緋牡丹博徒 お竜参上(昭和45年)

藤純子主演「緋牡丹博徒」全8作の第6作でシリーズ最高傑作と言われています

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、加藤泰監督の『緋牡丹博徒 お竜参上』です。やくざ映画をジャンルとして確立したのは東映ですが、人気が高まると同時に他の大手映画会社がやくざ映画ジャンルに進出し始めます。中でも大映が江波杏子を主演に起用した「女賭博師シリーズ」は大ヒットを記録し、本家本元の東映では岡田茂社長が女を主人公にしたやくざ映画を作れと大号令をかけました。そこで出来上がったのが藤純子が矢野竜子を演じた「緋牡丹博徒シリーズ」。全8作品が作られたシリーズの中でも本作は屈指の名作として呼び声が高く、最高傑作のひとつに数えられています。

【ご覧になる前に】加藤泰監督のローアングル長回しに藤純子がキレたとか…

明治末期、遊郭で目の病を抱えた遊女の身元を確かめているお竜こと矢野竜子は、生き別れとなった姪のお君を探し出して目の治療をさせてやりたいと諸国を探し回る旅を続けています。渡世人の青山からの情報を頼りに浅草の鉄砲久の親分を訪ねたお竜は、そこで仲間とともにスリを稼業としていたお君と再会を果たし、事情を察した鉄砲久の親分はお君を六区の佐藤一座の座員にして養女に迎えます。お君に思いを寄せる銀次は鉄砲久と対立する鮫洲政一家の子分ながらお君と夫婦になる約束を交わしますが、鮫洲政は鉄砲久に佐藤一座の興行権を渡せと要求してくるのでした…。

藤純子の父親・俊藤浩滋は鶴田浩二を東宝から引き抜いた功績が認められて、東映のプロデューサーになった人。ほとんど家にも帰らず子供の世話は妻と母親任せにしていたのですが、その俊藤の娘が藤純子で、松竹のカメラテストを受けたついでに東映京都撮影所を訪問した際、マキノ雅弘に見込まれて女優の道を歩むことになりました。父親の俊藤浩滋は娘が東映に入ることに猛反対したそうで、しかし結果的に時代劇でデビューし任侠映画で高倉健の恋人役などの脇役をつとめていた藤純子が、岡田茂社長の指名によって女性を主人公にしたやくざ映画の主人公に抜擢されることになったのでした。

岡田茂社長自らが企画し題名や主人公の名前を命名して、鈴木則文に脚本化させた映画は「緋牡丹博徒シリーズ」として人気を博すことになり、「緋牡丹のお竜」を演じた藤純子は東映の大スターになっていきます。このシリーズは昭和43年に始まり昭和47年まで続きますが、藤純子はNHKの大河ドラマ「源義経」で静御前を演じた際に共演した義経役の尾上菊五郎(当時は菊之助)と結婚することになり、昭和47年に『関東緋桜一家』を引退記念作品として映画界からきっぱりと引退してしまいます。本作は昭和45年製作の第6作にあたりますので、藤純子が最も脚光を浴びていた絶頂期の出演作品といえるでしょう。

監督の加藤泰は第3作『緋牡丹博徒 花札勝負』ではじめてこのシリーズのメガホンをとり、本作に続く第7作『緋牡丹博徒 お命戴きます』も監督しています。加藤泰は床面すれすれのローアングルを得意としていて、室内であれば畳から、屋外であれば道路を掘り返して路面からキャメラを構えさせるほどにローアングルにこだわりをもっていました。そのローアングルの構図を維持してシネマスコープの横長画面をいっぱいに使って俳優たちに演技をさせるので、必然的にワンショットワンシーンに近い長回し撮影が多くなっていきます。その長回し撮影が納得いくまで繰り返されるので、藤純子はいつまでもOKが出ずに業を煮やしてキレてしまったこともあるとかないとかで、藤純子からするとシリーズの監督の中では加藤泰は自分とは肌の合わない監督だったようです。

キャメラマンは赤塚滋という人で、東映京都撮影所での仕事しかしていませんでしたが、「緋牡丹博徒シリーズ」を撮ったのは本作のみとなっています。加藤泰と組んだのも本作くらいしかないようですから、加藤泰としては自分の指示通りにキャメラを構えてくれれば、回すのは誰でもよかったのかもしれません。

【ご覧になった後で】スタイリッシュな映像と俳優の凄みで成立していました

いかがでしたか?実は「緋牡丹博徒シリーズ」自体を初見で見たのですが、高倉健や鶴田浩二の任侠ものとはかなり肌触りが違っていて、これほどまでにスタイリッシュでクールな作品だとは思ってもみませんでした。ストーリーは任侠ものらしくウェットな義理人情をベースにしていながら、描き方は非常に客観的で、登場人物たちに感情移入させないような突き放したドライさが際立っていました。

その肌触りを支えていたのが、加藤泰の長回しでしょう。横長画面がひとつのステージのように見立てられ、横幅と奥行きを十二分に活用しながら画面内に大勢の俳優たちを配します。その中でスポットライトを浴びるべき俳優が次々に移り変わり、その人物に観客の目を引き付けておいて、同時にスポットライトが当たらない他の俳優たちはひたすらそのキャラクターになり切ってその場のエモーションに沿った演技を継続します。藤純子が山岸映子をお君だと気づく場面は、ひとつのアートともいえるような完璧な長回しショットになっていて、まさに白眉の出来栄えでした。

そして藤純子を取り巻く男優たちがそれぞれ極端にティピカルなキャラクターに研ぎすまされていて、見ていて大変わかりやすいというかシンプルにエモーションが伝わってくるというか、変にこねくり回さないところが逆にスタイリッシュな構成に合致していたように思われます。無口な渡世人の菅原文太はひとつひとつの所作がやくざ映画の型を見せるような様式美を感じさせますし、嵐寛寿郎の鉄砲久の親分は義理人情を重んじる正義のやくざの典型、安部徹の鮫洲政は強欲に利権だけを追う悪徳やくざの典型と、正反対の二人の親分の対照性がこれまたコインの表と裏のような効果を出していました。

加藤泰の演出は観客の視線を自由に操るような支配力を持っていて、大画面の中でもここだけをピンポイントで見なさいというような感じで観客に注視させるんですよね。画面いっぱいのクローズアップショットを多用するのも、表情以外のものを一切見させないという表現方法ですし、逆に画面の中央にボケたお君を大きく映し、隅の方にピントがばっちり合ったお竜を配置して、すべての観客が画面の片隅だけを見るようにするなんていうのも、監督が振るタクトの通りに観客の視線が一点集中する演出法でした。

そして極め付きは明治の浅草の雰囲気でしょうか。9階建てだったという凌雲閣の効果的な使い方は、クライマックスまで一貫していましたし、佐藤一座の小屋の雰囲気も稽古の場面での声の響き方の違いなどが実にリアルに空間の広がりを感じさせました。さらには雪の今渡橋で藤純子が菅原文太に渡すみかんがコロコロと転がる場面。白と橙色のコントラストと同時に、動と静が混然一体となった名場面になっていました。お竜の顔が流れるようにして一瞬止まるストップモーションが短く映し出され、そして凌雲閣を背景にした佐藤一座が朝焼けに輝く浅草で終わるラストシーンは、加藤泰のスタイルが貫かれた東映任侠ものを代表する作品にふさわしいエンディングだったのではないでしょうか。(Y121522)

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