氷点(昭和41年)

三浦綾子のベストセラーとなった原作を山本薩夫監督が映画化した作品です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、山本薩夫監督の『氷点』です。北海道旭川市出身の三浦綾子が朝日新聞の懸賞小説に応募して入選した原作は、新聞連載後に出版されて70万部を超えるベストセラーとなりました。その原作を翌年すぐに映画化したのが本作で、大映に招かれた山本薩夫が監督をつとめました。大映の作品なので、若尾文子や船越英二など大映の鉄板俳優が主演していますが、ヒロインの陽子役は日活でデビューしてすぐに大映に移籍した安田道代が若々しく演じています。

【ご覧になる前に】朝日新聞が募集した懸賞小説の賞金は1000万円でした

洋館の一室でピアノを弾いている夏代は辻口病院の院長を夫に持つ美しい人妻ですが、病院に勤める眼科医の村井と密会を重ねていたとき、娘ルリ子から目を離してしまい佐石という男に娘を殺されてしまいます。辻口院長は娘が死んだのは不義を働いた妻のせいだと思い込み、医者仲間の高木が勤める乳児院から女の赤ん坊を養子に迎え入れ、それは乳児院に自殺した殺人犯佐石の遺児が預けられたと聞いたからでした。辻口はルリ子を殺した男の子供を妻の夏代に育てさせることで妻へ復讐しようとしていたのですが、そんなこととは知らない夏代は養子の陽子を溺愛し、兄の徹も陽子のことを妹以上の愛情で可愛がるのでした…。

朝日新聞が懸賞小説募集は、大阪本社創刊85周年・東京本社創刊75周年を記念した事業のひとつとして昭和38年に企画されました。既成の作家・無名の新人を問わないという募集条件はともかくとして、話題を呼んだのは賞金が1000万円と高額だったことで、当時と現在の消費者物価指数を比較すると約4.2倍という統計データが出ていますので、現在的にみると小説を書くだけで4200万円の賞金を手に入れることができたのでした。

その懸賞小説に入選したのが三浦綾子の「氷点」だったわけでして、三浦綾子は北海道旭川市の高校を卒業後教師として働いていたものの、戦後すぐ肺結核を発症してしまい、闘病中に知り合った男性がクリスチャンだったことから、三浦綾子も洗礼を受けるとキリスト教から影響を受けた小説や短歌を書くようになります。キリスト教に導いてくれた男性が亡くなった後に旭川営林局に勤める三浦光世と結婚して、夫光世は結婚後には綾子の小説を口述筆記して支えることになったそうです。

脚色を担当したのは水木洋子。昭和24年に『女の一生』で八住利雄との共同脚本でデビューした水木洋子は豊田四郎監督の『せきれいの曲』で独り立ちし、以来成瀬巳喜男や今井正の監督作品でシナリオを書くようになります。この『氷点』は水木洋子のキャリアとして終盤の作品で、なぜかといえば本作を書いたあと水木洋子は10年くらい作品を残しておらず、次に書いたのは昭和51年に今井正が作った『妖婆』でのことでした。女性脚本家の道を拓いたひとりである水木洋子が筆を折るきっかけが本作にあったかどうかはよく調べてみないとわかりません。

監督の山本薩夫は松竹蒲田に入社して成瀬巳喜男の助監督をしていたところ、成瀬がPCLに移籍するというので山本薩夫もそのままPCLについていくことになりました。監督昇格後に戦争が始まると東宝で戦意高揚映画を監督していましたが召集されて北支戦線に送られ、軍隊では映画監督だということで上官から猛烈ないじめを受けたそうです。戦後東宝に復帰した山本薩夫は労働組合の幹部として経営側と激しくやりあい、第三次東宝争議後に東宝を退社し、フリーの立場で映画製作を続けることになりました。中には農家からカンパを集めて全国の農村で移動上映会を行った『荷車の歌』という農村映画もあったそうです。そんな山本薩夫に手を差し伸べたのが大映社長の永田雅一で、市川雷蔵主演の『忍びの者』を監督するとこれが大ヒットを記録し、以後山本薩夫は大映を根城にして次々に作品を発表し、この『氷点』の翌年には代表作ともいえる『白い巨塔』を作ることになるのでした。

若尾文子と船越英二は大映の常連ですが、成田三樹夫と山本圭はともに俳優座出身の舞台俳優でして、成田三樹夫はわざわざ大映に大部屋俳優として入社して下積みから徐々に役を掴み始めた頃の出演でした。山本圭は山本薩夫監督の甥っ子のひとりで、兄の山本學とともに山本薩夫監督作品の常連となっていきます。ヒロインの陽子を演ずる安田道代は日活でデビューしたものの、知人を通じて紹介された勝新太郎からくどかれて大映に入社することになったそうです。大映では若尾文子に次ぐスター女優として育てようとしたらしいのですが、斜陽期にあって大映での活躍はあまり目立ったものではありませんでした。現在的にはどちらかといえば鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』に出ていた大楠道代としてのほうが名が通っているかもしれません。

