オードリー・ヘプバーンが盲目の主婦を演じた密室型サスペンススリラーです
こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、テレンス・ヤング監督の『暗くなるまで待って』です。オードリー・ヘプバーンは1953年に初主演した『ローマの休日』でいきなりアカデミー賞主演女優賞を獲得して、その翌年の1954年には舞台で共演したメル・ファーラーと結婚していました。本作はそのメル・ファーラーがプロデューサーをつとめていますが、完成後に二人は別居して翌年に離婚に至ります。二人の間にはショーンという男の子がいましたが、実はオードリーは長男出産前に二度、出産後にも二度流産をしていて、そこにメル・ファーラーの浮気も重なった末のことでした。なのでこの『暗くなるまで待って』はオードリーとメル・ファーラーの二人の仲をつなぎとめる最後の共同作業でもあったようです。
【ご覧になる前に】原作は『ダイヤルMを廻せ!』と同じ作者が書いています
リサは老人から大量の麻薬を腹の中に仕込んだ人形を受け取るとカナダ航空の飛行機でニューヨークに向いました。ケネディ空港でサングラスの男が待ち構えているのを見たリサは、機内で知り合った写真家のサムに人形を渡して立ち去ります。サムのアパートに忍び込んだのはマイクとカリーノの二人組で彼らは以前から引っかけ役と警官役を演じて詐欺を働いており、サングラスの男ロートから指示されてアパートに人形を探しに来たのでした。クローゼットの中にリサの死体があるのをマイクが発見したとき、サムの妻スージーが帰って来て、部屋にいた三人の男は息を潜めますが、スージーは男たちがいるのに気づきません。スージーは数年前の事故で視力を失っていて、そのハンデを感じさせないほど部屋の中を自由に行き来できるのですが、身を隠した侵入者を発見することはできずに、また外出してしまうのでした…。
オードリー・ヘプバーンは厳選した作品にしか出演しない主義の人で1953年の『ローマの休日』から本作の直前の『いつも2人で』までの15年間でわずか15本の映画にしか出演していません(もちろんすべて主演)。というのもオードリー自ら脚本の内容や監督は誰かなどを細かくチェックしていたからで、例えば「判事に保釈はない」という企画は、アルフレッド・ヒッチコックが監督するということでオードリーも大いに乗り気だったのですが脚本の決定稿にレイプシーンが書き加えられているのを読んで、ただちに出演をキャンセルしたという話もあるくらいです。この降板事件をヒッチコックは後々までかなり根に持っていたようですが、オードリーにしてもキャリアの中で本格的サスペンス映画への出演歴がないことを気にかけていたのかもしれません。
そんなオードリーのもとにヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』を書いたフレデリック・ノットの新作が届きました。それが本作のもとになる小説だったわけですが、まもなくブロードウェイで舞台化されると知ったオードリーはすぐに映画化権を確保したいと要望を出します。というのも舞台の映画化では『マイ・フェア・レディ』のときにジュディ・アンドリュースからイライザ役を奪ったなどと言いがかりをつけられた経験があったからでした。ワーナーブラザーズは『マイ・フェア・レディ』の後のオードリー主演作を20世紀フォックスにとられていましたので、次回作はぜひ自社でやりたいという意向もあり、オードリーの要望を受け入れて舞台化される前にフレデリック・ノットから映画化権を獲得して本作が製作されることになりました。
監督のテレンス・ヤングは007シリーズでおなじみのイギリス人映画監督で、自身の監督作品でのオーディションに新人時代のオードリーが参加していたことがあり、いつかはオードリーの出演作を監督してみたいと思っていたそうです。オードリー側も『ローマの休日』のウィリアム・ワイラー以来、ビリー・ワイルダーやジョン・ヒューストン、フレッド・ジンネマンなどハリウッドの一流監督のもとで仕事をしてきただけに監督選びにも影響力をもっていて、テレンス・ヤングが前の作品の撮影期間が延びて本作に取り掛かるのが遅れそうになったとき、ワーナーが他の監督を立てようとしたのを拒否してテレンス・ヤングの身体が空くまで待つことになったんだとか。それくらい待望されれば、監督としても本望ですよね。
