第三次世界大戦 四十一時間の恐怖(昭和35年)

突発的な事故から第三次世界大戦勃発を描く第二東映製作の特撮ドラマです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、日高繁明監督の『第三次世界大戦 四十一時間の恐怖』です。週刊新潮に掲載された記事を原案とした本作を製作したのは第二東映。山脈の尾根を映したタイトルロゴとともに「第二東映」製作作品が映画館にかけられるようになって半年後に公開されました。モノクロ77分のプログラムピクチャーながら、東映の特撮技術が投入された社会派ドラマになっています。

【ご覧になる前に】松竹から東映に移籍した矢島信男が特撮を担当しました

原爆被害のフィルムを映写していた高校の教室で教師が平和の大切さを訴えています。戦争に恐怖を感じる茂夫ら三人の高校生は、美栄の父が所有する小型ボートを借りて東京湾に繰り出します。銀行に勤務する茂夫の父親と姉が茂夫の誕生日を祝うためケーキを用意していると、美栄が台風に巻き込まれて遭難したかもしれないと駆けこんできます。運良く助かった茂夫を取材する新聞記者の正木は恋人の看護婦知子との結婚をあせっていますが、知子は仕事を続けたいと告げるのでした…。

東映が作品の生産能力を上げるために設立された第二東映は、東映本体を補完する位置づけで昭和35年3月からプログラムピクチャーの製作をスタートさせました。経営危機にあった新東宝と第二東映を合併させる「新東映」騒動が頓挫したのちに「ニュー東映」と改称されるまで、第二東映の稼働期間は実質的には一年弱という短いものでした。

新聞とともに週刊誌が大きな影響力をもっていた当時、週刊新潮が昭和35年6月13日号に掲載した「第三次世界大戦の41時間」が大きな反響を呼び、映画会社が注目するところとなります。第二東映が「原案:週刊新潮編集部」として映画化の企画を進めるのとほぼ同じ時期に、東宝では週刊読売に掲載された記事に着想を得て「第三次世界大戦」の製作が始まっていましたが、第二東映の企画とバッティングしているということで東宝側が製作を中止。東宝の企画は後に松林宗恵監督の『世界大戦争』として実現されることになります。

原案を脚本化した甲斐久尊は日活や東映で活躍したシナリオライターですが、作品のほとんどはプログラムピクチャーだったようです。監督の日高繫明は松竹出身で戦後に東宝に入って鶴田浩二版の『眠狂四郎無頼控』などで監督をつとめた人。東映に移ってからは本作のほかに喜劇ものが数本ある程度で、監督としての活動歴は8年ほどしかありませんでした。

そして特殊撮影としてクレジットされているのが矢島信男。矢島は松竹で川上景司のもとで特撮の腕を磨き、松竹の特殊技術課が縮小された際に東映に誘われて移籍した特撮のエキスパート。昭和40年には株式会社特撮研究所を創設して、東映だけでなく他社作品の特撮も請け負うようになっていきます。矢島が関わった仕事には「キャプテンウルトラ」や「スペクトルマン」「ミラーマン」など昭和40年代に子供時代を過ごした少年たちにおなじみのTV番組があり、その総仕上げが深作欣二監督の『宇宙からのメッセージ』でした。

クレジットタイトルに出てくるスタッフの中で注目なのは関光夫。本作ではニュースを伝えるラジオのアナウンサーの声を担当しているのですが、関光夫といえば昭和40年代にNHK-FMラジオの番組でいろいろな映画音楽をサウンドトラックで聴かせてくれた映画ファンの恩人ともいえる人でした。番組名は忘れてしまいましたが、テーマソングになっていたビリー・ヴォーン楽団の「Look for a star」は今聴いても涙が出るくらいの懐かしさです。

【ご覧になった後で】ニュースだけで戦争を想像させる語り口が巧妙でした

いかがでしたか?昭和35年に第三次世界大戦が始まる様子を一般の人々の視点から描いた映画があったのは驚きでしたし、第二東映のプログラムピクチャーとして製作されていたのもびっくりです。スタンリー・クレイマー監督の『渚にて』が日本で1960年2月に公開されたという記録が残っていますので、もしかしたら週刊新潮や週刊読売が第三次世界大戦が起きるかもしれないという特集記事を掲載したのは『渚にて』がきっかけになっていたのかもしれません。

