桃中軒雲右衛門(昭和11年)

明治末期に活躍した浪曲師桃中軒雲右衛門を主人公にした実録風芸道ものです

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『桃中軒雲右衛門』です。昭和11年といえば、あの「二・二六事件」が勃発した年で、日本のアジア侵略政策が北進をとるべきか南進をとるべきか、陸軍におけるきな臭い内部抗争が表面化した時期でした。しかし日本映画界はトーキーが一般化してまさに全盛期を迎えていて、トーキーを生かした作品が次々に作られていきます。本作もそのひとつで、明治末期に浪曲を寄席ではなく劇場の演目に押し上げた実在の浪曲師桃中軒雲右衛門を主人公にして、浪曲をたっぷりと聞かせる芸道ものになっています。

【ご覧になる前に】浪曲は、落語・講談とともに日本の三大話芸のひとつです

浪曲師桃中軒雲右衛門とその一行は、東京での公演準備のために汽車で上京するところ。雲右衛門の息子が待つ国府津まで行く予定でしたが、雲右衛門は静岡で途中下車をして料亭で酒盛りを始めてしまいました。旧知の間柄で息子の面倒を見ていた倉田による出立の呼びかけに応じることもなく、雲右衛門は自らの芸をより極めるにはどうすべきかを考え込んでいたのでした…。

明治末期に実在した桃中軒雲右衛門は、東京から西へと流れていく中で、講談に三味線を加えた「糸入り講談」を自分のスタイルに取り入れ、やがて浪曲の基礎を作った人物です。世間では「浪花節」と呼ばれるのが一般的で、落語の「噺す」、講談の「読む」に対して浪曲は「語る」芸として徐々に人気を獲得していきました。そんな雲右衛門をサポートしたのが九州を拠点とした玄洋社。旧福岡藩士らがアジア主義を掲げ結成した右翼団体・玄洋社は尽忠報国を旨としていて、雲右衛門は玄洋社の助けを借りて旧来型の武士道を喧伝する「義士伝」を完成させます。「義士伝」は歌舞伎や文楽で繰り返し上演されていた「仮名手本忠臣蔵」をもとに四十七士のキャラクターごとにスピンオフストーリーを語るというもの。これが大当たりして雲右衛門は九州から晴れて東京へと凱旋することになったのでした。

本作の配給は東宝ですが、製作はPCL映画製作所が担いました。PCLとは写真化学研究所Photo Chemical Laboratory)の略で、日本映画界ではいち早く専用スタジオを建ててトーキー映画の製作に乗り出していました。本作の翌年、昭和12年にPCL映画製作所と配給専門だった東宝などが合併して、製作から配給まで垂直統合した映画会社東宝が設立されることになります。

そのPCLに松竹から移籍したのが成瀬巳喜男。成瀬は松竹の若手監督でしたが監督に昇格しても会社から押しつけられた脚本で作品を作らなければならないなどの待遇に不満を抱いていたところ、PCLから引き抜きの話があったのだそうです。成瀬はPCLへ移籍して初めてトーキー作品を発表、その勢いで本作の監督もつとめました。本作で芸者の千鳥役で出演している千葉早智子は、本作の翌年に成瀬と結婚していますが、わずか三年で離婚。戦後には女性を描いた作品を数多く発表した成瀬でしたが、結婚歴はこの一回きりのようで、この三年で結婚に懲りたのでしょうか。ちなみに主役の雲右衛門を演じているのは月形龍之介。戦前から時代劇映画で活躍していた月形龍之介は、自分の独立プロダクションを興して失敗したりしながら映画会社を渡り歩いて、戦後設立された東映に腰を落ち着けます。その頃には「水戸黄門シリーズ」など老人役が主になっていましたから、本作は若き月形龍之介が見られる貴重な作品といえるでしょう。

【ご覧になった後で】キャメラワークは印象的ですが脚本は今ひとつですね

成瀬巳喜男の映画にしては序盤からぐんぐんとキャメラが動き回って珍しく「躍動的」な演出でしたね。たぶん松竹では使えなかった機材がPCLには豊富に揃っていて、その中で特にドリーを使ってみたかったのかもしれません。なので雲右衛門が静岡の料亭で酒盛りしているだけの場面でも、少し離れたところから移動撮影でキャメラの位置を変えつつ、パンをして人物のとらえ方を変えるという手の込んだキャメラワークを見せています。まあ、特にこれだという効果はないんですけどね。

一方で脚本は人物描写が浅くてなんとも中途半端で出来でした。雲右衛門が芸者の千鳥に熱をあげて女房お妻と疎遠になるのですが、雲右衛門はそれを自分の芸が錆びてしまったからだと言い、病身のお妻の見舞いにも行こうとしません。息子からも千鳥と付き合うのをやめるよう言われるのですが、逆に息子を殴りつけてお妻を避けるばかり。ここらへんの雲右衛門の描き方が全く共感できないのは、脚本のまずさでもありますし、そのうえ月形龍之介がこれ以上ないほどの大根役者で、面構えは一流ですが演技が下手過ぎて何の情感も伝わってきません。脚本と月形のせいで、雲右衛門は女房ではなく愛人を選んだというだけの痴話話に終わってしまっていました。

途中で雲右衛門が浪曲を語る場面が出てきますが、最初の座敷での語りは「村上喜剣」。大石内蔵助が祇園で遊興に耽っているのを見て散々に侮辱するのですが、あとになって大石が討入りを果たして切腹したと聞き、泉岳寺の墓前で咽び泣くというサイドストーリーの主人公です。また、東京での劇場公演の場面(お妻がわざと三味線を外すところ)では登場人物として「戸田の局」が出てくるので「南部坂の別れ」が演目になっているようです。これは雲右衛門の十八番だったらしく、忠臣蔵を取り上げた映画の中でも絶対に盛り上がる名場面として有名ですね。

そんなわけでキャメラワーク以外には見どころのない本作ではありますが、雲右衛門の友人である倉田に対して女房のお妻がいう「人にはそれぞれ心の中に扉をもっていて、その扉は誰も開けてはいけないものなのです」みたいなセリフは、なかなか的を射ているなあと感心させられました。倉田は「それを開けないのは臆病だ」とか反論するのですがお妻は譲りません。まあその扉を強引に開けようとするのなら、それこそ傲慢の極みといえるかもしれませんね。(Y120221)

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