その夜の妻(昭和5年)

小津安二郎監督のサイレント期の一本で岡田時彦を初めて主演に起用しました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、小津安二郎監督の『その夜の妻』です。小津安二郎は松竹蒲田時代にはアメリカナイズされたサイレント映画を次々に製作していまして、本作はその中の一本で、岡田時彦が初めて小津映画の主演をつとめた作品としても有名です。原作は当時若者たちに人気のあった娯楽雑誌「新青年」に掲載された「九時から九時まで」というオスカー・シスゴールという人の小説で、後に小津とコンビを組む野田高梧が脚色しています。

【ご覧になる前に】フィルムが現存する初期小津作品のうちのひとつです

夜のビル街をパトロールしている警官が柱の陰にいる浮浪者のような男に声をかけると、男はよろよろと別の場所にうずくまります。警官たちの詰所に電話が入ると、それはある事務所に強盗が入ったことを知らせる通報でした。事務所では職員たちがロープで縛りあげられ、その横ではハンカチで顔を隠した男がピストルを構えながらデスクから紙幣をつかみとっています。通報を受けた警官たちがビル街に出動し、あちらこちらに警戒線がはられ、浮浪者のような男も訊問されるのでしたが、同じ頃都会の別の場所では、病に倒れた娘を必死に看病する女の姿があったのでした…。

松竹蒲田時代に小津安二郎は短編も合わせて35本のサイレント映画を作っていますが、特に初期の頃の作品はネガもプリントも残っていない作品が多く、フィルムが現存する中で最も古いのは昭和4年の『学生ロマンス 若き日』です。そして昭和5年の『朗らかに歩め』『落第はしたけれど』に続いて、現在でも鑑賞できるのがこの『その夜の妻』で、小津はこの昭和5年に長編5本と短編1本の合わせて6作品を発表する多作の時期にありました。

主演の岡田時彦は本作が小津映画への初出演でして、このあとは『お嬢さん』『淑女と髭』『美女と哀愁』『東京の合唱』と立て続けに小津映画に主演していくことになります。小津安二郎は本作で岡田時彦のことを気に入ったのかもしれませんが、実は岡田時彦は小津映画に出る前にすでに日活で活躍していて、当時の映画界では人気投票第一位を獲得するほどのトップスターでした。昭和4年に松竹に移籍して小津映画の常連になるものの、昭和6年に松竹から独立します。しかしこれが不幸の始まりで俳優仲間で作った独立プロダクションは早々に解散となり、そのうちに持病の結核を悪化させた岡田時彦は昭和9年にわずか三十歳で早逝したのでした。

相手役の八雲恵美子も松竹蒲田を代表する女優で、駆け落ちに失敗して芸妓をしていたときに松竹下加茂撮影所を訪ねたことが映画界入りのきっかけだったそうです。映画デビューは二十二歳とやや遅めだったものの、島津保次郎と五所平之助という松竹蒲田を代表する両監督に重用されて、栗島すみ子に次ぐ幹部女優になりました。八雲美恵子にとっても本作は小津映画への初出演作で、岡田時彦とは『東京の合唱』で再び夫婦役で共演しています。そんな八雲美恵子も若き田中絹代がデビューするとスターの座を奪われてしまい、昭和13年には映画界から身を引くことになりました。

小津がなかなかトーキーを撮らなかったのは、キャメラマンの茂原英雄が独自の同時録音方式を開発していて、トーキーを撮るなら茂原式でやると小津は茂原英雄と口約束を交わしていたのでした。松竹が土橋式トーキーを採用して松竹大船撮影所でトーキー作品を製作しはじめたとき、小津組だけが蒲田に残ってサイレント映画を撮り続けたのは小津がその約束をかたくなに守っていたからでした。本作ではその茂原英雄が撮影とともに編集も担当しています。

【ご覧になった後で】アメリカのサイレント映画のような雰囲気が満載でした

いかがでしたか?戦後の『晩春』以降の小津安二郎によるホームドラマを見慣れていると、本作のようにアメリカのサイレント映画の暗黒街ものを再現した雰囲気は現在的には違和感を抱いてしまいますよね。基本ローアングルでフィックスで、という先入観があるもんですから、移動ショットが入ったりすると「こんなところで移動を使ってる!」なんていう些細なところにも驚いてしまいます。しかし松竹蒲田時代の小津映画はアメリカのギャングものやスラップスティックをなぞるようにして作られた作品も多いようで、この『その夜の妻』も一連のアメリカサイレント映画再現もののひとつに位置づけられるのかもしれません。

特に終盤で刑事が男をわざと逃がしてやり、その刑事がドアを開けて出ていこうとするとドアの外で男が待っているという場面での急激なトラックアップショット。これはいかにもバタくさい演出で、戦後の静謐な小津の演出にはない、この時期だけのものだったんでしょうね。こうした移動ショットは非常にセンスの良さが光っていたのですが、映画の後半がほぼ病床の娘がいる部屋の中で進行するため、室内でのショットの構成はところどころで気の抜けたような感じがしてしまいました。クローズアップで室内の装飾品や置物を捉えたり、刑事の手のアップやピストルのアップを撮るところはいいんですが、男と妻と刑事の三人をひとつの画面に収めたショットは、カッティングの面でも構図の面でもつながりが悪く、緊張感を阻害するようなところがありました。

例えば、刑事が寝入ってしまったのを見て男が逃げ出すところで、左に刑事、右に男と妻という三人をひとつの画面で捉えるのですが、ここはサスペンスを盛り上げるところなのでわざわざ三人を入れて引きで撮るのではなく、アップめの構図で視覚を狭めにしたほうがいいような感じがしてしまいました。まあすべてのショットに小津なりの意図があるんでしょうけど、その前後の娘のベッドを撮ったショットもちょっと三人の位置関係を混乱させるような撮り方だったので「あれ?」と思わされてしまいました。

一方でサイレント映画ならではの音を感じさせる表現は見事で、特に刑事が手錠を床に落とす場面。男と妻がベッドで娘を看ているショットの次に刑事の手のアップになりその手から手錠が滑り落ちます。次のショットがまた男と妻に戻ってギョッとして刑事のほうを振り向くアクションを映します。ここはサイレントなのに手錠が床に落ちる「ゴトッ」という音が画面から聞こえてくるようで、こういうところは小津安二郎の映画職人の技が伝わってくるような味がありました。

しかしながら小津安二郎が監督した作品でなければ、たぶんこの映画を見る気にならなかったでしょうし、実際初見で見てみても特に面白い映画ではなく、映像的価値があるようにも思えませんでした。たぶん偉大な映画作家の初期の歩みのワンステップとして見るしかなく、そのような義務感で見るのもどうなのかなと思ってしまったのが正直なところです。サイレント映画のわりにすごく字幕が少なくて、逆にいえば字幕なしでもわかる内容なのでして、単純過ぎて退屈してしまったのかもしれません。(Y101322)

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