メキシコに移ったルイス・ブニュエルがカンヌ映画祭監督賞を受賞した作品
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ルイス・ブニュエル監督の『忘れられた人々』です。ルイス・ブニュエルはスペイン出身。パリでサルバドール・ダリと共同で作った『アンダルシアの犬』がヒットし、一気にシュールリアリズム映画の新鋭監督として耳目を集めました。フランコ政権に睨まれたブニュエルはスペインを追われ、ハリウッドを経由してメキシコに移住。本作はルイス・ブニュエルのメキシコ時代の作品で、カンヌ国際映画祭の監督賞を獲得しました。ルイス・ブニュエルは五十歳にして、国際的舞台に復帰したのでした。
【ご覧になる前に】貧しい不良少年たちを描いた「社会主義リアリズム映画」
メキシコシティのスラム街で感化院から脱走してきた少年ハイボは、仲間たちと落ち合うと早速盲目の老人を襲って金を奪い去ります。仲間のひとりペドロは掃除婦として働く母親に素直に甘えることができず家庭でも孤立していますが、ハイボから感化院送りの原因となった相手のフリアンを呼び出すようにいわれて、フリアンの仕事場へハイボを案内するのでしたが…。
眼球を剃刀でカットする『アンダルシアの犬』の印象が強烈なルイス・ブニュエルですが、製作時期や製作国あるいは出演者によってその監督作品は多種多様で、ひとつのジャンルにまとまることのない幅広いスタイルをもつ監督でもありました。例えば高級娼婦として働く上流階級の主婦を描く『昼顔』のドライなデカダンス、あるいはエピソードに何のつながりもない『自由の幻想』のオチのない笑いなど、どうにもブニュエル作品には一貫性がありません。メキシコで製作された本作は、イタリアのネオリアリスモと同様に貧困社会の実態を取り上げていて、それを「社会主義リアリズム映画」と名付ける映画史家たちがいますが、ブニュエル自身はそれをどのように受け止めていたのでしょうか。
ルイス・ブニュエルは少年期に厳格なイエズス会の学校に強制的に通わされた経験が大きなトラウマになったそうで、その反発心から「自分が無神論者であることを神に感謝する」という言葉で自らを語るような無神論者でした。そのような背景からブニュエル作品は信仰に関しての描写に注目が集まったり、キリスト教の解釈をメタファーとして表現していたりして、作品への評価がより複雑化する傾向があるようです。作品によってスタイルを自在に変えるブニュエルにとって、それが自らのアイデンティティの発露であったのか、映画づくりのひとつの手法に過ぎなかったのかは、今となっては定かではありません。
【ご覧になった後で】あまりに救いのない登場人物と展開に戸惑いますね
いかがでしたか?いくら貧しいからといって、盲目の老人を殴りつけて商売道具を破壊して有り金を奪ったり、両足を失った男の移動手段である車椅子を男の手の届かないところに放置したりという悪行は、映画の中のお話としてもとても見ていられないくらいに不快なものでした。不良少年たちのこうした行為をすべて貧しさのせいにして良いものかと忌々しい気持ちにさせられる一方で、息子ペドロに手を焼く母親はハイボの若い肉体のまえでは自らの欲望に負けてしまいますし、盲目の老人は同時に暴君でもあり好色爺であることが描かれると、本作の登場人物たちにおいては善悪の境目が実に曖昧なものであることがわかってきます。ペドロという名前や、執拗に鶏が出てくるところや、密告が二度モチーフになる展開などから、本作にはキリスト教を様々に解釈したメタファーが含まれているという「深読み」的な鑑賞の仕方もあるようですが、どうもそれはルイス・ブニュエルが仕込んだ巧妙な隠れ蓑のように思えてなりません。本作を見終わった後の感覚は、貧困を生む社会への怒りのようなものとは違っていて、貧困社会にメスを入れる「社会主義リアリズム」というのも、どうもちょっとズレているような気もします。映画の見方は人それぞれの受け取り方があってよいと思いますが、本作は善悪の単純な二元論や貧困を生む社会の構造的問題などを軽く超えてしまっていて、清濁あわせ飲むしかない矛盾した多面性をそのまんま提示しているといえるのではないでしょうか。上から俯瞰するのでもなく下から訴えかけるのでもない、まさにフラットに人々の外見と内面を透視してみせる、そんな冷徹な視線をもつ映画なのかもしれません。
本作がメキシコで公開されたときには、スペインからやってきた外国人監督がメキシコの恥部ともいえる実態を暴くような映画を作ったとして、メキシコの観客の憤慨をさそったそうです。しかし本作がカンヌ国際映画祭で監督賞をとると、一気に評価が逆転。メキシコ映画史に残る名作としてそののちまで高評価を得ることになりました。しかしながら、公開当時はそのような悪評を気にしてか、メキシコの検閲当局を意識したのか、悲惨なラストを差し替えた別バージョンも用意されていたのだとか。そのバージョンでは、ペドロと揉みあっているうちにハイボは転倒した拍子に頭を打って事故死してしまい、ペドロは更生施設の所長のもとに戻るというややハッピーなエンディングになっていたそうです。
そのような本作の存在意義そのものについての評価は別にしても、本作が最もその映画的価値を高めるのは、誰もが印象づけられるペドロの夢の場面ではないでしょうか。ペドロの家の寝室全体を映したショットを基調にしながら、ベッドの下の死体や起き上がる母親のバストショットが挿入され、それらがスローモーションで時間の概念から外れたようにイメージ化されたシーンは、実に幻影的で悪夢的で、熱にうなされた幻覚のような映像になっています。特に母親が肉の塊を手にしてペドロに迫ってくるショットは、矛盾した多面性そのものを表現しているように感じられると同時に、いかなる解釈も受け付けない拒絶的な非表現性ともいえる不思議な映像でした。ラストで警官に撃たれたハイボにオーバーラップする夜の犬のイメージショットとともに、本作の心棒はここにこそあるという極めつけの映像表現であったと思います。(A121821)
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