アメリカ交響楽(1945年)

アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの楽曲が満載された伝記映画です

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、アーヴィング・ラパー監督の『アメリカ交響楽』です。原題の「Rhapsody in Blue」が示す通りポピュラー音楽からクラシック音楽まで20世紀のアメリカを代表する作曲家ジョージ・ガーシュウィンの伝記映画となっていて、ガーシュインが作曲した数々のスタンダードナンバーとコンサート用のクラシック音楽が次々に紹介される音楽映画でもあります。ジョージ・ガーシュウィンの友人でもあったオスカー・レヴァントが映画の中でも友人役のピアニストとして出演しています。

【ご覧になる前に】ガーシュインが亡くなって8年後に映画が作られました

ニューヨークの下町のアパートに中古ピアノが運び込まれるのを住人たちが見上げています。母親が兄のアイラにピアノを勧めますが稽古もしていないのに弾きこなしたのは弟のジョージでした。青年になったジョージはラグタイムショーの演奏や音楽出版社の伴奏家などを勤めますがどれも長続きしません。職を得ようと音楽プロデューサーのマックスのところで自分で作曲した「スワニー」を披露すると、マックスは電話越しに芸人のアル・ジョルソンにそれを聴かせて、ガーシュインを採用することにしました。ガーシュインのショーは次第に客を集めるようになり、ガーシュインはバックダンサーのジュリーと再会するのでしたが…。

ジョージ・ガーシュウィンは1898年にニューヨークのブルックリンで東欧系ユダヤ移民の子として生まれました。二十一歳のときに書いた「スワニー」がアル・ジョルソンの歌で大ヒットして、作詞家となった兄のアイラとのコンビで1920年代のアメリカポピュラー音楽界の寵児となります。同時にクラシック音楽の作曲にも活動範囲を広めて1924年に「ラプソディ・イン・ブルー」を発表。ジャズとクラシックを融合させたシンフォニック・ジャズの名曲としてアメリカの現代音楽の代表作ともなりました。しかし三十代になるとしばしばてんかんの発作に襲われるようになり、膠芽腫のため三十八歳でその短い生涯を閉じたのでした。

夭折した作曲家の半生をソニア・レヴィーンが小説にして、それをハワード・コッホとエリオット・ボウルという人が共同で脚色したのですが、第二次大戦が始まってアメリカでも戦意高揚映画が主流となり、本作はなかなか製作に着手できなかったそうです。それでも後に『ガラスの動物園』や『黒い牡牛』を監督することになるアーヴィング・ラパーの演出によって大戦が終わる1945年に完成。ジョージ・ガーシュウィンの死から8年が経過していました。

主演はタイロン・パワーやケーリー・グラントが候補に挙がったそうですが、召集や慰問があって実現しなかったようです。結果的に新人のロバート・アルダがガーシュイン役に抜擢され、ヒロインにはジョーン・レスリーが起用されましたが、主演の二人は本作以外にはそんなに有名な作品は残していないようです。音楽プロデューサー役のチャールズ・コバーンは1943年にアカデミー賞助演男優賞受賞経歴のある俳優さんで、ヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』に脇役で出演していますね。

本作がきっかけとなって、ハリウッドでは音楽家の伝記映画が流行して、1946年にはコール・ポーターを描いた『夜も昼も』、ジェローム・カーンの伝記映画『雲流るるはてに』、1948年にはロジャーズ&ハートのコンビを取り上げた『ワーズ&ミュージック』が作られることになります。1950年代にも『グレン・ミラー物語』『ベニー・グッドマン物語』『愛情物語』(エディ・デューチン)などが公開されましたので、本作はそうした伝記映画ものの嚆矢となったわけです。いずれもアメリカのポピュラー音楽史になくてはならない人たちですが、中でも一番最初にジョージ・ガーシュウィンが映画になったのは、その功績とあまりに早い死を悼んでのことだったのでしょう。

【ご覧になった後で】ガーシュインの音楽が堪能できる点だけが取り柄でした

いかがでしたか?「スワニー」から始まって「サムバディ・ラヴズ・ミー」などのジャズのスタンダードナンバーと「ラプソディ・イン・ブルー」の全曲演奏などクラシックナンバーが十分に堪能できるのが取り柄の映画でしたね。逆に言えば、それ以外はほとんど見どころがないとも言えるわけで、成就しない恋愛のゴタゴタや音楽教師の死やパリ外遊などのエピソードが羅列されるだけで特にこれといったドラマがあるわけでもない凡作レベルの映画でした。それなのに上映時間がなんと2時間20分もあるというのはどういうことなんでしょうか。確かに「ラプソディ・イン・ブルー」をフル演奏すると16分くらいかかってしまいますから、その分が長くなったのかもしれませんが、音楽をじっくり聴かせるのならその分ドラマ部分をもっと短くしてほしいと思ってしまうくらいタルい展開でしたね。

