十戒(1956年)

セシル・B・デミルがサイレント時代の自作『十誡』を自らリメイクしました

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、セシル・B・デミル監督の『十戒』です。1923年製作のサイレント映画『十誡』を大ヒットさせて「史劇の巨匠」とも呼ばれていたセシル・B・デミルが七十五歳のときに自らのプロダクションによりリメイクした3時間40分に及ぶ大作で、製作費は当時の金額で1300万ドルに達しました。旧約聖書の「出エジプト記」を取り上げていることもあって世界的に大ヒットを記録し、1億2千万ドル超の興行収入はインフレ率を調整すると現在でも歴代トップテンに入るほどのメガヒット作品となるそうです。

【ご覧になる前に】旧約聖書の「創世記」に続く「出エジプト記」のお話です

エジプト王ファラオは奴隷として従属させているヘブライ人から将来の救世主が現れるという予言を聞き、ヘブライ人の赤子をすべて殺せと命じます。その噂を聞いたヨシャベルは生まれたばかりのモーゼを永らえさせるために駕籠に入れて河に流し、沐浴していたエジプト王女ベシアに拾われたモーゼは王子として育てられます。青年となったモーゼが征伐から帰還するとファラオは実子ラメセスに命じていた宮殿建設の任務をモーゼに託します。奴隷に穀倉を解放し、巨石の下敷きになりそうな女を救ったモーゼはヘブライ人たちから信頼を得ると同時にファラオの娘ネフェルテリの寵愛を受けるのですが…。

ドイツ系ユダヤ移民の母親を持つセシル・B・デミルは1914年に『スコウ・マン』で監督デビューを果たし、その製作会社は後のパラマウンド・ピクチャーズに発展することになります。1920年代に盛況を迎えたハリウッドでは「史劇の巨匠」として活躍し、1923年の『十誡』ではモーゼが紅海を割るシーンが話題を呼び大ヒットを記録。以後『キング・オブ・キングス』『暴君ネロ』『クレオパトラ』などの史劇を立て続けに監督していきます。第二次大戦後は高齢にもなり製作本数は減ったものの『サムソンとデリラ』『地上最大のショウ』など大作主義を通し続け、アカデミー作品賞にノミネートされたこの『十戒』が遺作となりました。

大戦後のセシル・B・デミルはハリウッドを席巻した「赤狩り」に積極的に加担し、ブラックリストの作成にも強く関与した人でした。全米監督協会の会長だったジョセフ・L・マンキーウィッツに反旗を翻して「映画監督は政治的傾向について知り得た情報をもらさず監督協会に報告する」という規定を設けるよう提案しました。しかしジョン・フォードがマンキーウィッツ信任の意思表示をしたことで、デミルは協会評議員の座を追われることになったんだそうです。本作公開から二年後にデミルは七十七歳でこの世を去りましたが、その偉業はゴールデングローブ賞においてエンタテインメント業界に貢献した人物に贈られる「セシル・B・デミル賞」としてその名を残しています。

本作の冒頭にはパラマウント・ピクチャーズのロゴが赤い山に変えられていて、そこに「セシル・B・デミルプロダクション」というクレジットが重なります。ハリウッドとパラマウント映画に多大な貢献をしたデミルの業績を象徴するようにも見えますが、1300万ドルという当時としては破格の製作費や14000人のエキストラや15000頭の動物が撮影現場に投入されたことはセシル・B・デミルだからこそ実現できたといっていいでしょう。もちろん旧約聖書の「出エジプト記」を題材として取り上げたことで全世界のキリスト教徒およびユダヤ教徒の動員が見込めたでしょうから、製作費の10倍に達することになる世界興行収入で莫大な利益をあげる目算があったのかもしれません。