実際にアメリカとソ連の間で核戦争一歩手前まで行ったキューバ危機が起きたのは1962年10月から11月にかけてのことでしたし、キューバ危機後には『博士の異常な愛情』や『未知への飛行』などの核戦争を扱った映画が続々登場するようになります。そんな流れを踏まえると朝鮮半島上空で核爆弾を搭載したアメリカの飛行機が撃墜されたことがアメリカとソ連の核ミサイルの撃ち合いにまで発展していくという物語が昭和35年(1960年)に日本で作られていたのは非常な先見性があったと言えますし、世界で唯一の被爆国という立場からすると当然のことでもあったんでしょうか。

原爆や東京大空襲での被害の様子が画面に映し出される導入部は非常にショッキングで、焼死体を映画に登場させるというのは昭和35年当時はタブーだったのではないでしょうか。特に原爆被害の実態はGHQによって言論統制されていたため、日本国内で知らされることはなく、GHQの占領が終結した後の昭和27年8月にアサヒグラフで初公開されてあらためて原爆被害の悲惨さが世間に知れ渡ることになったわけですから、本作で核戦争を扱ったのは勇気ある挑戦だったことは間違いありません。

第三次世界大戦の始まりを描いた本作においてミサイルや核爆発の場面はほとんど終盤になってからしか登場しません。本編の大半は高校生や銀行員、新聞記者、看護婦、ギターの流しなど一般の人々の視点で描写されていきます。偶発的な事故からアメリカとソ連の両大国が軍事行動を始める経緯はすべてラジオのニュース番組から聞こえるアナウンサーの声で表現されていて、リアルで映し出されるのはラジオ放送で戦争開始を予告するソ連国防省関係者の姿のみです。ニュースによって一般大衆がパニックになり東京から脱出するプロセスを映像化することで、まさに世界大戦が始まろうとしている現実の空気感をうまく伝えていて、下手な特撮場面を並べるよりよっぽど緊迫感が醸成されたのではないかと思われます。

そんな中でも新聞記者の梅宮辰夫は看護婦の三田佳子に結婚を迫り、流しの増田順司は病気の妻・星美智子と無人の教会で祈ります。茂夫の父・加藤嘉は会社専務の石島房太郎が運転する車に轢かれてしまい、逃走する車では妻の風見章子と長男の亀石征一郎が途方に暮れます。もぬけの殻となった東京にいよいよ核ミサイルが発射され、国会議事堂が木っ端みじんになり、同時にクレムリン宮殿やサンフランシスコの金門橋も粉々に破壊されてしまうのです。

そんなわけで特撮は終盤にしか出てきませんで、破壊される建物やミサイルの発射などの特撮ショットはほんの一瞬しか映されません。そうした核爆撃ショットよりも矢島信男の特撮技術が冴えたのは、梅宮辰夫が廃墟となった東京をさまよい歩く場面。まさに原爆投下後の広島の写真を彷彿とさせるような爆撃後の無残さがリアルに映像化されていました。あれほど大規模な廃墟を作るのにはかなり大がかりな美術セットが必要になるはずですので、巧みの合成技術が施されていたのかもしれません。でも作り物っぽさを感じさせない完璧な廃墟になっていたところが矢島信男の腕の見せ所だったのかもしれません。

ちなみに仲良し高校生の中の女子高生を演じていたのは二階堂有希子で、誰もが知っている峰不二子の声をアテた女優さんです。東京女学館高校を出た才媛で、劇団俳優座に9期生として入り岩崎加根子の後継として嘱望されていたそうです。映画出演はあまり多くはなかったようで、声優としては峰不二子だけではなく多くの洋画放映でさまざまな女優のアフレコを担当しました。本作出演は二十一歳のときですから、二階堂有希子さんの姿が見られる貴重なアーカイブとしても記憶しておきたい作品です。(U122925)

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