アーヴィング・ラパーの演出もセオリー通りの凡庸さで別に他の誰に監督をやらせてもよかったんじゃないかというくらい見どころがありませんでした。しかしそんな中でも「ラプソディ・イン・ブルー」の演奏シーンだけは別物で、音楽を映像で見せていくいろんな手法を取り入れていて、実に野心的で実験的なコンサートシーンになっていましたね。斜めの構図を使ったり壁に映る影を強調したり照明をスポットライトで工夫したりと、アーヴィング・ラパーもここだけやりたかったんじゃないのかというくらいに力が入っていました。そしてもうひとつは最後のオスカー・レヴァントのピアノ演奏の場面。真上からレヴァントの運指をとらえたショットはキャメラがそのまま空高く引っ張り上げられるように上昇してオーケストラ全体からステージ全体へと視界が広がり、最後には森の中で光に浮かぶ野外劇場全体をとらえます。このワンショットは途中で特殊撮影に遷移しているはずですが、そのつなぎを全く感じさせない実にスムーズな中空ドリーバック映像になっていました。

本作は日本では昭和22年3月に公開されていますが、占領下においてはアメリカ映画の上映はすべてGHQの外郭団体だったセントラル映画社が仕切っていました。セントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジは昭和21年2月に設立され、同月に戦後初めてアメリカ映画が日本の映画館で上映されることになったのです。最初の公開作は『キュリー夫人』と『春の序曲』の二本。以降、セントラル映画社はハリウッドのビッグファイヴ(MGM・パラマウント・ワーナーブラザーズ・20世紀フォックス・RKO)とリトルスリー(ユニバーサル・ユナイテッドアーチスツ・コロムビア)にリパブリック映画を加えた9社が作った映画の日本における配給権を独占して、GHQの指導の下で戦時中日本で公開できなかったアメリカ映画を次々に上映していきました。

戦争で多くの映画館が焼けてしまったとはいえ、日本では映画会社別のブロックブッキング体制が確立されていたので、セントラル映画社はまず戦時統制で映画製作機能を失った日活系映画館を自社の配給網に取り込むことに成功しました。そして大都市ごとにロードショー専門館を確保して、通常は1~2週間ごとに番組が変わる映画館とは別にヒットすれば数週間連続して同じ映画を上映し続けるロードショー公開という手法を導入しました。本作はそのセントラル映画社の第一回ロードショー作品で、丸の内スバル座では公開前にGHQ幹部のほかに皇室や政治家、官僚、知識人たちを招待した「ギャラ・プレミア」を開催して、その様子は新聞や雑誌などで大々的に取り上げられたそうです。そして10週連続のロードショー公開を打ち抜き、地方の優秀劇場と呼ばれる比較的マシな映画館で上映が継続されました。

というのも本作が「アメリカの文化」を占領下にあった日本国民に浸透させるに最適な作品であるとセントラル映画社が判断したからで、GHQは民主主義とは何かを広く宣伝する必要があり、その有効な媒体としてアメリカ映画を最大活用しようとしたからでした。確かに音楽家という職業を自分の意思で選択し、自らチャンスを掴み、ダンサーや画家として活躍する女性との恋愛を経験するジョージ・ガーシュウィンはアメリカ文化そのものを代表しているわけですから、本作ほどGHQの方針に合致した映画はほかにはなかったんでしょう。地方の劇場ではターザン映画や西部劇のようなB級作品のほうが受けが良かったらしいので、セントラル映画社としては都市部の知識層にこそアメリカ文化を擦りこませようと躍起になったのでした。

その結果、戦時下には戦意高揚映画を擁護していた津村秀夫や飯島正、中野五郎などの「知識人」たちは、GHQの意図した通りにセントラル映画社が配給するアメリカ映画を賞賛して、復興しつつあった日本映画を「二十年遅れた手工業」とか「無声映画的な名残りがこびりついている」と批判したのでした。まあ転向もここまでくると見事なもんだなと感心してしまいますが、そんな「知識人」とは一線を画したのがセントラル映画社に誘われてレクチャー部に入社した淀川長治さんでした。淀川さんはいち早くセントラル映画社の国策臭を感じ取り、アメリカの貧農を描いたジョン・フォード監督の『タバコ・ロード』は日本国民に見せる必要はないと輸入許可を出さなかったり映画雑誌の原稿料をもらっていた淀川氏を不正収入だと怒ったりしたセントラル映画社のメイヤー社長に辞表を叩きつけて、サッサと辞めてしまったのだとか。やっぱり映画好きの人は権力に何と言われようと自分の映画の見方を変えたりしないんですね。(U070523)

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