ゴダールの長編10作目でヌーヴェル・ヴァーグの到達点ともいえる作品です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ジャン・リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』です。ゴダールは長編第一作の『勝手にしやがれ』でフランソワ・トリュフォーとともにヌーヴェル・ヴァーグの寵児となりましたが、物語志向を強めていくトリュフォーに対してゴダールは映像の感覚を追求するスタンスを貫いていました。そして長編10作目にあたるこの『気狂いピエロ』は、ヌーヴェル・ヴァーグが到達したひとつの頂点ともいえる映画史的に瞠目すべき作品となりました。もちろんそれは映画史的な見方であって、観客にとってどうなのかといえば議論百出となることは間違いないでしょう。
【ご覧になる前に】主演はゴダールと離婚した直後のアンナ・カリーナです
フェルディナンはバスタブの中でエリー・フォールの美術史を娘に向って朗読しています。イタリア人富豪を父にもつ妻はベビーシッターを呼び、夫婦揃ってパーティに出かけますが、フェルディナンはアメリカの映画監督と会話しただけでひとり帰宅します。玄関にいたベビーシッターは実はフェルディナンの昔の恋人マリアンヌで、二人は車に乗ってマリアンヌの家に向います。部屋にはハサミが首に刺さった男の死体があり、さまざまな武器が置かれていて、テロリストに追われているマリアンヌはフェルディナンとともに車で逃走の旅に出たのですが…。
デンマークのコペンハーゲンで生まれたアンナ・カリーナはパリに移ったのち1960年に『小さな兵隊』でゴダールに抜擢されてフランス映画界にデビューしました。ゴダールと結婚した1961年には『女は女である』に主演し、以降も『女と男のいる舗道』『はなればなれに』『アルファビル』でゴダール作品の主演女優として活躍していきます。アンナ・カリーナとゴダールは共同で「アヌーシュカ・フィルム」という映画製作会社を設立しましたが、1965年に離婚しました。この『気狂いピエロ』は離婚と同じ1965年に製作・公開されていて、時期的に微妙なのですが離婚のほうが先のようなので、本作は出演はゴダールとの離婚直後だったことになります。アンナ・カリーナはその後も『メイド・イン・USA』や『未来展望』とゴダール作品には出演し続けていますから、プライベートとは別に監督と女優という職業上の関係は維持されていたようです。
ヌーヴェル・ヴァーグの中でも特にゴダールが映画史上最も重要な映画作家だということに異論を唱える方は少ないのではないでしょうか。というのもヌーヴェル・ヴァーグの作家たちといえどもストーリーをもったシナリオを映画製作のベースにしていたわけですが、ゴダールだけはあらかじめ決められた台本や準備なしで、撮影の現場で即興的にさまざまなアイデアを組み合わせてキャメラを回し、さらには現像したフィルムを自由に編集して、枠にはまることなく純粋に映像のインパクトを最優先した映画を作ったからでした。『勝手にしやがれ』でバイクに乗った警官からピストルを奪う場面でのイメージの連続のような表現は当時に映画界においてはまさに革命的で、エイゼンシュテインが確立したモンタージュ理論を根底から覆すような作品だったのです。もっともアンナ・カリーナによるとゴダールは完璧主義者で実際は細部まで周到に計画して撮影にのぞんでいたらしいですけど。
この『気狂いピエロ』はそんなゴダールの映画作法が頂点に至った作品といわれていて、ヌーヴェル・ヴァーグを語る際には欠かすことのできない重要な位置を占めています。カラー映画としての特徴を存分に活用して、原色を多用しカラフルな広告や看板を引用しています。キャメラマンは『勝手にしやがれ』以来ゴダールの盟友でもあるラウール・クタールで、南フランスの強烈な光が横溢する映像が特徴的です。またこの映画はフランス・イタリア合作になっていまして、フランス側のプロデューサーであるジョルジュ・ド・ボールガールも『勝手にしやがれ』以降のゴダール作品のプロデューサーを続けた人。一方でイタリア側はディーノ・デ・ラウレンティスで、フェリーニの『道』などを世に送り出したイタリアを代表するプロデューサーでした。1970年代にはハリウッドに進出して『キングコング』のリメイクなんかにも挑戦するようになる大立者のひとりです。
ジャン・ポール・ベルモンドは言うまでもなくフランス映画界最高のスターですが、ヌーヴェル・ヴァーグ作品に出演してから1960年代にはもう大スターの地位を確立していました。1965年には『カトマンズの男』にも出演していてアクション映画で躍動しているのですが、同時にゴダール作品でまったく違った役を演じ分けていて、俳優としての演技の地力を見せています。もともとゴダールは主役の二人にリチャード・バートンとシルヴィ・バルタンをあてて全編英語で作ろうとしたそうですが、シルヴィ・バルタンに断られていまい、ベルモンドとアンナ・カリーナに落ち着いたのだとか。困ったときに助けてくれたのがアンナ・カリーナだったんですね。
