成瀬巳喜男監督が高峰秀子と加山雄三主演で撮った義理の姉弟の悲恋ものです
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、成瀬巳喜男監督の『乱れる』です。成瀬巳喜男は松竹からPCLに移籍した以降はそのままほとんどの作品を東宝で作り続けましたが、本作はそのキャリアの終盤の頃の一本です。主演は成瀬作品で多く主演をつとめた高峰秀子。相手役を若大将・加山雄三が演じているところが珍しいのですが、加山雄三は成瀬巳喜男の遺作となる『乱れ雲』でも再度主役に起用されることになります。地方都市の商店街がスーパーマーケットの進出で立ち行かなくなるという経済問題を取り上げているのも昭和39年という世相を反映しているといえるでしょう。
【ご覧になる前に】高峰秀子の夫でもある松山善三によるオリジナル脚本です
清水市の商店街では新規開店したスーパーマーケットの安売り宣伝カーが走り回っていますが、酒屋を営む森田屋では嫁の礼子が忙しく立ち働いています。スーパーマーケットの社員たちが夜のスナックで安売りの卵を大量にゆでてホステスたちに大食い競争をさせていると、ひとりの男が文句をつけ社員たちと大喧嘩が始まりました。警察から電話を受けた礼子は騒動を起こした義弟の幸司を保護者として引き取ったのですが、幸司は大学卒業後に就職した会社を辞めて地元に戻ってきて以来、定職にもつかないで遊び歩いていたのでした。姑のしずは戦死した兄の嫁が森田屋を切りまわしてくれているのを気にして、幸司の行いに眉をひそめるのでしたが…。
オリジナル脚本を書いた松山善三は言うまでもなく高峰秀子の夫で、助監督だった松山善三と女優高峰秀子の結婚式では川口松太郎夫妻と木下恵介が媒酌人をつとめました。松山善三が監督としてデビューしたのは昭和36年の『名もなく貧しく美しく』でしたが、脚本家としては昭和30年から三十本以上の作品を書いています。成瀬巳喜男監督の映画では昭和30年の『くちづけ(第三話)』、昭和35年の『娘・妻・母』、昭和36年の『妻として・女として』、昭和37年の『女の座』と四作品で脚本を書いていますが、『くちづけ』は石坂洋次郎原作の脚色で短編でしたし、残りの三作はともに井手俊郎との共作ですので、オリジナルで一本の作品を提供したのはこの『乱れる』がはじめてということになります。
成瀬巳喜男は松竹蒲田撮影所長だった城戸四郎から「小津は二人いらない」といわれて、新興のPCLに移籍して、PCLが東宝となった以降は、戦後の東宝争議のときや大映で撮った『稲妻』以外はほとんど東宝で映画を撮り続けました。その最高傑作が現在でも日本映画ベストテンをやると必ず上位にランクされる『浮雲』なわけですが、昭和30年代には東宝で女性が主人公の作品といえばほとんどが成瀬作品になるのではないかというほど一貫して女性の生き方を描いてきた監督でした。
その際に主役を演じたのが高峰秀子。昭和30年の『浮雲』から本作まで成瀬巳喜男が作った18作品のうち12本に出演しているほど、成瀬から厚い信頼を寄せられた女優で、高峰秀子も自分の半生を綴った「私の渡世日記」でいちばん最後に成瀬巳喜男との思い出を語るほど成瀬巳喜男に尊敬の念を抱いていたようです。もちろん作品によってさまざまな女性像を演じ分けるわけですけど、本作では結婚してわずか半年で夫を亡くしてしまい、その後18年に渡って夫の実家の家業をひとりで支えた未亡人という役柄をしっとりと表現しています。
相手役の加山雄三は昭和36年に『大学の若大将』に主演すると「若大将シリーズ」が東宝の興行成績を支える大ヒットとなり、「若大将」「クレージー」「社長」の三大シリーズは東宝の懐を大いに潤すことになりました。そんな「若大将シリーズ」も昭和38年の第四作『ハワイの若大将』が公開された後は二年間のブランクに入ります。なぜかといえば黒澤明監督の『赤ひげ』の主人公保本登役に加山雄三が起用されたからで、黒澤組に出演する間は他の仕事はさせられないからでした。というふうに認識していたのですが、なんとこの『乱れる』は二年間のブランクの真っ只中に製作されていまして、『ハワイの若大将』の5ヶ月後に公開されています。この後もう一本『恐怖の時間』という岩内克己監督の6巻物に出て、1年2ヶ月の間を置いて『赤ひげ』が公開されますので、本作製作時にはまだ『赤ひげ』だけに時間を拘束される段階ではなかったんでしょう。なので「若大将」と『赤ひげ』の中間点にある作品だというのが正しい認識のようです。
キャメラマンの安本淳は日活出身で設立と同時に東宝に移った人です。日活時代には京都で時代劇を多く担当していたようで、東宝では稲垣浩監督の『宮本武蔵』を撮る一方で、豊田四郎監督の『雪国』や『暗夜行路』などの文芸ものもこなしています。成瀬巳喜男とは『娘・妻・母』から本作までのすべての作品でキャメラマンを任されておりますので、女性映画を撮り続けた成瀬を映像面で支えたのが安本淳だったといえるでしょう。
【ご覧になった後で】ラストショットの高峰秀子の表情だけの演技に尽きます
いかがでしたか?本作の底流をなしている「嫁ぎ先の歳の離れた弟との恋愛は許されない」というモラルは昭和39年当時はまだ切実な問題だったんでしょうけど、現在的な目で見ると「なんでそんなこと気にするの?」という感じに見えてしまい、世の中の恋愛における倫理観が大きく変わってしまった今となってはなかなかもどかしい展開に思えてしまいましたね。そもそも夫を18年前に亡くしているのですから高峰秀子は自由に恋愛する権利もありますし、加山雄三と再婚しても誰も文句を言う筋合いのものではありません。さらに本作では姉の草笛光子が「家を継ぐのは幸司だ」と言って、家督相続とか長子承継とかいった昔の因習に縛られた考え方を母親に押し付けようとします。女性であるにも関わらず長女が率先して旧弊な価値観を疑わないという設定ですので、どう見ても本作の基本設計に共感することができませんでした。
