ミケランジェロ・アントニオーニの「愛の不毛三部作」の二作目にあたります
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『夜』です。愛情が枯れてしまった夫婦の一日をマルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローの二人が演じていて、前年の『情事』と翌年の『太陽はひとりぼっち』とともにミケランジェロ・アントニオーニ監督の「愛の不毛三部作」と呼ばれています。アントニオーニは本作でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞していますし、日本では東和の輸入によってこの三部作が一挙公開された1962年にキネマ旬報ベストテンに三作ともがランクインするほど高く評価されました。ちなみに『夜』は第8位で、4位が『情事』、5位が『太陽はひとりぼっち』でした。
【ご覧になる前に】モニカ・ヴィッティは後半のパーティから登場します
病室で苦痛を和らげるためモルヒネを注射してもらっている評論家トマゾのところへ作家ジョヴァンニと妻のリディアが見舞いに訪れます。回復の見込みのないトマゾが自分にとっての親友は君たち二人だけだと告げると、リディアはいたたまれなくなり先に病室を出てしまいます。トマゾを励まして帰ろうとするジョヴァンニは廊下で若い女性に別の病室に連れて行かれて誘惑されそうになりますが看護婦が止めに入り、リディアとともにミラノの街を車で走り抜けてサイン会会場に向かいます。ジョヴァンニの新作が賞賛の的になるのを横目に、リディアはひとり荒涼とした郊外の空き地をさまよい歩くのでしたが…。
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「愛の不毛三部作」はいずれも明快なストーリーラインをもたず観客を不安にさせるような展開の映画ですが、三作品ともミケランジェロ・アントニオーニ自らが脚本を書き、トニーノ・グエッラが共同脚本に参加しています。グエッラはイタリアを代表する脚本家で100本以上のシナリオを残していまして、『欲望』の脚本にも参加してますし、フェリーニやタルコフスキー、テオ・アンゲロプロスの映画でも共同で脚本を書いています。これら巨匠たちから信頼されていたグエッラは、客観的にシナリオを分析して修正してくれる導き手であったのかもしれません。
マルチェロ・マストロヤンニにとってはフェリーニの『甘い生活』に続く主演作ですが、本作では『甘い生活』とは打って変わって感情を抑制したジョヴァンニを演じています。ジャンヌ・モローは言わずと知れたヌーヴェル・ヴァーグのミューズですが、前年にピーター・ブルック監督の『雨のしのび逢い』でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞してキャリアのピークを迎えていた頃の出演作でした。この二人に後半のパーティシーンから絡んでくるのがモニカ・ヴィッティで、階段の下でジョヴァンニの本を読んでいる娘がいるとリディアが紹介するセリフがあって、それに導かれるようにしてジョヴァンニと巡り合うヴァレンティーナとして登場します。
このパーティシーンは会社を経営する大富豪の邸宅で開かれていて多くの上流階級が集まっているという設定で、ゲストの中にウンベルト・エーコが出演しているそうです。歴史ミステリー小説「薔薇の名前」の作者でもあり現代イタリアを代表する哲学者でもあるエーコですが、本作製作時はトリノ大学で教鞭をとっていた時期にあたります。パーティの客として出演している大勢の中には作家や脚本家が混じっているようで、上流階級のパーティに集まる文化人のひとりとして招かれたのかもしれません。
そのパーティの場面を中心にジャズがフィーチャーされていて、音楽を担当したジョルジオ・ガスリーニは本作が映画界での仕事はじめだったようです。一方で撮影のジャンニ・ディ・ヴェナンツォは2年後にフェリーニの『8 1/2』を撮ることになるキャメラマンで、アントニオーニは『太陽はひとりぼっち』で、フェリーニは『魂のジュリエッタ』で続けてヴェナンツォを撮影監督に起用しています。けれども1966年に四十六歳という若さで亡くなってしまったので、当時のイタリア映画界としては大きな痛手だったのではないでしょうか。
