意味不明のタイトルなのですがサーカス一座を舞台にした男女の因縁物語です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、安田公義監督の『最後に笑う男』です。廃業寸前のサーカス一座が花形空中ブランコ乗りを招いて起死回生の公演を行うというストーリーで、なぜこのタイトルにしたのかが全く意味不明なのですが、エンタメコンテンツが何もない戦後すぐの時期にいかにサーカスが人々を惹きつけていたかがわかる設定になっています。主演は滝沢修で、それよりも注目なのは京マチ子が大映で本格的にデビューした記念すべき作品だということ。京マチ子の見事なダンスが見られるのも本作の価値を高めています。
【ご覧になる前に】高玉サーカスが映画では東洋サーカスとして登場します
飲み屋でケンカを吹っ掛けた酔っ払いが帰った先は東洋サーカスのテントの中。そこでは団長が不入りで廃業寸前となっている現状を打破するために東京から話題の空中ブランコ乗りの飛鳥兄弟を招いて起死回生の興行を打とうと団員に訴え、それには全員から給金の1割を借りたいと説明していました。酔っぱらいはピエロの峰吉で、ダンサーのユミから諭されても峰吉が反対するのをよそに、飛鳥兄弟の特別出演は評判を呼び、東洋サーカスは大入り満員の賑わいとなります。祝宴を開いた夜、弟の三郎は契約金をめぐって興行師から暴行を受けて片手を負傷してしまい、ブランコに乗れなくなった三郎の代役を探さなければならなくなります。兄の太郎の妻みどりはピエロの峰吉を見て、かつてブランコを指導してくれた先生ではないかと思うのですが…。
映画の中で東洋サーカスとして登場するのが戦後各地で巡業していた高玉サーカス。映画でもテントの中に「TAKATAMA」という文字が映っていますが、大正期に「高玉女相撲」と称して女性による相撲興行をうっていたのが始まりだったようです。昭和初期には風俗を乱すとして興行中止とされたものの、しぶとく東南アジアを巡業して回り、戦後すぐに「高玉サーカス」として改名して女相撲を含むさまざまな曲芸を出し物にしていました。日本初の曲芸団は現在でも公演を続けている木下サーカスですが、昭和22年の松竹映画『淑女とサーカス』というマキノ雅弘が監督した作品には「高玉・木下合同サーカス」が出演者としてクレジットされていますから、戦後の一時期においては高玉サーカスもそれなりの人気曲芸団だったのではないかと思われます。
監督の安田公義にとっては大映で監督になったばかりの頃の作品になりまして、本作はたまたま大映東京撮影所で撮られていますが、安田公義は大映京都撮影所で時代劇を中心に80本以上の映画を作ることになります。昭和40年代には大映特撮映画の傑作『大魔神』や市川雷蔵の遺作『博徒一代 血祭り不動』の監督をしていますから、戦後の大映を支えた監督のひとりだったといえるでしょう。
大映といえば京マチ子となるわけですが、わずか十二歳で大阪松竹歌劇団(OSSK)に入団した京マチ子は松竹で映画初出演を果たしていて、溝口健二の『団十郎三代』では脇役の娘を演じています。なので本作は厳密にいえば映画デビュー作ではないのですが、OSSKを辞めて大映に入社してからの初出演作であり、大映の京マチ子としては本作が初お目見えとなりました。本作の半年後には木村恵吾監督が谷崎潤一郎の小説を映画化した『痴人の愛』で主人公ナオミを演じて大評判となり、翌年には黒澤明監督の『羅生門』に出演しますので、京マチ子は一気に大映を代表する女優へとステップアップしていったのでした。
