都会の横顔(昭和28年)

迷子の女の子を主人公にして銀座の一日を点描する清水宏監督の佳作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、清水宏監督の『都会の横顔』です。題名が映し出されるクレジットには「Tokyo Profile」という英語のサブタイトルがくっつけられていまして、舞台となる銀座が東京を代表する街であったことが伺えます。清水宏はロケーション撮影を得意としていましたので、本作でも昭和28年当時の銀座でロケしていて、今ではなくなってしまった建物や橋などが画面に収められているのにも注目です。

【ご覧になる前に】松竹蒲田出身の清水宏による唯一の東宝での監督作品です

銀座の街で靴磨きをしているトシ子は母親とはぐれてしまった迷子を見つけました。名前はミチ子で母親は村上アサ子、住所は目黒ということしかわからず、通りがかったサンドイッチマンがミチ子を連れて母親を探すことにしました。一方娘を見失った村上アサ子は偶然出会った近所の主婦キヨ子と一緒にミチ子を探しますが、キヨ子は途中で喫茶店にクリームソーダを飲み、伝票を置いて日劇に行ってしまいます。あんみつやでサンドイッチマンのもとから離れたミチ子は、男漁りをしているカズ子の後をつけて、日劇に潜り込むと自分を振った男を見つけたカズ子からメモを渡すよう頼まれたのでした…。

清水宏は女優の栗島すみ子の口利きで松竹蒲田に入社してわずか二年後に監督に昇進したラッキーな人物で、田中絹代のデビュー作を監督した縁で田中絹代と「試験結婚」していたことでも有名です。松竹では150本近い映画を作っていて、特に伊豆でロケーション撮影した『有りがたうさん』や子供たちに自由に演技させた『風の中の子供』『子供の四季』は、松竹の社史の中でも「佳作」として紹介されるほど、松竹を代表する映画監督の一人でした。

ところが戦時中の昭和18年に台湾総督府と満州映画協会と合作で撮った李香蘭主演の『サヨンの鐘』を監督したあと、大船ではなく松竹京都で一本だけ作って清水宏は松竹を去ることになります。ここらへんの経緯はよくわからないのですが、その後清水宏は二度と松竹で仕事をすることはありませんでしたので、何か決定的に決裂するようなことがあったのでしょう。戦後は自ら立ち上げた製作プロダクション「蜂の巣映画」で子供を扱った作品を作ったり、新東宝で『小原庄助さん』を撮ったりしていた清水宏ですが、ただ一本だけ東宝に招かれて自身の脚本を監督したのがこの『都会の横顔』なのでした。

清水宏はロケーション撮影を得意としていて、特に乗り物を利用した移動撮影を好んで使いました。本作も最初のショットからいきなり銀座を走る市電の最後部から撮っていて、当時の銀座の街の様子が作り物っぽくなく記録映画風に収められています。キャメラマンは遠藤精一という人で、実質的には初めて撮影を担当する新人キャメラマンでした。清水宏も松竹時代は斎藤正夫あたりにキャメラを任せていましたが、初の東宝作品でしたからスタッフも新人をあてがわれたのかもしれません。『風の中の子供』で子供たちの姿を生き生きと撮った斎藤正夫は戦後には編集部に異動して後に監督作品も数本残しています。こんなところにも清水宏が松竹を去ることになった要因が隠れているのかもしれません。

出演者は池部良をはじめとして有馬稲子、木暮実千代、森繫久彌、丹下キヨ子、沢村貞子、伴淳三郎などが顔を揃えています。有馬稲子は松竹のイメージが強いのですが、本作は宝塚から東宝専属になったばかりのときの出演作で、二年後に松竹に移籍していたのでした。かたや森繫久彌は東宝と新東宝を行ったり来たりしていた時期で翌年に日活が映画製作を再開すると日活作品にも出演するようになりますし、木暮実千代も戦後松竹に復帰したものの大映や東映、新東宝と枠にとらわれず各社の作品に出ています。正確ではありませんが、森繫久彌や木暮実千代あたりは五社協定が確立する前にフリーの立場になっていたのかもしれません。

Tōhō (東宝株式会社) , パブリック・ドメイン

【ご覧になった後で】清水宏の映像センスが溢れた都会派喜劇の傑作でした

いかがでしたか?これはちょっとした拾い物で、ただ単に迷子になった少女の行動を追いかけるだけのお話なのに、そこにいろいろな人物をからませながら銀座の街のあちらこちらを紹介してしまう実にオシャレな観光映画であり、都会派喜劇でした。ジャズピアニストの松井八郎が音楽をやっているだけあって、BGMも銀座の雰囲気にぴったりでしたし、話が単純なので音楽が登場人物の心情表現にもなっていて、木暮実千代演じる母親が出てくると一転してマイナーな哀愁調の弦楽演奏になったりします。まるで演奏付きのサイレント映画を見ているようで、それだけ清水宏監督の映像センスが前面に出ていたのだと思います。