【ご覧になった後で】映画の大半が夜で室内なのですが撮影がすばらしいです
いかがでしたか?この当時のアート志向の映画はかつては熱心に見たことがあるものの、歳を取ってから再見すると見るのが辛いものが多いのですが、この『夜』は初めて見たということもあって、退屈することなく集中して見ることができました。とは言ってもわざわざ時間とお金を使ってこういう映画を映画館に見に行くとなると、現在的にはなかなか難しいような気もします。日本では本作は東和、『太陽はひとりぼっち』は日本ヘラルドが輸入して公開していまして、インターネットによる配信などの仕組みがない当時はフィルムそのものを輸入して映画館で映写するしか上映方法はない時代でした。それを考えるとよくこのような一般受けは絶対しないような作品を買い付けてビジネスにしていたなあと感心してしまいます。当時の独立系の外国映画配給会社の功績は多大なものがありますし、またこの手の映画を見る観客が一定数存在していたことも事実なのかもしれません。
で、映画の中身ですが、興味を切らさずに見ていられるのはひとえにキャメラのすばらしさのおかげではないかと思います。映画はミラノの街を車で走るシーンやジャンヌ・モローがビルの間の空き地をさまようところ以外はほとんど室内か夜の場面です。なので非常にキャメラの絞りや照明設計の難易度が上がるはずで、この室内あるいは夜を映したキャメラが抜群にいいんですよね。自然な暗さというかその場に立ち会っているかのような雰囲気が映像で醸し出されていて、それはフェリーニの『8 1/2』に通じる感覚かもしれません。映像づくりはジャンニ・ディ・ヴェナンツォの功績なわけですが、あまりに早く亡くなっていることを知って、フェリーニやアントニオーニが心から嘆いたのではないかと想像してしまいました。
主演の三人はいずれも本作になくてはならない俳優なのですが、とりわけジャンヌ・モローの微細な演技が注目点だったと思います。富裕な家に生まれて評論家トマゾから求愛されるものの作家ジョヴァンニと結婚し、その結婚生活は決して幸福ではなく見せかけの夫婦を演じ続けているというリディアの絶望というか虚無感を見事に体現していて、ちょっとした表情やしぐさからそのやるせなさが伝わってきました。マルチェロ・マストロヤンニに抱擁されるのを拒絶する姿をロングショットで捉えたキャメラが左にパンして寂しい木立だけになったところで「FINE」の文字が出てくるエンディングは、まさしく愛の不毛というか気持ちが通じ合わないことの寂漠さを象徴していたと思います。
一方でモニカ・ヴィッティは演技というよりは存在感そのものがすでに寂しいというか不安定というか浮遊しているというかあやふやさがそのままキャラクターの魅力になっていました。だからこそミケランジェロ・アントニオーニ監督にとってはなくてはならない女優だったんでしょうし、監督と女優という職業上の関係のままで終わったのかもしれません。見た目とか雰囲気が決め手の女優さんなので、あまりお互いに深い関係になり過ぎるとミステリアスな存在を映画にするという部分が消えてしまいますもんね。
本作の脚本は終盤でリディアが心情を吐露するまでほとんど何を思っているのかのセリフがなく、さりげない日常会話だけで構成されています。そのさりげない会話の中にジョヴァンニとリディアの夫婦が完全に冷え切っていることが表現されていますし、ジョヴァンニが病室の娘に誘惑されたりヴァレンティーナに惹かれたりという行動でその冷え方が裏打ちされるようになっています。リディアは雨の中のアバンチュールから途中で引き返しますが、たぶんジョヴァンニは大富豪の誘いにのって高給取りの広報マンになりヴァレンティーナと関係を結ぶことになるでしょう。そんな展開を観客に容易に想像させるところが本作のもつ喚起力なのでしょうし、映画を見るということが映画本編だけで完結しないような作り方がこの当時のアート志向の作品の共通項のような気もします。(A012123)
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