医学者永井隆の手記を元に藤山一郎が歌ったレコードを松竹が映画化しました
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、大庭秀雄監督の『長崎の鐘』です。長崎医科大学物理的療法科の永井隆助教授は、白血病と闘いながら原爆投下後の長崎で被爆者の治療にあたり、四十三歳で亡くなりました。永井助教授が残した手記をモチーフにした歌謡曲は、歌手藤山一郎が歌い大ヒットを記録。すると早速松竹が映画化することになりましたが、GHQ占領下の日本では原爆を題材にすることはタブーとされていたため、永井助教授の生涯を描くという手法をとることによってGHQの検閲をくぐり抜けることができたと言われています。
【ご覧になる前に】新藤兼人に加えて橋田壽賀子が共同脚本に加わっています
長崎の料亭の座敷でドイツ語の歌を唄って騒いでいるのは医科大の学生たち。卒業前のクラス会で永井は内科を、山下は外科を目指すと会話を交わし、雨に濡れて永井の下宿に帰ります。家主は敬虔なクリスチャンで娘の緑がお祈りを捧げているときに頭痛を訴えて倒れた永井は、気がつくと病床にいて急性中耳炎で聴力が完全には戻らないことを知ります。内科を諦め物療科に配属され、朝倉教授のもとでレントゲン医療の研究にのめりこんでいく永井を見て、看護師の山田幸子は転属を断って永井とともに働くことを決意するのですが、日中戦争が勃発して永井も前線医として召集されていくのでした…。
昭和26年に四十三歳の若さで亡くなった永井隆は、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の物理的療法科(レントゲン科)での勤務を通じX線検診での散乱放射線被爆が原因となり白血病を発症していました。余命3年の宣告を受けた永井は、昭和20年8月9日長崎への原爆投下で右側頭動脈切断という重傷を負いながら被爆者の救護活動に当たり、その合間をぬって帰宅し自宅で亡くなった妻・緑の骨片を拾い埋葬したといいます。病床で研究や随筆などの執筆活動を続け、昭和21年には「原子病と原子医学」という研究発表を行っていますから、原爆の被害に遭いながらも原子力の利用については科学者の立場から肯定的に捉えました。また、随筆では「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」などとともに「長崎の鐘」を残し、昭和58年には木下恵介監督が『この子を残して』を映画にしています。
この永井隆の著作をもとにサトウハチローが書いた作詞に古関裕而が曲をつけて出来上がったのが歌謡曲「長崎の鐘」でした。長崎だけでなく戦災被害者を悼み復興への希望が込められた歌詞を唄ったのは藤山一郎で、戦前から「東京ラプソディ」や「上海夜曲」などのヒット曲を連発した日本歌謡界のトップ歌手でした。「長崎の鐘」を歌ったことで永井隆と交流を持つようになった藤山一郎は、永井に「新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘」という短歌を贈り、「長崎の鐘」と曲をつけた「新しき朝」はセットで歌われるようになっていきました。
「長崎の鐘」のレコードがヒットすると、映画化権を取得した松竹は、脚本を新藤兼人らに任せることにしました。昭和26年当時の新藤兼人は、松竹から押し付けられた企画を脚本にする仕事に見切りをつけ、自分たちの意思で自ら映画を製作する体制づくりに邁進していて、吉村公三郎や殿山泰司らと近代映画協会を設立したばかりの頃。本作と同じ月には近代映画協会第一回製作の『戦火の果て』が大映の配給で公開されています。たぶんそんな状況だった新藤兼人はひとりで脚本を書き上げられなかったのではないかと思われ、共同脚本家として光畑碩郎と橋田壽賀子がクレジットされています。光畑碩郎はそんなに多くの作品を残していない一方で、橋田壽賀子は『新妻の性典』に続きプロ脚本家として二作目の仕事がこの『長崎の鐘』で、松竹ではなくTV業界に移ってTVドラマの大御所シナリオライターになっていくのでした。
監督の大庭秀雄は、昭和14年に松竹大船撮影所で監督に昇格し、松竹の王道であるホームドラマを作ってきた人でした。本作や『帰郷』などで確かな手腕を見せた後、昭和28年に監督した『君の名は』三部作は日本中に一大ブームを巻き起こし、松竹は東銀座に新社屋を建設することになります。キャメラマンの生方敏夫は蒲田撮影所時代からの松竹育ちで、島津保次郎の『兄とその妹』や吉村公三郎の『暖流』などでキャメラを回した人。本作の翌年には東宝争議で松竹にやってきた黒澤明の『白痴』の撮影をやることになります。そして音楽はもちろん古関裕而。メジャー映画会社各社で、恋愛ものからドタバタ喜劇まで幅広いジャンルの映画に大量に音楽を提供していますので、音楽家にとって映画音楽は恰好の副収入の場になっていたことが想像されます。
【ご覧になった後で】永井隆を演じる若原雅夫が静かで実直な印象を残します
