三十三間堂 通し矢物語(昭和20年)

成瀬巳喜男監督の初の時代劇は戦時下で映画会社の枠を超えて作られました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『三十三間堂 通し矢物語』です。本作は昭和20年6月公開で、なんと太平洋戦争終戦の2ヶ月前に映画館で上映されました。東宝で製作されて東宝専属だった成瀬巳喜男が監督しているのですが、撮影は松竹の京都撮影所で行われ、俳優も松竹の田中絹代と松竹から東宝に移籍して騒動を引き起こした長谷川一夫の二人が主演しています。この二人の共演は戦時下でしか実現できなかったので、ある意味では戦時下ならではの作品だといえるかもしれません。

【ご覧になる前に】三十三間堂で行われていた通し矢競技を描いています

三十三間堂は軒下で行われる通し矢が有名で、これまでの記録は尾州藩の星野勘左衛門が射った8000本であると本堂に集まった見物人が噂しています。紀州藩士和佐大八郎は、父親が勘左衛門に記録を破られて自害したため、8000本以上の通し矢を成功させようと宿屋の小松屋の女主人お絹のもとでに練習に励んでいます。尾州藩では大八郎の通し矢挑戦を邪魔しようと浪人たちを雇って大八郎を襲せわるのですが、唐津勘兵衛と名乗る侍が大八郎の危機を救ってくれるのでした…。

三十三間堂は千手観音を本尊とした天台宗の寺院で、京都東山にある本堂は120mの長さがあります。この軒下を使って南側の端から矢を射って北側の端の的に当てる競技が「通し矢」で、一昼夜の間に何本の矢を通したかを争う「大矢数」が最も人気があったそうです。十六世紀あたりから始まったといわれていて、十七世紀半ばには尾張藩と紀州藩による大矢数争いを通じて次々に記録更新されていくことになるのですが、競技に参加するために莫大な経費がかかるようになったために十八世紀中期には大矢数自体が廃れていったようです。

太平洋戦争が始まってからは、映画の製作は松竹、東宝、大映の三社とニュース専門の日本映画社に統合されて、そこで作られた作品は紅系と白系の二系統に分かれて映画館へ配給されていました。フィルム自体も統制下にありましたので製作本数は激減していき、さらには映画法による検閲が厳しい時代でしたので、この当時の映画はいわゆる戦意高揚の国策映画オンリーになっていた固定観念があります。そんな状況下でも時代劇だけは日本独自のジャンルですし敵性映画になる可能性も少ないので、おなじみの題材であれば割とすんなり内務省の検閲を通過したようで、本作のような平和な時代の作品と全く変わらない作品が映画館で上映されていたのでした。

そうだとしても昭和20年6月というと、3月には東京が大空襲され硫黄島の栗林部隊が全滅、4月には戦艦大和が撃沈され、沖縄本島に米軍が上陸し6月までの沖縄戦で10万人近い島民が亡くなったという太平洋戦争末期です。そんなときによくこんな映画がフツーに映画館でやっていたなあと感心してしまうのですが、一説によると軍部の影響やマスコミの論調にのせられた中間層が「戦時下に娯楽映画なんてけしからん」みたいな投書を出したりして国民の声を偏った形で代表していたのですが、そうした人たちまで兵隊にとられてしまい、娯楽作品に対してうるさく言う人たちがいなくなった結果、戦争に行かない人たち向けのこのような時代劇が普通に作られちゃったんじゃないか、みたいな背景もあるようです。あくまで一説によるとですけど。

監督の成瀬巳喜男は昭和20年1月には『勝利の日まで』という映画を作っていますし、田中絹代は前年12月に木下恵介監督の『陸軍』で息子を兵隊に出す母親を演じています。長谷川一夫は前年に召集されて鳥取連隊に入隊していたそうですが、除隊になり終戦までは映画に出演すると同時に慰問公演で全国巡業していた時期です。本作は普通の時代劇ですけれど、みんななんらかの形で国策映画には参加させられていた時代だったんですね。大八郎役の市川扇升は劇作家小山内薫の息子で歌舞伎役者だったのですが、戦後まもなく早逝した人。あとは小津映画の常連でもある田中春男が出ています。スタッフのほうでは、脚本の小国英雄は日活で大量の脚本を書いていましたが、東宝が設立された後は主に東宝作品で人気脚本家として活躍しました。黒澤明と共同で脚本を書くのは昭和27年の『生きる』以降のことになります。

Tōhō (東宝) パブリックドメイン

【ご覧になった後で】小国英雄脚本で成瀬巳喜男監督なら間違いないですね

いかがでしたか?脚本が小国英雄で監督が成瀬巳喜男なら、これはもう鉄板ともいうべき一流映画人たちなのでつまらないわけがないですよね。間違いなく面白い話になっていますし、ショットの組み合わせや長さやフェードアウトの使い方などがうまくて、安心して物語に没頭できるようになっていました。長谷川一夫が星野勘左衛門であるのもそんなにもったいぶることなくあっさりと正体を明かしてしまっていて、テンポのある展開につながっていましたし、クライマックスの大矢数競技がしっかりと描かれているのも短い尺の中での時間配分が上手だったと思います。

その中でも抜群の存在感で映画を引っ張っていくのは間違いなく長谷川一夫でした。食事処の奥座敷に現れる初登場シーンから最後に旅立っていくところまで、本作は長谷川一夫演じる星野勘左衛門の魅力で見せる映画になっていました。特に小松屋の二階の座敷で尾州藩の雇われ浪人たちと対峙するところのカッコよさ。「間違ってお前が私に斬られるとする」と仮定の話を積み重ねて、刀を抜かずに相手を言葉で追い詰めていく場面は長谷川一夫でなければ成立しないでしょうね。

長谷川一夫に比べると、本作の田中絹代はなんとも中途半端でしたね。そもそも「おかみさん」とも「お嬢さん」とも呼ばれていて役柄そのものがどっちつかずなので仕方ないのですが、おかみさんにしては全く軽すぎますし、お嬢さんにしてはちょいと歳が行き過ぎていて、長谷川一夫に対しても市川扇升に対しても関係性が浮かび上がってこないような役になっていました。けれどもあまり色気があり過ぎてしまうと、恋愛ものは検閲で引っかかる時代でしたので、あえてそこを回避するための中途半端さだったのかもしれません。

ところで見終わった後で調べてみて驚いたのですが、星野勘左衛門と和佐大八郎って実在の人物だったんですね。寛文9年(1669年)に尾張藩の星野勘左衛門が大矢数で8000本の記録を作り、その17年後に紀州藩の和佐大八郎が8133本を通して天下一になったという記録が残っているそうです。それにしても三十三間堂の西軒下120mを射抜くわけなので、人間の力で引く弓がそんな遠くまで飛ばせるもんなんでしょうか。オリンピック競技のアーチェリーでも射程距離は70mですし、それも合金やカーボンを使用した道具を使ってのことです。江戸時代ではたぶん竹の弓で射っていたはずなので的に当てる以前に120mが届くのかなあと思ってしまいます。

しかも8000本って、映画の中では朝から夕方くらいで競技が終わってますけど、そんな数時間でこなせますかね。ちゃっちゃと次々に矢を放って1分に10本射ったとしても1時間に600本、8000本には13時間以上かかる計算になりますし、休みなしで120mの的に当てるなんて100%不可能です。まあ映画なんで別にどうでもいいんですが、実在の人物がいて記録が残っているのが事実だとすると、どれくらいの時間をかけたうえでの8000本なのかは、かなり誇張されて伝わっているのではないでしょうか。(Y072922)

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