オードリーを追い詰める悪役はアラン・アーキンで、本作での演技は作家のスティーヴン・キングから絶賛されたそうです。リチャード・クレンナは1980年代にシルベスター・スタローンの「ランボー」シリーズで上官役を演じることなる人。また、オードリーの夫役をやったエフレム・ジンバリスト・ジュニアは『エアポート’75』ではジャンボ機の機長を演じるなど、本作同様にいい人役をふられることが多かったようですね。
【ご覧になった後で】盲目という設定を生かしたかなりコワイ映画でしたが…
いかがでしたか?オードリー演じるスージーが盲目であるという設定が本作の一番のストロングポイントになっていて、悪役たちがいるのにスージーがその存在を認識できないとか、悪役たちはスージーが盲目であることを利用して芝居を打つのに実はスージーは音や気配で悪役たちの動きをきちんと把握しているとか、通常のサスペンス映画にはない展開が非常に効果的でした。しかも巧みに伏線が張ってあって、冷蔵庫の霜を取っておいてくれとサムに頼まれたスージーが夫の指示通りに電源を落としていれば危険な目に合わなかっただろうとか、窓の灯りを遮るシャッターが備え付けてあって写真を現像する場面で部屋を暗室のように真っ暗にできることがわかるとか、脚本がフレデリック・ノットの原作通りだとすれば、ノットの小説自体かなり完成度が高かったようです。
そして何よりも盲目の女性を演じるオードリー・ヘプバーンの演技が真に迫っていましたね。本作に出演するにあたってオードリーは実際に盲学校に通ったり点字を学んだりしたんだとか。また、オードリーの細身の身体が他の作品であれば優雅なファッションを身にまとうのに最適だったのに対して、本作ではいかにもか細く頼りなく見えて、ハンデがありながら必死に最悪のシチュエーションに立ち向かおうとする健気でシリアスな姿勢を表現していました。本作では衣裳デザイナーはついておらず、オードリーはパリで買い求めた既製服を自分の衣裳に使ったんだそうです。なのでオードリー演じるスージーが顔はまさに「gorgeous」な美しさなんですが、佇まいが普通の主婦に見えて、特に後半のピンクのニットにベージュのスカートという衣裳がアラン・アーキンの殺人鬼の前では全く無力な存在であることを強調するようでした。
というわけでサスペンススリラーとしてはかなり出来のよいコワイ映画なのですが、ひとつだけどうしても気になってしまうのは、オードリーがかたくなに人形を渡すのを拒否し続けた理由がわからないという点でした。友人を装ったリチャード・クレンナのお芝居にだまされて、夫のサムに女性殺しの疑いがかけられているので、それを反証するための証拠品として必死になって人形を探すという展開だったはずです。ところがオードリーはメガネの少女グロリアの「ベルを二回鳴らす」という協力によって彼らが三人ともグルになってだまそうとしていることを見抜きます。そして、三人の中で唯一信頼を寄せていたリチャード・クレンナが帰って来て「サムのスタジオには何もなかった」ことを告げられます。このときに「人形ならここにあるから持って帰って二度と来ないで」と言って人形を渡してしまえばよかったのではないでしょうか。そこで人形を渡さなかったので、アラン・アーキンに殺されそうになってしまうのですから、なぜ人形を隠し通すのかが全く理解できませんでした。ほとんど完璧なサスペンス映画なのですが、この矛盾点にどうしてもひっかかってしまい、映画への評価も減点せざるを得ない気持ちになってしまいました。
しかしながら人形を裂いて麻薬を押し込むファーストショットから始まって、サムに抱かれるオードリーの安心した表情で終わるラストショットまで、非常に濃密な密室劇が構築されていて、テレンス・ヤング監督としても007シリーズのようなアクションだけでない手腕を発揮できたのではないでしょうか。まあ包丁で刺されたはずのアラン・アーキンがピョーンと飛び出す部屋を横からとらえたショットは、もっとアップ気味の短いショットでつないだほうがショック効果が増したと思いますけど。でも飛び出したアラン・アーキンがオードリーの足首を掴むショットには試写室から叫び声があがったと双葉十三郎先生も書いているので、ショッカー映画としてもそれなりだったのかもしれませんね。(V071822)
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