中村錦之助主演「宮本武蔵シリーズ」第二弾は京都・奈良が舞台となります
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、内田吐夢監督の『宮本武蔵 般若坂の決斗』です。昭和36年5月に公開された東映版『宮本武蔵』から1年半が経過した昭和37年11月にシリーズ第二弾として劇場公開されました。姫路城を出た武蔵が京都から奈良へと剣術を磨く旅が描かれ、昭和37年度配給収入年間ランキングで第5位に入るヒットを飛ばしています。主要なスタッフ・キャストはほぼ前作を引き継いでいて、五部作を前提として作られたことが観客動員につながったと思われます。
【ご覧になる前に】脚本は成澤昌茂が外れて鈴木尚之と内田吐夢の共作です
姫路城天守閣の暗黒蔵で書物を通じて自分を見つめ直す三年間を送った武蔵(タケゾウ)は城主池田輝政から宮本武蔵(ムサシ)と名前を授かり剣術を磨く旅に出ます。花田橋でお通と再会した武蔵はひとり京に上り、お通は後を追うことに。京では吉岡道場を主宰する清十郎が祇園の座敷にお甲の娘朱美に呼びつけ、間夫の又八はお甲に頭が上がりません。武蔵が吉岡道場で門人たちを倒したという噂を聞きつけた又八の母お杉は清水坂で武蔵に果し合いを挑むのでしたが…。
吉川英治の小説「宮本武蔵」は現在でも各種文庫で読むことができまして、東映版第二部にあたる本作では、文庫本の1巻の終わりから2巻にかけてが描かれています。小説を脚色したのは第一作では晩年の溝口健二と組んだ成澤昌茂と『五番町夕霧楼』や『飢餓海峡』を書くことになる鈴木尚之のコンビでしたが、第二作では成澤昌茂が外れて、鈴木尚之と監督の内田吐夢による共作となっています。本作以降第五作までは鈴木尚之・内田吐夢コンビが継続することになるので、成澤昌茂としては5年間も同じ小説の脚色につきあっていられないといったところだったのでしょうか。よく知りませんけど。
成澤昌茂を除けばスタッフはほとんど第一作と同じ面子が揃っていて、撮影の坪井誠、美術の鈴木孝俊、録音の野津裕男、編集の宮本信太郎など主要スタッフは変わっていません。音楽は伊福部昭先生から小杉太一郎にバトンタッチされ、日活で無国籍アクションから青春ものまで幅広い作品に楽曲を提供していた小杉太一郎がなぜか本作以降第五作までの音楽を引き受けることになります。ちなみに小杉太一郎はアニメ『サイボーグ009』の主題歌(赤いマフラー、なび~かせて~、進めサイボーグ、われらの勇士)を作曲した人。石森章太郎のマンガ「サイボーグ009」を映画化したのは東映動画が一番古くて、昭和41年に劇場公開されました。TVアニメになるのはその2年後のことなので、小杉太一郎作曲の主題歌がそのままTVでも放映されることになったのです。というのは「宮本武蔵シリーズ」とはまた別の話でした。
『宮本武蔵』がシリーズ第一作として華々しく公開されて昭和36年度配給収入第5位を記録したのは納得ですが、1年半後に公開された本作がまたしても年間5位にランクインしたのはやや意外な感じがします。配給収入額にしても3億5百万の前作に対して本作は3億2百万と引けを取っておらず、東映版「宮本武蔵シリーズ」が連続ものとして観客の期待を集めていたということは事実のようです。
【ご覧になった後で】早くも二作目でスケールダウンした感は否めませんね
いかがでしたか?大ヒットを記録したわりには、映画としての完成度が低く、第一作に比較するとすべての面においてスケールダウンしてしまったような感じでした。たぶん製作予算が大幅に削減されたのではないかと推測されるわけで、美術のしょぼさは否定しようがありません。姫路城暗黒蔵から出た武蔵が池田輝政と対面する場面はスタジオセットでの撮影ですが、装置があまりに貧弱で見ていられないくらい質感の低さが気になりました。殿と拝謁する白洲から城壁がそそり立つなんてあり得ないですし、石垣自体がいかにも発泡スチロール仕立てであることがバレバレのチープさなので、導入部からもうげんなりしてしまいました。
