫婦として共演しているのです。『暗夜行路』が作られたときの年齢は、池部良四十一歳、淡島千景三十五歳。いくら映画での配役とはいっても、謙作が子どものときから面倒を見てきたお栄が、淡島千景のように若くて美しくては、そっちのほうで関係ができてしまうのが自然に見えてしまいます。残念ながらこれは完全なるミスキャストだったと言わざるを得ませんね。(T112421)
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