いかがでしたか?1時間34分のちょうどよい尺だということもあり、非常にすっきりとしっとりと見ることができました。永井隆という人の存在は全く知らなかったのですが、本作を見るとその清廉な生き方や周囲の人への思いやり、信仰の道に入って行く心情などがじんわりと伝わってきました。これは新藤兼人らの脚本家チームの成功だと思われ、戦後すぐの日本映画に多いのはストーリーを思うように展開させたいがために登場人物が一貫性を持たなくなるという欠点でした。本作は永井隆や妻のみどり、看護師の山田幸子などの主要登場人物がそれぞれの立場ならこう言うだろうなとかそういう行動を取るよなという納得性があって、ストーリーと登場人物がしっかり組み付き、矛盾がありません。そんなの当たり前じゃんという意見もあるでしょうけど、そんな基本的なことが出来ていない映画が結構あるので、本作は安心して登場人物に感情移入できる作り方がされていたと思います。
そう思うのも最近双葉十三郎先生の日本映画評論を読んでいたからで、洋画専門評論家と思われている双葉十三郎は実はめちゃくちゃ日本映画も見ていて、特に戦後すぐの時代には多くの日本映画評を残しています。昭和23年から25年にかけて雑誌「映画芸術」に連載していた「日本映画月評」を見ると、大半の日本映画をボロクソにコキ下ろしていて、その主な理由が上記のようなストーリーと人物の乖離なのです。その双葉十三郎が本作に対しては「甘いことは甘いがとにかくまとまりもよく、感激させる場面もある。今日の日本映画では珍しいことと云わなければならない」とかなり好意的にコメントしています。
現実においても、本作が完成すると病床にいた永井の自宅の庭に特製の布スクリーンを張って、特別野外上映会が永井家のために行われたという感激的なエピソードが残されています。寝たままで鑑賞した永井隆は、映画に映し出された長崎の光景や自分自身の半生を見て感激し、そのようなプライベート上映会を開いてくれた松竹の厚情に感謝の気持ちを伝えたんだとか。松竹にも粋な人がいたんですね。
まとまりがよいのは良質な素材を選んで、まともな脚本を得て、オーソドックスな演出がされているからなわけですが、個人的には主人公永井隆を演じた若原雅夫が見事にハマっていたことが作品全体に大いに貢献していたと思います。序盤に急性中耳炎で聴診器を操る内科医になれないことを知る場面では泣くでも喚くでも絶望するのでもなく淡々と突発的な事故を受けとめ、放射線科に配属になってからは新しい命題を与えられたかのように仕事に没頭していきます。そうした姿が実に自然に演じられ、人生のトランジションを静かに受容する実直な感じが伝わってくるのです。看護師山田幸子の好意に気づきながらも本人のキャリアを思いやり、戦場体験を通じて信仰の道に入ると同じクリスチャンのみどりを娶るという展開も、そうなるよなあと観客は納得して見ることができます。白血病、原爆と悲運に見舞われ、幼い子どもたちが「おかあちゃんのお墓に行こう」という場面は思わず泣かされてしまいましたので、それもこれも若原雅夫のナチュラルな存在感が観客の胸に浸透していたからではないでしょうか。
若原雅夫は新興キネマから大映で活躍した二枚目俳優で、昭和24年に松竹と5年契約を交わして松竹専属の男優となりました。本作の後には木下恵介の『カルメン純情す』で芸術家のダメ男を演じたほか、大ヒットした三島由紀夫原作の『夏子の冒険』でも主役をやっています。しかし松竹との契約が切れてフリーになってからは、作品に恵まれずTV出演がメインとなり、いつのまにかエンタテインメント業界から姿を消してしまったそうです。
若原雅夫にからむ月丘夢路は、ソフトフォーカスの映像の印象も加わってどことなく聖母マリア的な近寄りがたさを感じさせますが、かたや山田幸子を演じた津島恵子の健康的で奥ゆかしい恋心には、同情を寄せないわけにはいきません。はっきりとしたセリフがあるわけではなく、幸子の言動にも永井への愛情はひとつも表現されていませんが、シチュエーションと津島恵子の表情だけで観客全員が幸子の実らぬ恋に応援を送りたくなってしまいます。このキャラクターはおそらく映画において創造された人物だと推測されますが、非常にうまく有機的にストーリーにからんでいるので、映画ならではのサブストーリーが別の旋律を印象的に奏でるようでした。
唯一不満を言うのなら、永井の死を予感させるところで幼い二人の子どもの行く末を安心させるようなセリフなり暗示なりを入れてほしかったですね。映画の終わり方のままなら、確実にあの兄と妹は悲惨な孤児人生を歩まねばなりません。なにしろ映画では実際の永井隆がヘレン・ケラーや昭和天皇と会ったりしていたような注目を集めた人物であるというようには描かれていないわけですから、誰かの支援があるとは思えないのです。なのでみどりの親戚でも近所の親しい隣人でもよいのでは、「子どもたちのことは心配せんでもよか」とかなんとか言ってくれる人物を挿入してほしかったというのが、ほんの少しの不満部分でした。(Y100924)
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