アンナ・カレニナ(1948年)

トルストイの大長編小説の三度目の映画化でヴィヴィアン・リー主演作です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『アンナ・カレニナ』です。原作はトルストイが1877年に発表した「アンナ・カレーニナ」で、本作は主人公のアンナをヴィヴィアン・リーが演じた三度目の映画化作品です。監督はジュリアン・デュヴィヴィエですが、第二次大戦中にアメリカに亡命したデュヴィヴィエはハリウッドの水が合わずに戦争が終わるとすぐにフランスに帰国しました。本作はイギリスのロンドン・フィルムが製作していますので、デュヴィヴィエが一時的にイギリスに招かれて監督した作品のようです。

【ご覧になる前に】2時間の上映時間ですので小説の半分は省略されています

モスクワのオブロンスキー家では妻のドリーが夫の浮気に怒って家を出ると騒いでいますが、オブロンスキーは妹のアンナが来てくれればすべてを解決してくれるだろうと駅に出迎えに行きます。アンナは車中で乗り合わせたヴロンスキー伯爵夫人と話が弾み、互いに息子の写真を見せあっていましたが、給水駅での停車中にアレクセイ・ヴロンスキーと出会います。カレーニン夫人であるアンナとヴロンスキーは互いに惹かれ合う気持ちを意識しますが、モスクワの駅で別れ、アンナはドリーのところへ駆け付けます。婚約相手のキティとの舞踏会に出席したヴロンスキーは、アンナを見つけるとキティとは踊らずにアンナにダンスを申し込むのでしたが…。

トルストイの「アンナ・カレーニナ」は、現在でも文庫本三巻、二千ページにも及ぶ大長編小説として読み継がれている世界文学の最高峰に位置する小説です。ドイツの文豪トーマス・マンが「一点も非の打ちどころのない小説」と評したように、「戦争と平和」や「復活」なども書いているトルストイの作品の中でも主人公の造形や小説世界の構築においてもまさに代表作といえるでしょう。1877年に出版されたその三年後には「ロシア報知」誌にドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の連載を始めていますので、この時期のロシア文学は人類の歴史に残るような偉大な小説を奇跡的にも同時期に生み出していたのでした。

そのような有名な小説ですので、映画界が放っておくわけもなく、映画の先進国であったアメリカのハリウッドではサイレント映画時代に早くも映画化が試みられていて、1927年にグレダ・ガルボ主演『アンナ・カレニナ』が作られました。グレダ・ガルボのアンナが当たり役だったようで、1935年のトーキーでの二回目の映画化の際にもグレダ・ガルボが起用されています。順番でいうと本作は三回目の映画化にあたりまして、今度はイギリスで作られることになりました。本作のあとも1960年代と1970年代には本場のソ連で映画になっていますし、1997年にはソフィー・マルソーがアンナを演じたバージョンも製作されています。欧米映画界にとっての「忠臣蔵」のような鉄板コンテンツだったわけですね。

しかし二千ページもの小説を2時間の映画におさめることなんてどんな優秀な脚本家にもできるわけはありません。ジュリアン・デュヴィヴィエに加えてフランスの劇作家ジャン・アヌイらが共作で仕上げた脚本は、大長編小説の中のアンナのエピソードだけを抜き出したものにならざるを得ませんでした。実はトルストイの原作にはもうひとり主人公がいて、小説の冒頭でキティにプロポーズして断られてしまうリョービンについての描写が小説の半分くらいを占めています。アンナがロシアの腐敗した貴族社会の象徴だとするとリョービンはロシアに土着した農民たちの世界を代表していて、幼少期を田舎で過ごしたトルストイがロシア社会をその両面から描いたのが「アンナ・カレーニナ」という作品だったわけです。残念ながら映画ではリョービンはキティにフラれる場面しか登場しませんで、小説世界を楽しみたいという観客にとっては半分なくなってるぞ!とクレームを入れたくなるような脚本になっています。

ヴィヴィアン・リーは『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役でアカデミー賞主演女優賞を獲得していますのでハリウッド女優のようなイメージがありますが、実はイギリスの女優さんです。スカーレット役を誰にするか決まらないままに火事の場面から撮影に突入してしまったのですが、ローレンス・オリヴィエを追ってハリウッドにやってきたヴィヴィアン・リーがデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテストを受けて見事にスカーレット役を射止めました。しかしイギリスの舞台女優だった彼女にとってハリウッドの撮影現場は非常にハードなものだったらしく、監督や共演者たちとの人間関係もあってヴィヴィアン・リーは精神的に不安定な状態になったといわれています。『哀愁』でロバート・テイラーと共演した後にイギリスに戻った彼女は、ローレンス・オリヴィエと結婚してイギリス映画に出演するようになります。本作はその時期のイギリスでの出演作にあたります。