オープニングタイトルで監督とともに最後に出てくるのが撮影・石本秀雄というクレジット。この石本秀雄はサイレント映画時代に二十歳前に正キャメラマンとして抜擢された日本映画界の黎明期を代表する撮影監督なんだそうで、マキノ映画から片岡千恵蔵の千恵プロ、日活京都へと移り、戦時下で統合された大映に入り、昭和28年以降は松竹京都撮影所に身を落ち着けました。昭和30年代までで撮った作品は200本にのぼり、松竹では十一世團十郎が海老蔵時代に出演した『絵島生島』や岡田茉莉子が主演した『顔』などの作品を残しています。
【ご覧になった後で】滝沢修がブランコ乗りをやるのはやや無理がありました
いかがでしたか?戦後まもない時期の8巻もので、サーカスを舞台にしていることからしてもちょっとキワモノっぽい雰囲気のする作品でしたね。それでも劇団民藝を率いる滝沢修が主演しているのですから、滝沢修も宇野重吉らとともに第一次民藝を立ち上げたばかりの頃で出演料を稼げるならどんな仕事でも受けるという時期だったのかもしれません。それにしても本作出演時に滝沢修は四十二歳。空中ブランコで対決する二本柳寛は三十一歳ですからライバルを演じるには年を取り過ぎていますし、そもそもタイツ姿自体が全く似合っていませんでした。
なにしろ本作の1年半前には吉村公三郎監督の名作『安城家の舞踏會』で没落華族の老父を重厚に演じていた滝沢修なのですから、娘役の原節子とダンスを踊ったあとで京マチ子から慕われるブランコ乗りをやるのはやや無理がありましたね。だいたいからして、元教え子のみどりを若手ブランコ乗りに取られ、それを一方的に因縁に思い詰めるという役に、わざわざ演技派の滝沢修をはめる必要は感じられません。でも滝沢修のフィルモグラフィーを見ると昭和24年に本作を含めて8本もの映画に出ていますから、やっぱり劇団関係でお金が入用だったんでしょうね。
一方の京マチ子はまだ二十四歳で頬っぺたがプクプクにふくらんだ娘っぽい容姿で登場します。滝沢修演じる峰吉になぜ惹かれるのかよくわからない脚本なのは置いておいて、京マチ子の魅力が爆発するのはサーカスの舞台で二度出てくるダンサーたちのセンターを張るところでした。OSSKで鍛えられただけあって踊りのキレがよく、手足や視線を使った決めのポーズが見事ですし、なんといっても抜群のプロポーションを活かしてダイナミックな肢体がハツラツと踊る姿は観客の目を釘付けにしてしまいます。大映初出演にしてこの存在感ですから、当時の撮影所のスタッフたちは誰もが京マチ子の撮影現場をのぞきに来たんではないでしょうか。
この二人の影に隠れてしまっていますが団長役をやった藤井貢は、あの清水宏監督が松竹で撮った『大学の若旦那』の主役を演じた人です。『大学の若旦那』は言うまでもなく加山雄三の「若大将シリーズ」の元ネタになった学生青春映画の元祖。藤井貢は加山雄三と同じく慶應義塾の学生でもありましたから、言ってみれば戦前の加山雄三みたいなポジションにあった俳優でもありました。戦前は松竹で70本前後の映画に出た藤井貢も、戦後になると松竹から大映、大映から東映と流れていくことになりますので、本作での頼りない曲芸団の団長役あたりが似合いの俳優になっていたようです。
本編の話をしますと、サーカスが当時の人々にとって非日常の娯楽であったことが手に取るように伝わってきて、だから空中ブランコのような危険を伴う生身の曲芸を手に汗握りながら見上げる観客の映像が非常にリアルに捉えられていたのだと思います。サーカス団を題材にしているだけに普通の恋愛劇よりはるかにブランコ対決がドラマチックに盛り上がりますし、映像表現的にもライバルの手をつかむのか離すのかをスリリングに見せていました。本作なんかを見るとサーカスを題材にしたからといって、すべてが『地上最大のショウ』の真似だと決めつけるのはよくないなと反省させられますね。(A013023)
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