秋日和(昭和35年)

小津安二郎が里見弴の原作を映画化、『晩春』のバリエーション的作品です

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こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、小津安二郎監督の『秋日和』です。小津は昭和24年に父が娘を嫁がせるという『晩春』を発表していますが、『秋日和』は父を母に変えて、同じように娘を嫁にやるというある種『晩春』のバリエーション的な作品になっています。『晩春』で娘役を演じた原節子が本作では母親役に転じていまして、『晩春』で初めて小津作品に登場してから11年の歳月が経過したことを象徴しているようです。昭和35年度のキネマ旬報ベストテンでは第五位にランクインされました。

【ご覧になる前に】旧友三人組が亡くなった友人の娘に結婚を薦める展開

東京タワーを見上げるお寺で三輪家の法要が始まろうとしています。七回忌に集まったのは三輪の家族と旧友たち。三輪が残した妻の秋子は以前と変わらずに美しく、かつて秋子に思いを寄せていた旧友たちは、結婚適齢期を迎えている娘のアヤ子と比較して秋子の佇まいに見惚れるのでしたが、お調子者の田口はアヤ子の結婚相手に適当な男性がいるから紹介しようと安請け合いをします。二十四歳になるアヤ子の年を考えて、秋子は「お願いします」と田口の申し出を承知するのでしたが…。

本作は小津安二郎のカラー作品二作目。『彼岸花』と同じく、赤の発色がよいアグファカラーを使用していて、クレジットタイトルにも「アグファ松竹カラー」と出てきます。小津が赤を好んだのはよく知られている話ですが、本作も完成したばかりの東京タワーを映した冒頭のショットから始まって、いろいろなところに赤が登場します。フジカラーは緑に強く、コダックは黄色などの暖色に特徴がありましたが、赤が良いとされるアグファカラーはドイツ産。アメリカ映画で全面的に採用されていたテクニカラーは、フィルムを三倍使用するし撮影機材も大型化しなければならず、日本映画の製作現場ではなかなか普及しませんでした。でも小津安二郎ならテクニカラーの赤が気に入れば、無理にでもテクニカラーの機材を揃えさせたでしょうから、好みがアグファカラーで松竹もホッとしたことでしょう。

原作は里見弴で、昭和34年文化勲章を受章した里見弴は翌年文芸春秋に「秋日和」を発表しました。里見は川端康成とともに鎌倉文庫を創設して貸本や出版を行うなど古くからの鎌倉文士のひとりで、北鎌倉に住む小津とも親交を結んだといいます。小津は従軍中に志賀直哉の『暗夜行路』を読み感銘を受けたのですが、小津を志賀直哉に引き合わせたのも里見弴でした。昭和31年の『早春』以降、松竹での小津作品でプロデューサーをつとめた山内静夫は里見の四男。小津安二郎にとって里見弴は、共同脚本の相方である野田高梧とともに映画製作面でも私生活でも欠かせない重要な友人だったのでした。

出演者は小津作品にお馴染みの常連ばかり。原節子は『東京物語』以来七年ぶりの登場ですが、旧友三人組をやる佐分利信、中村伸郎、北竜二は『彼岸花』とほぼ同じ設定で再登場します。アヤ子の結婚相手は小津の私生活面を息子代わりとなって支えた佐田啓二。もちろん笠智衆も出ていますし、十朱久雄もちょこっと顔を出しますし、料亭や寿司屋では相変わらず高橋とよ、桜むつ子が働いています。

そんな中で本作で小津作品に初登場したのがアヤ子役の司葉子。司葉子は大阪の放送局に勤務していたときにスカウトされて東宝専属になった女優で、昭和29年のデビュー作『君死に給うことなかれ』は有馬稲子が病気降板したあとの代役だったそうです。以来東宝を代表する女優となり、昭和32年の『青い山脈』再映画化の際には原節子がやった島崎先生を演じています。本作は東宝からの客演ですが、翌年小津が原節子と司葉子を借りたお返しに東宝で『小早川家の秋』を撮ったときには、司葉子は原節子と義理の姉妹という役どころで再び共演することになるのでした。

そしてもう一人の初登場が岡田茉莉子。岡田茉莉子の父親岡田時彦は戦前の小津作品に多く出演した俳優だった人ですが、岡田茉莉子が生まれてすぐに早逝してしまいました。岡田茉莉子が東宝ニューフェイスの第三期生として入社したときは岡田時彦の娘だということは全く知られていなかったそうですから、コネではなく実力で女優になったんですね。東宝では成瀬巳喜男監督の『浮雲』の助演で強烈な印象を残していますが、昭和32年にフリーとなって松竹と専属契約を結びます。なので小津安二郎としては、岡田時彦の娘が松竹専属になったことを知らないわけがありませんから、松竹契約で三年目の岡田茉莉子を満を持して出演させたというところでしょうか。

