宇能鴻一郎の芥川賞受賞作を大映が特撮を駆使して映画化した捕鯨のお話です
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、田中徳三監督の『鯨神』(くじらがみ)です。昭和36年下半期に芥川賞を受賞した小説「鯨神」は捕鯨を生業とする集落での巨大鯨と漁師たちの格闘を描いた作品でした。大映はその映画化権を100万円で獲得したといわれていまして、翌年に大規模なロケーション撮影とスタジオでの特撮を駆使してモノクロながらシネマスコープの大画面で映画化されました。クレジットタイトルでは勝新太郎のほうが上に出てきますが、実質的な主人公は本郷功次郎が演じています。
【ご覧になる前に】特殊監督は小松原力ですが現場では的場徹が仕切りました
長崎の和田浦で捕鯨を営む漁師たちが巨大な鯨に銛をもって戦いを挑みますが、船団は鯨によって木っ端微塵にさせられ、多くの漁師たちが殺されてしまいます。村ではその巨大鯨を「くじらがみ」と呼んで恐れていましたが、村の鯨名主はくじらがみを討ち取った者には家督・財産とともに娘を与えると宣言し、流れ者の紀州が名乗りをあげます。家族を殺されてきたシャキもくじらがみ退治に命をかけていて、恋人エイは鯨名主の娘が欲しいのかと疑いますが、ある晩にエイは紀州に身体を奪われ、子を身籠ってしまうのでした…。
本作は日本映画では珍しく捕鯨が題材になっています。四方を海に囲まれた日本では、奈良時代から捕鯨が盛んに行われており、「いさなとり」という捕鯨を意味する枕詞があるほどでした。銛を用いた突き捕り式が主流でしたが、江戸時代には網を使って鯨の勢いを止めてから銛で仕留める網捕り式が開発されました。九州近海の西海捕鯨は長崎の平戸が拠点となっていて、最盛期には200隻もの船団が年間300頭あまりの鯨を獲っていたという記録も残っています。しかし日本に古くから伝わる捕鯨方式では海で遭難する危険性と隣り合わせだったため、明治期に入って捕鯨砲を備えた捕鯨船がノルウェーから伝わると徐々に衰退していき、明治末期にはノルウェー式捕鯨に取って代わられたようです。
宇能鴻一郎は東京大学を大学院まで進み、博士課程まで修了したインテリでした。在学中から同人誌に小説を発表し、文学界誌に掲載された「鯨神」で芥川賞を受賞します。しかし純文学の道を進むことなく、エロティシズムに溢れた文体を活かした官能小説を次々と発表し、夕刊紙やスポーツ新聞でのいわゆるエロ小説で一時代を築く小説家となりました。一方では「嵯峨島昭」というペンネームを使って推理小説にも手を染め作家として器用な面も見せていたようですが、宇能鴻一郎といえば「あたし~なんです」という女性の一人称によるエロ小説の大家として、日活ロマンポルノに多くの原作を提供した人として知られています。
宇能鴻一郎の原作は、ある作家が平戸島を訪れた際に絵巻物を見せられて「鯨神」の伝説を聞かされるという設定だったようですが、脚色を担当したのはまたまた出ました新藤兼人で、この人は本当になんでもかんでも原作ものを映画にしてしまう職業的シナリオライターでした。とにかく多作過ぎてしまい、作家的な傾向とかスタイルとかは全く関係なく、オファーされればいつでもなんでも書いてみせるというスタンスの人だったようですね。これだけの量を書き散らしていると、本人も何を書いたかほとんど覚えていなかったんじゃないかと疑ってしまうほどです。
キャメラマンの小林節雄は大映東京撮影所を代表する撮影監督で、特に市川崑と組んだ『野火』や『黒い十人の女』を撮ったことで有名です。また『妻は告白する』『陸軍中野学校』など増村保造監督作品でも多くキャメラを回していて、本作でも光と影を自在にコントロールしたモノクロ映像が特徴になっています。
特技監督としてクレジットされている小松原力は大映では『こんなアベック見たことない』という中編を一度監督したことがあるだけで、どんな映画に関わってきた人なのかのデータが残されていません。本作でもクレジットされただけで実際の現場は的場徹が仕切っていたということですから、永年名誉賞的な感じで名前が載っただけかもしれませんね。一方的場徹は昭和31年の『宇宙人東京に現る』を手始めに『透明人間と蠅男』『巨人と玩具』などの大映東京作品で特殊技術を担当してきた人でした。昭和36年の大映超大作『釈迦』でも特撮スタッフの撮影としてクレジットされていますので、実質的には大映を代表する特技監督でした。昭和40年には円谷プロダクションと特技監督として契約して、TVシリーズの「ウルトラQ」や「ウルトラマン」を担当することになります。でもタイトルクレジットでは特技監督は高野宏一になっていますから、的場徹の名前がきちんと見られるのは「宇宙猿人ゴリ」で「企画・的場徹」と出てくるあたりかもしれません。