その映像とは基本的にはロケーション撮影での移動ショットで構成されていまして、たとえば池部良が少女と舗道を歩くショットはフルショットで二人を収めた画面を維持しながらキャメラをドリーで動かしてのトラックバックショットになっています。でもよく考えてみると銀座のロケーション撮影でドリーを動かすレールを敷設することなんか不可能ですから、これはたぶんリヤカーかなんかを撮影助手に曳かせて荷台に載せたキャメラで撮っているかもしれませんね。でもこれが安定した長回しになっていて、池部良が歩くときに足をヒョイヒョイと前に出す飄逸な感じが明るい陽射しの光量でしっかり画面に焼き付いていますし、少女が真似をして歩く可笑しみも伝わってきます。

この移動ショットは縦方向だけではなく横移動も使われていて、特に目を見張ったのが池部良が画面奥に舗道を歩く縦構図の画面があって、キャメラが横に移動すると窓を潜り抜けて喫茶店の店内に入り込み、そこにすれ違いで木暮実千代と沢村貞子の二人が入ってきて横の構図になるというワンショット。喫茶店の向こう側には道を歩くたくさんの人たちが映りこんでいるので、喫茶店内はスタジオセットではないはずですので、たぶん銀座の喫茶店を借り切って、室内からキャメラを横に突き出して池部良を撮り、そのキャメラを室内にしまいこむようにして女性陣をとらえるという移動ショットを実現したのだと思います。

加えてこうした移動ショット主体の映像の中に、たまに小径から大通りを覗くようなスティルショットが挿入されるんですよね。これは小津映画のリズムに近いものが感じられますが、小径からなので画面左右は建物でふさがれていて、中央に銀座通りを走る市電で映るみたいな構図になっています。こうした移動ショットとスティルショットの組み合わせが、映画全体の基本的文体になっていて、それが本作を非常にソフィスティケートされた都会的雰囲気の映画にしているのでした。

こんなに銀座でロケーション撮影していて、当時は映画スターといえば一般人から注目される憧れの的でしたので撮影現場は大混乱しなかったのでしょうか。あるいは画面に映っているのは全員エキストラなのかどうか、そこらへんが全くわからないくらいに巧妙なロケが行われたのだと思います。たぶんデパートの屋上の場面で道路下をのぞき込むなんて場面は全員エキストラで撮影できそうですけど、銀座通り沿いに池部良や森繫久彌が歩く場面なんかは一般人を通行止めにしたとは思えませんし、かといってリヤカーの上にキャメラを載せて撮影していたらすぐに人だかりになってしまうでしょうから、本当になぜここまで銀座の日常を映像化できたのか不思議でなりません。

そして映像アーカイブとしても非常に価値のある作品で、今ではなくなってしまったかつての銀座の姿がしっかりと映像に残されているのが嬉しいところです。日劇の外観は当時はあまりに有名な建築物だったのでまともに映画の中に登場することが少ないのですが、本作では数寄屋橋の交差点から撮ったショットの中央に日劇がドーンと映っています。左には東芝ビルの入り口あたり、右には朝日新聞社の本社があって、この景色は本当にお宝と言ってもいいでしょう。もちろん高速道路はまだ開通していないので、数寄屋橋も橋のままに残っています。

また松坂屋と松屋のデパート内の様子がそれぞれ映画で見られるのも大変珍しいですよね。特に松屋の吹き抜け横の階段は、当時としては最先端のデザイン建築だったんだなとあらためて建築物の価値を再確認させられました。でも現在でもほとんど松屋の建物はそのまま使われていることもわかってしまい、耐震などの安全面は大丈夫なのかちょっと心配してしまいます。

日本映画データベースなどさまざまな記録では、本作の脚本は清水宏単独で記載されていますが、実際のタイトルロールでは清水宏と関沢新一の二人が脚本としてクレジットされています。関沢新一は東宝の怪獣映画や特撮映画の主力脚本家で、都はるみの「涙の連絡船」を作詞するなど多才な人でした。昭和27年の蜂の巣映画製作の『大仏さまと子供たち』の助監督をやったという記録があるので、そのときに清水宏と組んだのかもしれませんね。いずれにしてもストーリーがあってないような脚本には、関沢新一の才能も寄与しているように思われます。

築地署に万引きの疑いで補導された木暮実千代が子供に靴を買ってやりたかったと告白する場面で少しだけ泣かせておいて、どうやって罪を逃れたのかなんて説明は一切飛ばして、夜の銀座に明るい表情で歩き出す池部良と有馬稲子と木暮実千代の三人の姿が明日に向けた希望を感じさせますよね。そしてラストショットも夜の銀座を市電の最後部から映した移動の夜景となって、清水宏監督の都会派喜劇は口残りのないあっさりとした味わいで終幕となります。ルイ・マル監督の『地下鉄のザジ』ってこの映画のリメイクなんではないかと思ってしまうほどで、ストーリーはないけど銀座の街と人を点描していく手法を昭和28年において清水宏が実現していたのでした。再発見されるべき作品のひとつではないでしょうか。(Y071722)

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