悪魔の美しさ(1950年)

ゲーテの「ファウスト」をルネ・クレールが風刺を利かせて映画化

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ルネ・クレール監督の『悪魔の美しさ』です。第二次大戦中、ハリウッドに渡っていたルネ・クレール監督は1947年『沈黙は金』でフランス映画界に復帰しました。ルネ・クレールが復帰第二作に選んだのが古典的名作「ファウスト」の映画化。ジェラール・フィリップを主演に起用し、ゲーテの原作を自由に翻案していて、風刺を利かせながらも幻想的・空想的な雰囲気の作品に仕立て上げました。日本で公開された1951年にはキネマ旬報ベストテンで第6位に選出されています。

【ご覧になる前に】メフィストを演じるのはミシェル・シモンです

召使が実験室の掃除をしている窓の外には呼び込みをするサーカス一座の馬車が走ります。その光景を見下ろす大学で学長から表彰されているのはファウスト教授。実験室に戻った老教授は召使が出す夕食を前にしても食欲が出ません。その夜、ファウスト教授の前に学生アンリの姿になって大魔王の手下メフィストフェレスが現れます。魂を売ってくれれば若さを取り戻してあげると誘うメフィストは、教授と自分の身体を入れ替えてしまいました。青年の姿になった教授は居酒屋でたらふくワインを飲み、サーカス一座の娘マルグリットに自分が青年に見えるか確かめるのでしたが…。

1898年にパリで生まれたルネ・クレールは第一次大戦後にジャーナリストをしていたときにシャンソン歌手と知り合ったことから映画に出演することになりました。ベルギーのブリュッセルで映画技法を学んだクレールは1924年に『踊る巴里』で映画監督としてデビュー。1930年『巴里の屋根の下』、1931年『自由を我等に』、1932年『巴里祭』と続けて作品を発表したクレールは、フランスを代表する監督としてその存在を認められるようになります。

1935年にイギリスに渡って『幽霊西へ行く』を監督したクレールは、ハリウッドに渡って『そして誰もいなくなった』(1945年)などを作りますが、ナチス支配下のヴィシー政府から国籍を剥奪されてしまいます。大戦後の1947年にフランスに復帰したクレールが最初に発表したのが『沈黙は金』で、この『悪魔の美しさ』はフランス復帰後二作目の作品となりました。

「ファウスト」は、ドイツに伝わるファウスト博士の伝説をもとにしてゲーテが生涯をかけて書き上げた長編の戯曲です。ファウスト博士が悪魔の手下メフィストフェレスから死後に魂を渡すという契約を交わして、若さを取り戻して現世での快楽を得るというストーリーラインは、多くの芸術家に多大な影響を及ぼしてきました。ワーグナーやリストなどの音楽家たちは「ファウスト」を交響曲やオペラで表現していますし、映画ではドイツのフリードリヒ・W・ムルナウ監督が1926年に『ファウスト』を発表しています。日本ではマンガ界の巨匠手塚治虫が何度もマンガ化していて、中でも死の間際まで執筆していた未完の「ネオ・ファウスト」が有名ですよね。

ルネ・クレールが映画化にあたってメフィストフェレス役に起用したのがミシェル・シモンでした。舞台の喜劇俳優として活動していたミシェル・シモンは、1920年代からサイレント映画に出演するようになり、トーキーの出現とともに独特のしゃがれ声が重宝されます。ジャン・ルノワールやジャン・ヴィゴ、マルセル・カルネの作品に出演を重ね、日本ではこの『悪魔の美しさ』が代表作として知られています。

ジェラール・フィリップは1947年のクロード・オータン・ララ監督『肉体の悪魔』でその人気に火がつき、1948年の『パルムの僧院』と1950年の本作で着実にキャリアを積み重ねていた時期。1951年の『愛人ジュリエット』と1952年の『花咲ける騎士道』で世界的な人気男優になったジェラール・フィリップは1953年に来日、東京・大阪・京都で開催された「フランス映画祭」を盛り上げました。