旧約聖書の映画化ということで、多くの専門家の知見を得て製作されたようで、クレジットにも「acknowledgment for valuable cooperation is given to」として6人の歴史学者の名前が列挙されています。また美術や衣裳に関しても膨大な人数のスタッフが関与しているようで、コスチュームチームのトップにイーディス・ヘッドの名前はありますが、衣裳ひとつとっても多くのデザイナーたちが協力して当時のファッションを再現したようですね。

主演のチャールトン・ヘストンは後に「ユダヤ系でない自分がモーゼを演じるのはその当時だから実現できた」と振り返っていますが、セシル・B・デミルはミケランジェロ作のモーゼ像に一番よく似ていたのがチャールトン・ヘストンだったから起用したという話です。ファラオの娘を演じるアン・バクスターにとっては『イヴの総て』に並ぶ代表作となり、ラメセス役のユル・ブリンナーは本作に出演したことを生涯の名誉と感じていたそうで、チャールトン・ヘストンもユル・ブリンナーの演技は最高の出来だったと賞賛したんだとか。そしてモーゼの妻になるイヴォンヌ・デ・カーロはパラマウントで端役しか演じていなかったところをセシル・B・デミルによってセフォラ役に抜擢されました。

アン・バクスターの役は当初オードリー・ヘプバーンが想定されていたけど胸が平過ぎて見送られたとか、モーゼを拾うベシアにジョーン・クロフォードをあてて、その召使役にベティ・デイヴィスを起用するというアイディアもあったそうですが、当然ながら犬猿の仲の両人に断られたというエピソードも残っています。また音楽のエルマー・バーンスタインは前年に『黄金の腕』でアカデミー賞作曲賞を受賞していましたがまだ新進の頃で、本作ではじめて大作を任されることになりました。もともとはヴィクター・ヤングが音楽を担当する予定だったところ、ヤングの病気によってエルマー・バーンスタインにお鉢が回ってきました。当初は哀し気な曲を書いていたバーンスタインにセシル・B・デミルがもっと勇壮な曲作りをするように指示して、史劇にふさわしい音楽に変わったんだそうです。

【ご覧になった後で】前半はドラマの展開、後半は特殊効果が見どころでした

いかがでしたか?この映画は小学校のときにリバイバル上映されたときに70mmの大スクリーンを最前列に座って見た思い出がありまして、その当時「奴隷」という字幕が読めず意味がわからないまま3時間40分にわたって頭を反らせて見ていました。それ以来ずっと「じゅっかい」だと信じ込んでいたのですが、いろいろと調べると「じっかい」と読むのが正しいと初めて知り、旧約聖書とか「出エジプト記」のことについて無知なままで過ごしてしまった半生を振り返ることになったのでした。

しかし子供の頃に見た記憶というのは案外蘇ってくるもので、杖がヘビになるところや海が血の色に変わっていくところなどはこういうシーンあったよねと思い出しながら見ていました。もちろん紅海が割れる場面の特殊効果はこの部分だけ映画の名シーン特集などでよく取り上げられるので記憶は何度も上書きされているのですけど、久しぶりに再見してもアナログ技術だけでよくこんな迫力のある映像が作れたものだと感心してしまいました。ここは巨大なプールに貯めた水を一気に流し込んで撮影されたらしく、その水も粘着度を上げて動きに重みが出るようにされていました。特にヘブライ人たちが海の底を通り抜ける横で海水が壁になったままうねっている特殊効果などは今でもどうやって撮ったのかがわからないくらいに巧く作られていました。

それに比べるとクライマックスで十戒を刻み込む火柱の映像はちょっと安っぽい感じがしましたね。ここは明らかにアニメーションとわかりますし、1コマずつ描いているわけでもなさそうで、かつ刻まれた石板のほうも花火を仕掛けた程度にしか見えないところが大きなマイナスポイントでした。ちなみにこの場面の「神」の声は諸説あるらしいですけどチャールトン・ヘストンの声にエフェクトをかけたものということのようです。そういえばストーリーの転換点で流れるナレーションはセシル・B・デミル本人が吹き込んでいるんですよね。