【ご覧になった後で】ゲラゲラ笑ってしまうほど喜劇色が強い傑作でした

いかがでしたか?小津作品の中では最も喜劇性が高く、見ていてゲラゲラ笑ってしまいましたね。特に可笑しいのは岡田茉莉子と旧友三人組のやりとり。さすがに小津は岡田茉莉子のコメディエンヌとしての天性の素質を見抜いていたんでしょう、岡田のずけずけとした歯切れ良さが炸裂できるようなキャラクターをやっと本作で設定することができて、そこにズバリとハメたのだと思います。佐分利信の会社に乗り込んで三人組をやり込めるときの一歩も後に引かないような力強さ。ここは立ったまま詰問し、やっと座って会話が始まるという、人物配置の妙が映像的にも堪能できるシーンです。そして実家の寿司屋のカウンター。本作では北竜二がヤモメ男のとぼけた味わいを出していて秀逸なのですが、その北竜二とのやりとりは劇場で見たらば館内大爆笑だったことでしょう。「本当に?」「本当だとも」が「秋子さんを愛せる」から「代金を払える」に変化する脚本は本当にうまいですねえ。そのまま落語になっちゃうんじゃないでしょうか。小津安二郎と野田高梧もたぶんニヤニヤしながらこの場面を書いたのではないかと思ってしまいます。

なので本作では岡田茉莉子が圧倒的な存在感で大勝利って感じになっています。司葉子は目鼻立ちがすっきりとして特に白目の鮮やかさは他の女優にない特徴だと思いますが、本作ではまだ小津作品の普通の日常を演じ切るには今ひとつという印象でした。『晩春』では笠智衆の父親は原節子の娘に自分が再婚するのだというフリをする際に三宅邦子をアテ馬に使って伝える設定になっていましたが、本作では佐分利信の間宮から言われたことを真に受けた司葉子の娘が母親のことを誤解するという筋立てになっています。母親の言うことより父の友人の言葉を信じてしまうという脚本が弱いという説もあると思いますが、たぶんそんなことは小津も野田高梧も百も承知だったでしょう。アヤ子が怒るのは母親が再婚するかもしれないという点ではなく、亡くなった父親のことを忘れてしまうことへの憤りそのものなのではないでしょうか。『晩春』は娘の父親に対する一種の近親相姦的な愛情をベースにしていますが、本作ではそうはいきません。なので母親を別の男性にとられることではなく、別の怒りの感情が必要で、それが「私だってまだお父さんのことを忘れていないのに」という共通の愛情の対象たる亡父を共有化できなくなることの怒りだったように思います。司葉子の演技はそこまでの深みがなく、なんだか表面的に母親の再婚話を反対しているように見えてしまうので、それが本作における唯一の欠点かもしれません。

それを補って余りあるのが、旧友三人組でしたね。佐分利信は『彼岸花』の父親役よりも軽くていい加減な感じが絶妙ですし、中村伸郎はひとつも笑わないのに飄々としたおかしみを出せるんですよね。北竜二は息子役の三上真一郎(松竹の最後の三羽烏のひとり)に相談する場面などで、品の良さがあっていやらしさが出ないのが持ち味でした。もちろんそれもこれもすべて脚本の出来がいいからで、本郷三丁目の薬屋でアンチブリンを買ったとかオレはアンチヘブリン丸だとかハカリ印でしょとかの会話は作り物とは思えない軽快さですよねえ。あとは北竜二の話を原節子に伝えにいった中村伸郎が、原節子にリンゴを切ってもらってパイプまでもらって帰ってきたというのも結構笑えます。

本作は小津作品の特徴のひとつであるシークエンスとシークエンスの間のスティルショットは少なめですが、場面ごとに繰り返しリピートされる映像のモチーフが映画全体に一定の心地よいリズムを与えていました。例えば佐分利信が勤める三和商事の廊下。エレベーターを奥にして左右対称に事務室が並ぶあのショット。あるいは秋子とアヤ子のアパートの回廊。天井から丸く白い電燈が下がっていて片側に手摺がある構図。そしてうなぎ屋がある路地。「う」の看板の向こうに社用車が停まっていると佐分利信がすでに来ていることがわかるショットなどです。これら繰り返し映し出されるモチーフはすべて場所が変わりましたよというシグナルになっていて、場面展開をはっきりさせるための句読点というか、章立てを変えるときのアスタリスクというか、そんな効果がありました。木琴を主体とした音楽と相まって映画のテンポが観客に明確に伝わってくるようですね。

また本作は本当にショットが短くて多いです。さきほどの寿司屋のカウンターの場面なんかはセリフひとつにつきワンショットが細かく刻まれています。それがリズム感につながっていて、タンタンタンと喜劇が進むように構成されているわけです。小津は編集に対して「あと2コマ足りない」とかかなり詳細に指示を出して修正をさせたという逸話があるくらい、ショットの長さについては厳密な基準を持っていたといいます。本作のショットの短さも、短いというよりはこれ以上もこれ以下もない最適な長さに切られていて、このようなショットの積み重ねができる監督こそが名作を作りえるのだなあと感嘆してしまいます。

そして本作の中でしんみりと印象的なのは、結婚式が終わった夜の秋子のアパート。時計のチクタクという音が異様に強調されて、アパートの部屋の静けさを音で表現しています。そこへ現れるのが岡田茉莉子。「これからもちょくちょくお伺いします」というアヤ子の友人はなんと優しい心の持ち主でしょうか。原節子がにこやかに「ぜひいらして」と対応するのですが、部屋の電気が消されて薄暗い中、原節子の表情には深い影が刻まれています。たぶん岡田茉莉子がたまに訪問してくれるくらいではすまされない絶対的な孤独がこの母親には待ち受けているのです。ゲラゲラ笑える喜劇ではありますが、小津の映画からは相変わらず人生のはかない無常感が漂ってきます。名人芸としか言いようがない傑作ですね。(A040222)

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