そのうえ当の高峰秀子演じる礼子がその旧い考え方に自ら押しつぶされようとするかのように義弟の加山雄三への恋情を押し殺してしまうんですよね。これが見ていて本当にストレスで、なぜもっと自分の気持ちに素直になれないのかと思ってしまいますし、そんな高峰秀子のことを応援する人物が誰一人現れないのも本作の八方塞がり感を助長していました。浜美枝あたりがその役割をするのかと思ったら、ワンシーンだけの特別出演みたいなもので単なる愛人としてしか出てきませんし、白川由美の次女もどうせなら長女に反対する進歩的な女性であってほしいところなのに姉に追従するだけの存在で、あれならわざわざ次女を出す必要ないじゃないスかね。
それもまあ高峰秀子と加山雄三がたまたま逃避行的な旅に出るという終盤の展開を盛り上げるためのものだったわけですが、あえて商店街の場面をストレスフルに見せておいたおかげで温泉宿のシークエンスは静かな炎のようにメラメラ燃え上がるようでした。そしてついに姉は義理の弟に心も身体も許すのかという間際になって、その腕を振りほどき両手で顔を覆って泣き出してしまうのです。この絶望的拒絶感というか奈落的倫理観というか、加山雄三からしてみたら一線を越えることなんてとてもできないくらいのショックでしょう。事故死なのか自死なのかわかりませんが、酔っ払って絶望の末に死んでしまう幸司のシチュエーションも納得という展開になります。
そしてあのラストショット。着物姿で髪を振り乱して走る高峰秀子の先に加山雄三の遺体が運ばれ、その姿をじっと見据える高峰秀子のクローズアップで映画は終幕となります。この高峰秀子の顔の表情による演技、これは高峰秀子にとっても一世一代の名演技だったのではないでしょうか。加山雄三の死が嘘ではなく目の前にある現実だと知り、最愛の男性が死んでしまった悲しみに襲われ、その死は自分が拒絶したことが原因であることに気づき、だとしたら自分はこれ以上生きてはいられないと悟り、加山雄三がいないならもう死んでしまおうと決心する。一切セリフもないこのラストショットの表情だけで、観客は「ああ、この女は死ぬんだな」とわかってしまうのです。急転直下の展開で、横移動の激しいショットをはさみ、フィックスのキャメラが高峰秀子の表情をクローズアップでとらえるという、映像表現だけで、恐ろしく雄弁に礼子の心情を語ることができるのですから、やっぱり成瀬巳喜男の演出は女性を主人公にしたときに最高のキレ味を見せたのでした。
逆に映画の大半を占める商店街の場面は、シーンごとの区切りをフェイドアウトで終わらせる成瀬巳喜的リズムの繰り返しで、やや冗漫な感じさえします。ここは充実した脇役陣の演技で間がもっているような感じで、十朱久雄や佐田豊、柳谷寛(「ウルトラQ」の「あけてくれ!」の人ですね)、中北千枝子、藤木悠、西条康彦(「ウルトラQ」の一平くんですな)などを見ているだけで重たい展開を忘れさせてくれました。
ちなみに商店街の脅威となるスーパーマーケットはアメリカでは第二次大戦前に業態として確立されていて、1950年代には郊外のショッピングセンターの核店舗として全米にチェーン展開されていました。日本におけるスーパーマーケットの第一号店は昭和27年に京阪鉄道が開いた「京阪スーパーマーケット」だといわれているようで、駐日米軍向けPXでスーパーマーケット業態を学んだ商人たちが昭和30年代に紀ノ国屋や主婦の店ダイエーという店舗チェーンを全国展開することになりました。本作は昭和39年の清水市という設定ですので、地方の小都市でも当たり前にスーパーマーケットが小規模ながらも出店していたことになりますし、当初は「スーッと来てパーッと消える」と揶揄されていたスーパーマーケットはやがては「スーパー」という略称で全国の商店街をシャッター街に変えていくのでした。
映画は北に向かう列車のシークエンスになってやっと動き出しますけど、ここでの加山雄三の位置の変化が面白かったですね。最初はちょっと離れたところで立っていて、次のショットでは離れた席に反対向きに座っていて、次第に座る位置が近づいて、やがてボックス席に対面して座り、最後には横並びになります。二人の距離の縮まり方が心が近づき通い合っていくプロセスになるわけで、心情を見事にビジュアル化していたと思います。同時に東から北へ向かうにしたがって、徐々に乗客が少なくなり、人里離れた寒村に向うわびしさのようなものもわかりやすく表現されていました。
しかしながら加山雄三は黒澤組で絞られる前ですので、まだ「若大将シリーズ」の田沼雄一そのまんまでちょっと笑えてしまうようなところもありました。「姉さんが好きだ」と言うのが「澄ちゃんが好きだ」とほとんどテンションが変わらない感じなので、加山雄三という人はいつでもどこでも加山雄三だったんだなと思わされました。やっぱり俳優というよりは強烈なオリジナリティを持ったタレント(才能)が加山雄三の本分だったのではないでしょうか。(U021823)
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