モーゼの数奇な運命を描く前半部はそれなりに脚本がよく出来ているので飽きることなく見られました。特にユル・ブリンナーのラメセスは父親の愛を受けられないひねくれた兄みたいなパターンに陥らずに、モーゼへの嫉妬を感じさせない威厳を持った王子という難しい役どころをきっちり表現していたように思います。しかし後半になるとモーゼのキャラクターがいかにも芝居じみてしまって、アン・バクスターへの思いをどう断ち切ったのかとか、なぜそこまで一方的にヘブライ人の解放だけを訴えるのかとかが伝わってきませんでした。なので特殊効果で見せるしかないのですが、肝心のドラマが描けていないので見掛け倒しっぽい雰囲気になってしまったのは残念な展開でした。

またヘブライ人のモーゼがなぜ神殿に入ることができて簡単にラメセスの前に通されるのかも疑問で、エジプトの諸侯なら別でしょうけど身分的に迫害されているはずの立場なのに、アロンと二人でいつでも自由に王の前まで来てしまえるという設定に疑問を感じてしまいます。アロンも後で調べて兄だったとわかる程度で、映画を見ているときにはモーゼ付きの従僕なのかなと思っていましたから、後半部はシナリオ自体がうまく書かれていなかったような気がします。

ただしセシル・B・デミルプロダクションの力量が発揮されるのはヘブライ人たちがエジプトを脱出する場面で、数えきれないエキストラと動物が画面を埋め尽くすのを見ると当時のハリウッド映画の大作がすべてCGではなく実写で撮られていたことにあらためて驚かされます。もちろん『ベン・ハー』の戦車競走シーンなど遠景を絵で表現したり書き割りにしたりすることはあったようですが、本作のヘブライ人は全部動いてますもんね。『ベン・ハー』といえば本作でチャールトン・ヘストンの母親役を演じたマーサ・スコットは『ベン・ハー』でも再び母親役に起用されています。薄幸な感じが史劇に似合うんでしょうか。

そんな本作を底支えしているのは間違いなくエルマー・バーンスタインの音楽で、特に前半部のドラマが優れていたのはある種オペラのように常に劇伴が映像に寄り添って盛り上げていたからだと思います。音楽がドラマの手助けになるというのは1950年代くらいまでのハリウッド映画の定石ですけど、本作の場合は美術や衣裳と同じくらい音楽が重要な要素になっていて、たぶんエジプトの神殿を映像だけで見ていてもその雰囲気は観客に伝わらなかったでしょう。そこにエルマー・バーンスタインの音楽が加わることで、映像に真実味が出てエジプト的な空気感が生まれるのです。音なしで見たら腑抜けのような映画になってしまうはずなので、本作における音楽の貢献度は大なるものがあったと思います。

モーゼが神から十戒を授けられているときにヘブライの民たちは乱交パーティに身を落とし、モーゼが金で作った牛の偶像を石板で破壊するという展開になります。ここの乱交の描き方が難しかったらしく、淫靡に描き過ぎると上映できなくなりますし、かと言って適当過ぎるとモーゼの怒りが伝わりません。結果的に本作ではみんな楽しく賑やかに歌い踊っている感じになっていて、まあ楽しければいいじゃん風にも見えるので、山頂から持ち帰った大事な石板を投げつけるのがもったいないように感じられました。堕落した集団を描くというのは映像的にも演出的にも難しいものなんですね。

そんなわけで最後にひとり山へ登っていくモーゼが「これ渡しとくから」と言って後継者ヨシュアに石板を託すショットでは「あれ?石板が元に戻っているぞ」と変なところでひっかかってしまいました。「出エジプト記」でもモーゼは石板をもう一度貰っているらしいので、おかしくはないんでしょうけど、映像的なつながりがないために壮大なエンディングにちょっとケチがついてしまいましたね。(U050324)

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