【ご覧になった後で】アート志向の強い20代までの人たち向けの映画でした
いかがでしたか?かつては映画館とTV放映でしか映画が見られなかった時代でしたので、この『気狂いピエロ』は映画ファンの間では1967年の日本公開以降はほとんど見る機会がなく、半ば神格化されていたのですが、1983年に当時のフランス映画社がやっていたBOWシリーズという企画に取り上げられて劇場公開されました。で、大学生のときに本作を初見してやっと見られたという満足感に浸ったのですが、その十数年後になって再見したときは、初見よりも感動の度合いが強くゴダールにしか作れない本作の独自性に触れたような感想をもちました。そして今回三度目の鑑賞で超久しぶりなので期待して見たのですが、実は途中で眠気をおさえながらやっと目を開いて最後まで見たという感じで、面白く見ることはまったくできませんでした。
そのうえ終盤に海辺で長々と長セリフを話す老人が出てくるという変な記憶違いをしていて「あのジイさんなかなか出てこないな」と思いながら見ていて、と思ったらベルモンドがアンナ・カリーナを撃ち殺してしまうので「なーんだ、ジイさんじゃなく歌が頭から離れないというあの中年男が出てくるだけだったんだ」と妙なところで得心しながら、ダイナマイトの爆発を眺めることになったのでした。そんなわけで、記憶違いのジイさんに出会えなかったこともあり、なんだかガッカリ感が増してしまいました。
たぶん学生で初見したときには、映画の中にさまざまに塗り込められている美術や文学や音楽や映画の引用を非常に高尚なものに感じて、もちろん当時はサミュエル・フラーが誰かさえわからずに見ていたのですが、齢を重ねて三度目に見てみるとそのような引用すべてが「それで何なの?」と思えて薄っぺらく見えてしまい、さらにはそれらが本作を面白くするのに役立っているとは思えずに妙にシラけた気分になったのでした。知のセンスにあふれた映画というよりは単にペダンチックにしゃべりすぎる映画にしか見えず、意味があるのかないのかとかその背後に何があるのかとかはどうでもよくなってしまい、見ていて眠たくなったことだけが真実のように感じてしまう映画でした。
ゴダールは本作のことを「湯をためるのと同じ速さで同時空にしているバスタブ」と表現していたそうで、まさに言い得て妙だとは思うものの、そこに面白みを感じられるのはアート志向の強い10代か20代の若い人たちだけではないでしょうか。歳を食ってしまうと本作の上映時間2時間がバスタブそのものだとするとそれはもう徒労というか浪費にしか思えなくなりますし、そんなバスタブに浸かっていたいとも思いません。もちろん映画好きなら一度は見ておくべき映画なのですが、感性の鋭い若いときに見ておけばそれでいいのではないかと思います。そんなこと言うなら見に行くなという話でしょうし、もちろんその通りでわざわざ映画館に見に行ったことを後悔するのみです。
しかしながら溝口健二好きのゴダールならではの「長回しごっこ」はところどころで面白い効果を上げていて、ベルモンドとアンナ・カリーナの二人がアパートから逃げ出すところはほとんど移動撮影ではなくパンだけを使った長回しショットでして、ベランダに出たりワインで殴ったりするのをクルクル左右にパンする画面に収めていたのは印象に残りました。そのあと車での逃避行を描くシーンでの車の撮り方が、余分な手間を省くためなんでしょうけど、回転する照明をフロントガラスにあてて、いかにも車が走っているように見せていて、でも全然走っているように見えないところも面白かったです。
もちろんジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナの二人にはとても魅力があって、ゴダールの映画として意識して見るのをやめて、ベルモンドとアンナ・カリーナの二人を見るための映画として楽しんだほうがよかったかもしれません。ベルモンドのしゃがれ声は朗読を音として聴く分には飽きさせませんでしたし、アンナ・カリーナはフェルディナンじゃないですけど腰のラインが美しく、設定上はフェルディナンを裏切る役なのに、あんまり裏切り者っぽく見えないんですよね。というか、何を裏切るのかがよくわからないお話なので、そんなのはどうでもよくて、車を近づけてキスしたり、互いの身体をくの字にして丸く砂浜で寝てみたりという、瞬間瞬間のイメージは強烈に目の奥に焼き付くようでした。まあ、それだけ残っていればそれでいいのかもしれませんね。(T100822)
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