救命艇(1944年)

ヒッチコックが「ボートの上だけ」に場面を限定した実験的な密室劇

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、アルフレッド・ヒッチコック監督の『救命艇』です。1943年という第二次大戦の最中に製作され、1944年初頭に公開されたこの映画は、アメリカの敵国であるドイツの兵士が優秀に描かれ過ぎていると批評家たちからコテンパンにけなされたとか。原作者としてクレジットされているジョン・スタインベックは『怒りの葡萄』や『エデンの東』を書いた小説家で後にノーベル文学賞を受賞する大家。この大御所にヒッチコックはシナリオを依頼したのですが「使い物にならない」とほとんどボツにして、最終的にはジョー・スワーリングというシナリオライターの脚本を採用したそうです。船が撃沈されて遭難した九人が乗ったライフボート。その小さな救命艇の中だけで1時間半が進行するある意味での密室劇で、まるで舞台を見ているような緊迫感があります。

【ご覧になる前に】その制約条件下でヒッチコックがどう撮るかが見どころ

貨物船がドイツ軍のUボートによる魚雷攻撃で撃沈されます。ただ一隻だけ逃れることができた救命ボートに男女八人が乗り合わせることになりますが、九人目が海から這い上がってボートに乗り込みました。彼は、貨物船爆破のあおりを受けて沈没したUボートの乗組員でした。救命艇は、やがて嵐にのまれて水と食料を失ってしまい、洋上を漂うことになりますが…。

ヒッチコック監督は、アメリカに渡ってからの傑作サスペンス『疑惑の影』を撮り終えた後に、この『救命艇』にとりかかります。戦時中ということもあり、ヒッチコックといえども戦意高揚に寄与する作品づくりが求められたのでした。それでもさすがはヒッチコック。単なる戦争映画ではなく、戦争を背景とした心理的なサスペンス映画をつくってしまいました。ヒッチコックが自らに強いた制約条件は「キャメラが決してボートから出ないこと」。普通なら広大な海にポツンと浮かぶボートの映像が入ったりするところですが、本作においては、観客が遭難した男女とともにボートの中から離れられないような撮り方をしています。その条件の中で、女性ジャーナリストを中心に船の機関士や水夫、船医、工場経営者などの登場人物をきっちりと描き分けていきます。

戦時下のアメリカ映画なので、もちろん日本ではすぐに公開されませんでした。1970年代には日本未公開の映画を次々に映画館で上映するインターナショナルプロモーション(IP)という映画配給会社が登場。『バルカン超特急』や『海外特派員』、『逃走迷路』、『第3逃亡者』といったヒッチコックの名作は、そのときに日本で初めて見ることができたのです。そんな中でもこの『救命艇』は公開作品リストには入らず、DVDはもちろんビデオ販売もない時代でしたので、永らく日本では誰も見ることのできない幻の作品という扱いでした。その『救命艇』が、テレビの深夜枠でかかることになったとき(たぶん1980年代後半あたり)には、日本中のヒッチコックファンがにわかに色めきだったのです。当時は「ヒッチコック劇場」の再放映などもされていたので、プチ・ヒッチコックブームみたいな感じだったのでしょう。まあネット配信で好きなときに見られるようになった現在では、そんなありがたみもなくなってしまったので、『救命艇』が幻の作品だなんていっても、誰も見向きもしてくれないのではありますが。

【ご覧になった後で】減量前と減量後のヒッチコックが笑えましたね

いかがでしたか。まずファーストショットのすばらしさには驚かされますね。タイトルバックに映る貨物船のファンネル(煙突)がググーっと傾いて海の中に沈んでいき、キャメラが右にパンすると、爆破された船の破片や備品が浮かんでいるのが見え、乗船客たちの荷物やトランプ、チェスボードなどが海に漂っている中を、ただ一隻の救命ボートが近づいてくる。このワンショットだけで、映画の状況が観客に伝わってしまいます。セリフやナレーションなどの言葉を使わなくても、映像だけで語れるのがヒッチコックのような映像作家なんですね。この手法はもっと洗練された映像になって『裏窓』のファーストショットでも使われることになります。

キャメラが船の中から出ないというのは見ての通りでしたが、その制約条件の中でもスクリーンプロセスを効果的に使って、海に浮かぶ船の揺れが表現されていました。微妙に船自体も揺らして撮っているので、背景の映像と揺れを合わせるのは結構難しかったと思います。また、この映画でのヒッチコックの三つの視点でのショットの使い分けも見事でした。まずは登場人物も観客も同じように見ている映像。例えば、乾きの苦しみの中で雨が降り注ぐ場面。ヨットの帆に水を集めようとしますが、雨水は帆布を濡らしただけですぐに陽射しが出てきてしまう。これには登場人物も観客も一緒になってがっかりします。次は観客だけが見る映像。ドイツ人船長は他の乗客に隠れて持ったコンパスを取り出して、こっそりと方角を確認します。そして他の乗客が目指すキューバの方角に違ったヒントを与え、ドイツ軍補給船が待つ方向へとボートを導いてしまいます。さらには登場人物の中のひとりだけが見る映像。大男のビルはドイツ人が瓶に入った水を飲むのを目撃します。船長は常に最悪の事態に備えて水や栄養剤を隠し持っていたのでした。船長が水を飲む映像は、大男の主観ショット。それを見たために彼は海に突き落とされてしまいます。このように、誰が見たショットなのかを正確無比に使い分けることは、簡単なようで実は難しい映像術のひとつ。ヒッチコックだからこそ、当たり前のように見えてしまうのでしょう。

小道具の使い方もうまかったですね。大男の片足を切断する手術の際に、突然クローズアップになる炎とナイフ。手術のあとで無造作に投げ出される右足用の靴。その靴はドイツ人船長を海に叩き落すときの最後の鉄槌代わりに使われます。また、海に落とされる小型キャメラとタイプライター。ジャーナリストの女性の虚飾がひとつずつはがされて、カルティエのブレスレットを魚の餌に差し出した彼女は素のままに戻ることになります。まあ、ここらへんはヒッチコックにすれば、映像的なわかりやすさだけを目的にしているだけだったりして、深読みしないほうがいいかもしれません。

自分の監督作品には必ずどこかでカメオ出演するヒッチコック。本作では、海に浮かぶ死体役で出ようとも考えたらしいのですが、太ったヒッチコックがそんなことをすれば本当に死んでしまうかもしれないと中止にしたのだとか。その結果、新聞広告の「減量前」「減量後」の比較写真での登場となりました。実は「前」も「後」も両方とも本物のヒッチコックを横から撮った写真。あの写真のために、50キログラムもの減量に挑んだのだそうです。もしかしたらこの広告写真の登場場面が、本作いちばんの見どころだったとも言えるでしょう。(A100421)

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