【ご覧になった後で】鏡を使って自分の将来を目撃する演出が見事

いかがでしたか?火事で焼ける前の京橋フィルムセンターで上映されたのを学生のときに見に行っoて以来の再見で、もちろんどんな映画だったかはすっかり忘れていて、「ファウスト」の翻案ものだというのも見る前に下調べしたときにあらためて知った次第でした。下調べというのは上映時間が短い映画のほうがいいなと探す癖がありまして、ちょうど1時間半を切る短尺作品なら午後の暇つぶしに適当だろうと見始めたわけです。しかし目を開けているのがやっとというくらい、映画世界に入り込むことができず、ひたすら映画が終わるのを我慢して見ていたというのが正直なところでした。

それは「ファウスト」そのもののせいかもしれず、ゲーテの原作も学生の時に読みましたけど、こっちも同様になかなか読み進めることができず、字面を追うだけのむなしい読書時間を費やして大長編小説を読了したという苦い経験しかありません。老人が悪魔に死後の魂を渡す代わりに若さとともにありとあらゆる快楽を得るという設定は、あまた多くの芸術家たちを惹きつけたのと同じく、読み手にとって非常に魅力的なものに映ったのでしたが、結局その一行にまとめられたテーマのみに魅力が詰まっていて、長々とした小説はテーマに集約されるための部品にしか過ぎないという印象しか持てませんでした。

よって本作を見てもその印象から逃れることはできず、確かにミシェル・シモン演じるメフィストフェレスは映像化されたメフィストとしては最高級ランクの個性があったと思いますし、ジェラール・フィリップのファウストも外面だけでキャラが立つくらいの究極の美青年ぶりで良かったのですが、なんとも1時間半が長く感じられて、早く終わんないかなあと時計ばかりを気にして見るハメになってしまいました。

そんなつまらない本作の中の唯一の見どころは、ミシェル・シモンがジェラール・フィリップに未来を見せる場面でした。ここでは鏡が非常にうまく使われていて、部屋で対峙するシモンとフィリップが普通に鏡を覗き込む数ショットがあった後に鏡の中に映るジェラール・フィリップの顔と手前に立つその後ろ姿をひとつの画角にとらえた映像が出てきます。その立ち姿にちょっと違和感があるなと思った次瞬間、手前のジェラール・フィリップは不動なのに鏡の中のフィリップだけが動き出し、部屋から出て行ってしまうのです。つまり鏡の中の世界を現実と鏡を使って切り離したトリック撮影なのでした。

これが非常に効果的で、たぶん壁にかけた鏡の内側が切り抜かれていて、壁の向こうにスタジオセットを組んで撮影したんでしょう。立ち姿は後ろ向きなのでスタントマンで十分ですから、鏡の中すなわち隣のセットでジェラール・フィリップは未来の自分を演じれば良いというわけです。こうしたトリックの間に本当に鏡で正対するショットをインサートしたりして、トリックをトリックと思わせない見せ方をしていたところにルネ・クレールの映像術が発揮されていました。

それ以外が凡庸に感じられたのは、ほとんど舞台を見ているようなミディアム~フルショットの単調な羅列で、しかも時制や場に工夫がないからでしたし、主役の二人以外にスパイスの利いた登場人物がいないからでした。加えて老ファウスト教授として登場するミシェル・シモンが身体を入れ替えてメフィストフェレスになって以降、メフィスト=ミシェル・シモンのままエンディングまで変わらないので、体を入れ替えたとか魂を売り渡したとかの「ファウスト」ならではの仕掛けが全く活かされていないのも非常に残念でした。ラストシーンも当初メフィストとして登場するジェラール・フィリップが若さを取り戻したファウストのままサーカス団の娘と去っていくことになっていて、魂を売り渡す契約はなんだったのかとがっかりしてしまいます。ちなみにミシェル・シモンが契約書を窓から落としてしまって大慌てするのも、契約書の紙きれがないと身体の交換や魂の受け渡しが無効になるように見えて、非常に陳腐に感じられました。

というわけで低評価な映画だと思ったのですが、意外なことに双葉十三郎先生はなんと☆☆☆☆★のほぼ最高点をつけていて、「滑稽にして悲劇的な悪魔の最後をよそに嬉々として旅立ってゆく若い二人の姿は、ハッピーエンドというより諷刺的結末である」「この作品が古今数多いファウスト物語の中で最も人間的な作品である」などと褒めちぎっています。たぶんゲーテの「ファウスト」を深く理解しているからこその高評価なのだと推測しますが、双葉先生のような洞察力をもって見ることはなかなか難しいルネ・クレール作品ではありました。(A100525)

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