【ご覧になった後で】独特な民俗調作品ですが特撮と結末には難ありでした
いかがでしたか?巨大な鯨が海の男たちの強敵となるという設定はメルヴィルの「白鯨」そのままですし、ジョン・ヒューストンが監督した『白鯨』が思い出されるところですが、やっぱり本作は『白鯨』を超えるところまでは行かず、その最大要因は特撮と結末にあったと思われます。特撮ではスタッフががんばって全長30メートルに及ぶ実物大モデルと5.5メートルの縮小モデルを作って撮影にのぞんだそうですが、セミクジラをモデルにしたその造形がデフォルメし過ぎで鯨っぽくないんですよね。口の部分のデザインを強調し過ぎてしまい、なんだか巨大オブジェのように映ってしまうので、生き物との対決という雰囲気が出なかったのが残念でした。
さらにミニチュアを作って漁師たちの船に囲まれる絵が出てきたりしますが、それがいかにもミニチュアっぽくてリアルさが足りませんでした。カッティングでそこらへんの綻びを補おうとしていましたが、それでもしっかりとミニチュアの出来栄えの悪さが映っていましたので、特撮部分ははっきり言って失敗レベルではないでしょうか。ここらへんの演出に田中徳三が噛んでいるかどうかはわかりませんけど、特に最初にシャキの祖父・父がやっつけられるところの演出が実に陳腐で、銛を投げつけた後は綱に引かれて海に落ちるというそれだけなのです。海の上での格闘という感じが全く伝わってこないので、シャキの復讐心に火が点くような感じが出ていませんでした。
クライマックスでは、実物大モデルに飛び乗って銛や鉈で鯨の身体を繰り返し突き刺すだけで、そのまま海に引きずり込まれたりがリピートされます。やっと巡り合えた鯨神を退治するのに、シャキや紀州は何の作戦も立てませんし、志村喬演じる鯨名主が「回り込め」とか言うだけだったり、シャキや紀州の動きを「あ、飛び乗った、あ、突き刺した」と実況するだけだったりするのも、なんとも盛り上がりません。網をかけるショットがないのにいつのまにか頭部に網がかかっていて、格闘するプロセスが全く描けていないので、一番映画的においしい場面なのにこれでは作品が成立しませんよね。
結末でなぜかシャキは鯨神と一心同体になって海に還るみたいなファンタジーになります。原作がこうなっているのかわかりませんけど、原作ではシャキが片手片足を失ったことになっているそうです。その割に映画ではシャキはもうすぐ死ぬという感じではなく、セリフで長くないみたいな説明が入るだけで、余計に鯨神の頭部とともに海岸に放置されるのが不自然に見えてしまいます。原作のせいなのか、新藤兼人のシナリオがいい加減なのか知りませんけど、田中徳三も監督としてもうちょっとなんとかすべきではなかったでしょうか。
そんな中で本作を日本の地方色を出した民俗調作品にしているのは伊福部昭の音楽でした。『ゴジラ』を想起させるような低音のリズムが独特で、鯨神への怨讐から逃れられない因縁のようなものが表現されていたように思います。途中で挿入される祭りでの漁民たちの踊りの場面も伊福部昭の音楽があってこそ成立した土俗舞踊になっていました。
また序盤で志村喬の前で漁民たちが鯨神をやっつける決意をする浜辺の集団場面は、小林節雄のキャメラがモノクロの明暗のトーンを強調していて、ストイックな感じの映像が素晴らしい効果を上げていました。あそこは疑似夜景のつもりで露出を抑えめにしたのかもしれません。また、この映画を見ると、勝新太郎の鬱陶しさが鼻につくのに対して、本郷功次郎のストレートな逞しさには好感が持てるような感じがしました。映画俳優の序列は勝新太郎が上だったのですが、映画俳優としては本郷功次郎の方が正統派だったことは間違いないでしょう。まあ存在感だけでいうなら、上田吉二郎がダントツでしたけどね。(A060823)
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