【ご覧になった後で】継母・継子という設定が流行った時代だったんでしょう

いかがでしたか?映画がほぼ原作通りのお話だとすると、三浦綾子の小説がベストセラーになるようなものなのかちょっと疑問に感じますし、正直言って映画化された本作も脚本自体に魅力がなく面白く見ることはできませんでした。推測するに当時のストーリーものにおいては「継母・継子」という人物設定がトレンドになっていたというか受ける時代だったのかもしれません。調べてみると継母が継子をいじめるという設定は古くからあって「継子いじめ譚」として昔から伝わってきたもののようです。10世紀に書かれた「落窪物語」というのが日本では一番古い継子いじめもので、考えてみれば西洋でも「シンデレラ」がありますもんね。なので三浦綾子の小説が新聞に連載されて評判を呼んだのも、娘の代わりに育てた養女が実は娘を殺した殺人犯の子だったという設定と、それに気づいた途端に娘につらくあたる継母という展開が毎日連載小説を読む主婦層に支持されたためではなかったでしょうか。

で、映画ですけど養女が殺人犯の娘だったことを若尾文子が知るところと若尾文子が安田道代にその事実を伝えるところが一番の見どころになるべき場面だったはずです。しかしここが全然盛り上がらずに割とすんなりと普通に通り過ぎて行ってしまうような演出なので、全然インパクトが残らないんですよね。若尾文子が夫の書いた手記を盗み見てその内容がナレーションで語られるという場面では、いかにも見てくださいと言わんばかりに船越英二の手記というか手紙が文箱からはみ出して置いてあって、そもそも船越英二が私怨を書き留めておく必要がどこにあるんでしょうか。また若尾文子と安田道代の対峙の場面では同じようなクローズアップを切り返す途中で若尾文子の「殺人犯の娘なの」というセリフが述べられるだけで他のセリフと同じ扱いで語られます。「それだけは言ってはいけない」みたいに逡巡する様子もないですし、安田道代にとって自殺を考えるようなショックも表現されていませんで、これではせっかくの「継子いじめ譚」も台無しです。

だいたい開巻後に殺された娘が発見されるまでを描くプロローグ部分の演出が、おおげさなズームアップを多用したり無駄なクローズアップショットを入れたりして本当に安っぽい演出だったので、これでは先が思いやられるという感じのスタートなのでした。山本薩夫監督は大昔にリアルタイムで『皇帝のいない八月』を劇場に見に行ったときから印象が悪く、予告編やTVの宣伝広告なんかでなかなか凄そうな映画だなと期待させておいたわりには全くつまらないクソみたいな映画だったので、山本薩夫という人は高名だけど大した監督ではないなと高校時代から思い込んでいたのでした。それでもその大袈裟な演出は日活の超大作『戦争と人間』あたりなら長時間鑑賞させるためのあざとい手法だとして許せる範囲ですけど、本作では演出の臭みが鼻についてしまってちょっと我慢できないくらいでした。

大映ですから若尾文子が主演なのは仕方ないにしても、津川雅彦に色目を使ったり真実を知って床にひれ伏して泣いたりとかなり無理のあるキャラクターを演じさせられていて可哀想なくらいでしたし、船越英二も安田道代の寝姿を舐め回すように見るというあの一場面だけでは、娘への複雑な感情が全く表現されないわけですので、単なる変態オヤジにしか見えない演出でこちらも可哀想でした。かたや山本圭は俳優座出身のせいなのかあまりにも演技が過剰というかやりすぎで設定以上に鬱陶しい兄になってしまっていましたし、安田道代はわざわざ日活からぶんどってきたわりには演技はまだまだ未熟で、加えてそんなに美人でもないので、なぜ大映がこの人を若尾文子に次ぐスター女優にしようと思ったのかが理解できませんでした。声だけはいいんですけどね。

ちなみに本作は昭和41年3月に公開されていて、ほぼ同時期の1月から4月までの間、TVでも「氷点」がドラマ化されて放映されていました。TVでは継母役が新珠三千代、継子役が新人の内藤洋子という配役。このTVドラマもかなりの高視聴率を獲得したようです。

そんなわけで「氷点」という題名はこれまでもよく耳にしていましたし、かつてのベストセラーだということもなんとなく知ってはいたのですが、あくまで「かつての」ものであって古典にはなっていない理由が本作を見てわかったような気がします。今でもサブスクで見られるのが特別扱いのように思えて、こんな映画を動画配信にのせるならもっと他に良い作品がたくさんあるはずなのになあと思ってしまう一編でした。(A102622)

コメント

スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました