智恵子抄(昭和42年)

高村光太郎の「智恵子抄」の二度目の映画化は丹波哲郎・岩下志麻が主演です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、中村登監督の『智恵子抄』です。詩人・彫刻家・画家の高村光太郎による亡き妻に向けた詩集「智恵子抄」は昭和32年に山村聰と原節子の主演で映画になっていますが、本作は光太郎を丹波哲郎、智恵子を岩下志麻が演じた二度目の映画化作品です。一度目の熊谷久虎監督版が東宝で作られたのに対して、本作を製作・配給したのは松竹。第40回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたそうで、もちろんオスカーを獲得するには至りませんでしたが、候補作に選出されたこと自体が驚くべき快挙といえるでしょう。

【ご覧になる前に】岩下志麻が智恵子を演じたいと熱望して企画が通りました

明治末期のカフェで裸婦像の絵を品評していた「パンの会」の仲間たちに高村光太郎は悪態をついて友人の椿夫妻との会食にのぞみます。独身の光太郎に椿夫人は女学校を出て絵を学んでいる長岡智恵子を紹介しますが、光太郎は見合いのような席は好まないと言って、智恵子を自分のアトリエに出入りさせます。海に写生旅行に出かけた光太郎を智恵子が追いかけて行ったことから二人は結婚しますが、光太郎が企業相手の請け負い仕事に気乗りがしないため、智恵子が着物を質に入れてやりくりをする日々が続きます。智恵子が隠れて描いた油絵を光太郎の薦めで文展に出品しますが結果は落選となり、智恵子は絵筆をとらなくなり、機織りに専念するようになるのでしたが…。

岩下志麻は昭和35年に篠田正浩監督の『乾いた湖』でデビュー(撮影は木下恵介の『笛吹川』が先ですが)して以来、晩年の小津映画に出演するなど松竹を代表する女優として活躍を続けていました。昭和41年に結婚した篠田正浩は、松竹を退社してフリーとなり独立プロダクションの表現者を設立します。設立にあたっては妻の岩下志麻も協力関係にありましたから、たぶん松竹としては岩下志麻を退社させずに引き留める必要があったんでしょう。岩下志麻にどんな映画をやりたいかを聞き、その希望に沿った作品を製作することになりました。そのときに岩下志麻が熱望したのが『智恵子抄』での智恵子役で、松竹の言うままに二ヶ月に一本程度の出演を続けてきた岩下志麻にとってはじめて自分が望む役を演じることができたのがこの作品なのでした。

高村光太郎役に起用された丹波哲郎は、学徒出陣で航空隊に入隊して終戦となり、戦後はGHQで通訳として働いたりしながら演劇の世界に入って、新東宝で映画デビューしました。普段から偉そうな態度をとる丹波哲郎はなかなか役が回ってこなかったそうですが、やがて悪役や敵役で活躍するようになります。そんなときに新東宝の作品の質の悪さを指摘する発言をして、新東宝の大蔵貢の逆鱗に触れて新東宝を退社しフリーの立場となりました。しかしそのふてぶてしい個性が重用されて、東映のギャングものなどで出演を重ね、松竹ではTVドラマを映画化した『三匹の侍』に主演したりしていました。

この『智恵子抄』は昭和42年6月に公開されていますが、その2週間後に洋画系列の映画館にかかったのが『007は二度死ぬ』。ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドシリーズ第五作で、全面的に日本でロケーション撮影された世界的娯楽作に日本を代表してタイガー田中役で出演したのが丹波哲郎でした。007と本作とどちらを先に撮影したのかまではわかりませんが、少なくとも同じ6月に公開された出演作の一方では高村光太郎をやり、もう一方では007に協力する日本の諜報部員を演じていたのです。丹波哲郎の俳優としての幅の広さが実感できる月だったことでしょう。

高村光太郎の詩集に加えて原作となったのが佐藤春夫が書いた「小説智恵子抄」で、谷崎潤一郎夫人を譲る譲らないの話になった小田原事件で有名な佐藤春夫は「小説高村光太郎像」と「小説智恵子抄」のふたつの小説を通して、高村光太郎と智恵子の夫婦を物語化しています。それを脚色したのが中村登と広瀬襄の二人。広瀬襄はこの作品がはじめての映画脚本の仕事で、松竹ヌーヴェル・ヴァーグに憧れて松竹に入社して吉田嘉重の助監督についたという経歴の持ち主でした。中村登は昭和26年に『我が家は楽し』で監督デビューして以来、女性をターゲットにした松竹のホームドラマを数多く手がけてきた監督です。本作の四年前にも岩下志麻主演の『古都』でアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされていますから、本作のどちらかで受賞していたら日本映画史の中でももっと注目度が高まっていたかもしれませんね。

【ご覧になった後で】岩下志麻の熱演以上に丹波哲郎がハマり方が見事でした

いかがでしたか?高村光太郎と智恵子の純粋な愛情が丁寧に紡がれるような作品に仕上がっていて、ケレン味のないオーソドックスな作りが逆に主演の二人の演技に観客を注目させるようでもありました。もちろん岩下志麻はまさに熱演といって良いくらいに智恵子になり切ろうとしていて、真面目で純度が高い性格であるがゆえに文展の落選や義父に望まれた結婚ではなかったことや光太郎の仕事の邪魔にならないかという気遣いが徐々に智恵子の心を蝕んでいく過程を丁寧に表現していましたね。特に心が病んでからの演技は、大袈裟ではなく同時にリアル過ぎることもなく、演技の上での病み方を演じることによって観客の想像上に実在した智恵子を再現させるような効果があったと思います。

岩下志麻は学校に通っていた頃には精神科医を目指していたんだそうですが、猛勉強しすぎて身体を壊してしまい医者になる夢をあきらめたと語っています。そんな岩下志麻ですから、本作での智恵子の演技にはかなり熱が入ったらしく、精神病の患者さんは眉毛が薄くなる傾向があると聞き、映画の後半で病んでいく智恵子を表現するために眉を薄くしたんだとか。そのようにして岩下志麻は智恵子の役柄に入り込んでいったんですね。

しかしその岩下志麻の熱演を上回るくらいにすばらしかったのが丹波哲郎でした。丹波哲郎の俳優としてのイメージは007のタイガー田中であり、TVの「キイハンター」であり、『日本沈没』の首相であり、晩年の『大霊界』(未見ですけど)であったわけですが、そんな不遜で高慢な態度の面の皮の厚いキャラクターとは対極にある高村光太郎像を見事に造形していて、真から光太郎役がハマっていました。パンの会を侮蔑して去っていくファーストシーンでは相変わらずの丹波哲郎のように見えていましたが、岩下志麻の智恵子と結婚するあたりから、ひょっとするとこの丹波哲郎は高村光太郎の実像に近いんではないかと思わせるようになり、智恵子が狂気に陥ってくるとそんな妻を思いやり労わる気持ちが全くウソに見えないほどの剛直なんだけど純粋で誠実な芸術家肌の男という感じが痛いほどに伝わってくるのでした。本当に丹波哲郎をキャスティングしたのが本作の作品の柄をグッと大きなものにしていると思います。

そして物語の節々で光太郎の詩を引用して芥川比呂志に朗読させるシナリオが実にうまくて、本作にはもちろん独白のような軽薄な手法は使われていないのですが、詩の朗読によって作品のクオリティが一段階上がることになりました。この詩の挿入が観客の視線を一旦物語から切り離すような効果を持っていて、詩が朗読されるたびに光太郎と智恵子の物語を遠景に引いて眺めるようにさせられます。海岸のショットで波に戯れる岩下志麻を超ロングで引いたショットが出てきますが、そういう映像と同期するようにして、お涙頂戴物語ではなく客観的に愛する夫婦の悲劇を目撃するような視点を与えてくれていました。

キャメラマンの竹村博は前作の『惜春』に続いて中村登とコンビを組んでいますが、本作がまだ五本目の撮影作品となっていて、撮影助手の時代が長かった人のようです。一方で美術の浜田辰雄は『彼岸花』以降、松竹で小津が作ったカラー作品すべてで美術を担当した大ベテランですから、光太郎のアトリエを含む屋敷内の建築構造が非常に独創的で、アトリエ内に階段を作って二階からアトリエが見下ろせるような造りにしたところに浜田辰雄らしさが出ていたと思います。浜田辰雄は本作製作時にちょうど六十歳を迎えていて、作品歴も本作が最後になったようです。

映画にも出てくる智恵子の入院先の「ゼームス坂病院」は南品川に実際にあった精神病院で、当時としては先進的な施設を持っていて、病室はすべて個室で鍵をかけず格子もなくして患者の自由を最優先にしていたそうです。目を覚ました岩下志麻が早暁に病院を抜け出して自宅に帰るというのも、「ゼームス坂病院」だからこそあり得た設定だったんですね。(T080223)

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