第一作ではロケーション撮影を行う際でも必ずオープンセットを設えてしっかりとストーリーに応じた場面設定が映像化されていました。例えばタケゾウが姉を探しに峡谷のようなところを探し回るシーン。オープンセットで掘っ立て小屋を作って、無人であることを表現していましたけど、そのような丁寧な作りはこの第二作には見当たりません。クライマックスの般若坂の決斗シーンは奈良公園の浅茅が原で撮影されたという記録があり、奈良県の参考サイトで写真を見ることもできますけど、なんとその写真は本作の決斗シーンそのものなのです。すなわち公園にある野っぱらに何ひとつ手を加えずに本編の撮影がなされたということです。いかに手抜きというか低予算で製作されたかがわかりますよね。現代の公園そのままで撮影したなんて、TVのバラエティー番組レベルにしか感じられないくらいの安っぽさでした。
内田吐夢の演出も移動ショットがダイナミズムをもたらしていた前作と比べると、たぶんドリーもクレーンも使えなくなったのでしょう。般若坂の決斗シーン以外はほとんど凡庸なショットの積み重ねに終始していました。また第一作の要でもあった三國連太郎の沢庵和尚が導入部だけの登場だったのも本作のスケールダウンにつながった要因かもしれません。
第一作の魅力が時代劇の中に武蔵の成長物語が組み込まれていたことにあったのに比べると、本作では冒頭で書物だらけの暗蔵から出てくた武蔵は凛として言葉遣いも丁寧で、なんだか達観の境地に至っているような趣でした。書物に囲まれて三年間経過しただけで、あの猛獣のような荒くれ者が哲学者のように変化してしまうのも変な話で、観客はいかに武蔵が成熟した剣士に成長していくかがみたいのに、そのプロセスが描かれないまま、タケゾウではない武蔵を見ることになります。中村錦之助もこのような武蔵では演技力の見せようがなかったのではないでしょうか。
京都で武蔵と出会う城太郎もよくある時代劇の子役にとどまっていて、武蔵がわざわざ吉岡道場まで文使いさせるのもわかりきったやりとりをするだけなので、ストーリー展開上の効果は出ていませんでした。まあ竹内満という子役は本作以降も城太郎を演じているようなので、1年1作のペースで作られたとすると確実に子供から少年へと変貌するわけですから、それを見るのは楽しみのひとつではあります。
小説では又八・お甲・朱美のトリオはもっと活躍したように記憶していますが、本作でも京都で吉岡清十郎と絡むところしか出番がなく、特に木村功は酔っ払って管を巻くワンシーンしか登場しないので、本当にもったいないなと思います。武蔵とともにこのトリオをカットバックして描くことができれば、ドラマとしてもっと厚みが出るはずですし、相変わらず演技にもなっていない入江若葉のお通も、武蔵を追い求める道中を描き込めば、来るべき再会シーンの盛り上げにつながるはすなのに、なんともあっさりとした扱いになっていたのが残念です。しかも旅の道連れとなった町人風の旦那となんだか楽しそうにしているので、武蔵を探す旅であることを忘れているようにしか見えませんでした。
本作の見どころは、奥蔵院住職の日観を演じた月形龍之介のゆるぎない存在感と鬼のような表情で槍を振り回す阿巌をやった山本麟一の二人でしょうか。奈良でたむろする浪人たちも冴えない大部屋俳優たちでしたし、吉岡清十郎を演じた江原真二郎はいかにも陰気なだけで第三作への期待感がしぼんでしまうようでした。
というわけで、興行面ではうまく行ったようでしたが、作品としての出来栄えは急落してしまったのがこの『般若坂の決斗』でした。観客は本作を見てがっかりして、第三作以降人気が続かなかったというオチになるかと思ったものの、なんと翌年夏に公開された第三作も年間第6位の配給収入をあげることになるのですから、昭和30年代後半の日本映画の低迷を象徴するようなシリーズになっていったのかなと想像されてしまうのでした。(U111025)

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