未見ですけど1935年のグレダ・ガルボ版『アンナ・カレニナ』は傑作として評価されていて、その最大の勝因はグレダ・ガルボによるアンナの圧倒的存在感だったそうです。それから十年ちょっと経った時期に本作が製作されたのですからまだ観客の頭の中にはグレダ・ガルボのアンナ像が焼き付けられていたことでしょう。ヴィヴィアン・リーもそれをプレッシャーに感じていて、不倫関係の末、離婚を成立させてヴィヴィアン・リーと正式に結婚したローレンス・オリヴィエは「グレダ・ガルボのことを忘れろ」と最初に忠告したんだとか。つまるところ映画化が繰り返される名作に出演するということは、常に前に出た人と比較されてしまう運命を持っているんですね。

【ご覧になった後で】アンナの部分は原作に忠実ですが端折り感は否めません

いかがでしたか?原作を読んだことがある観客からすると、あの無骨で真っ正直なリョービンというキャラクターが全く無視されていることは本当に残念なのですが、アンナが関係するパートに関しては意外にもかなり原作に忠実に再現されていたのは驚きでした。車中でのヴロンスキーとの出会い、舞踏会、競馬場、カレーニンが弁護士に相談するところ、アンナとヴロンスキーのヴェニスでの暮らし。ここらへんの流れはほとんど小説そのままでした。二人が互いに焦燥感に陥り、オペラの場面でアンナが観衆から軽蔑の目にさらされるところのみがちょっと順番を変えてアレンジされていたくらいでしょうか。列車に轢かれてそのまま幕が降りるところはいかにも映画らしい処理で、原作はエピローグというかリョービンの話が戻ってまだ100ページくらい後日譚が続きますので、劇的なエンディングにまとめたのは効果的だったと思います。

映画でややわかりにくかったのがアンナが死産する場面で、小説ではアンナがヴロンスキーの子供を妊娠していることを告げ、そこから二人がのっぴきならない状況に追い込まれていくスリリングな展開になります。映画では死産になっていますが、小説ではアンナは女の子を産み、でもその子のことを息子のセリョージャ(映画ではセルゲイ)ほどには愛せないというのが、アンナを苦しめる要因のひとつになっていきます。映画で一番の悪手だったのは死産した子が誰の子かをはっきりと描いていないことで、小説では最後にカレーニンが自分の子として育てるという結末になるあたりにカレーニンの矜持のようなものを表現していたのが映画では全く無視されていたのがちょっと気になるところでした。

大まかな流れは小説を再現しているわけですが、それでも端折っているなあという感じは否定できず、アンナがヴロンスキーに惹かれていく気持ちの変化や逆に二人の関係がギクシャクしてくる経緯が観客に伝わるほどには描けていないのですよね。それがないとそれこそアンナが単なる浮気女にしか見えなくなるわけで、カレーニンも仕事上の出世欲を感じさせるエピソードを省略してしまっているので浮気するアンナを遠くから見守る寛大な夫のように見えていました。それはヴロンスキーも同じで、前半は軍人として、後半は経営者として有能な才覚を見せるヴロンスキーが、軍服を着ただけの軽薄な男にしか感じられません。やっぱりダイジェストっぽい映画化ではキャラクターの掘り込みが浅くなるので、2時間の映画では小説とは別物になってしまいますね。

ならばいっそのこと映画版として全く別の物語を再構築する手法もあると思いますが、それはそれで小説世界の呪縛から逃れるのも難しいのだろうなと思います。まあオブロンスキー夫婦や取り巻きの御婦人たちの描写あたりにはロシア貴族の閉鎖性のようなものが表現されていましたし、特に本作は美術セットがすばらしくて、舞踏会やオペラの場面での無駄な煌びやかさが虚飾的に表現されていたところが映画ならではの魅力だったと思います。

そんな中でヴィヴィアン・リーのアンナはどうだったかといえば、確かに大変な美貌であることには間違いないのですが、やっぱり小説のアンナがもつ人間的な魅力を醸し出すところまでは行っていませんでした。アンナは絶対的な美人であると同時に誠実で純粋な心をもっていて、誰もがその人間としての魅力に注目せずにはいられないというキャラクターなんですよね。ヴィヴィアン・リーは美人ぶりが際立っているためにいかにも表面的に見えてしまって、内面的な魅力を表し切れていませんでした。美人過ぎるというのも女優さんとしてはマイナスに働くこともあるんですね。

ジュリアン・デュヴィヴィエの演出はまあほとんどオーソドックスに終始していましたけど、ラストの列車の場面はあえて正面から機関車をとらえた構図が非常に効果的で、アンナが世間というか社会そのものに押しつぶされる境遇が映像的に表現されていたのではないでしょうか。でもアンナの身体の上を列車が通り過ぎていき、最後に線路の間にアンナの身体が残されるというのでは、なんだか列車とレールの隙間の空間にはまってうまくやり過ごしたように見えてしまいます。もうちょっと残酷さを出して、しっかりと轢死したのだということを強調すべきでしたね。(U062423)

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