港の日本娘(昭和8年)

清水宏監督のサイレント映画で男女の三角関係をモダンな作風で描いています

こんにちは。大船シネマ館主よのきちです。今日の映画は、清水宏監督の『港の日本娘』です。昭和8年に松竹蒲田撮影所で製作されたサイレント映画で、清水宏が監督しています。清水宏は昭和初期のモダニズムを体現した監督でしたから、本作も主人公がヘンリーでその妻がドラという役名になっているなど、横浜を舞台にして日本らしくない洋風の装いの作品になっています。着物姿の女性が男女の三角関係の頂点となるように配しているので、タイトルに「日本娘」とつけたのかもしれません。

【ご覧になる前に】昭和初期の横浜の風景が記録されているのが貴重です

女学校に通う砂子とドラは同級生でいつも一緒に登下校する仲です。その二人の共通の男友達であるヘンリーは砂子を連れてバイクでドライブに出かけるのですが、その一方では悪い仲間とつるみながら燿子という女性とも付き合っている様子。嫉妬心にかられた砂子はあるときヘンリーを追いかけ、教会で燿子と密会しているのを見つけてしまったのですが…。

本作が製作された昭和8年は、世界が第二次大戦に向けて不穏な動きに巻き込まれていくきっかけとなった年でした。ドイツでは選挙によってナチスが第一党に選ばれ、ヒットラーが首相となる一方で、アメリカでは大統領選挙を勝ち抜いたフランクリン・D・ルーズベルトが第32代合衆国大統領に就任しました。日本は満州国からの撤退勧告をよしとせず国際連盟を脱退し、世界の動きから孤立を深めていってしまいます。そして日本映画界としては、昭和6年に『マダムと女房』が日本初のトーキーとして公開されて、サイレント映画が徐々に時代遅れになっていく時期。明治期から活躍した活動弁士たちが、その仕事場を追われ始めて、音をもった映画は一気にその表現力を加速していくことになるのでした。

清水宏は同じ昭和8年に撮った『大学の若旦那』ではパートトーキーを採用していますので、この『港の日本娘』は清水宏監督としても、ほぼ最後のサイレント映画だったのかもしれません。その分、映像としての組み立て方はまさにサイレント映画的手法の集大成のようになっていて、それも見どころのひとつといえるでしょう。また、舞台が横浜という設定なので、横浜港や港の見える丘公など園が随所に取り上げられています。現在とは随分と違っていて、遮る建物も少なく、丘から港までの抜けるような風景が昭和初期を感じさせます。

主演の江川宇礼雄は、本名はウィリー・メラーといってドイツ人の父親と日本人の母親をもつ俳優です。本作の前後には小津安二郎の『青春の夢いまいづこ』や『東京の女』に主演していて、その日本人離れしたルックスが小津や清水宏のモダニズムに合致していたのか、重用されていたようです。のちにTVドラマの「ウルトラQ」で一の谷博士を演じることになるんですが、この人だとは知りませんでした。相手役は及川直子という女優で、舞台で活躍していたあとで映画界入りしたそうです。しかし当時としては死の病であった結核を患い、まだ二十六歳の若さで夭折してしまいました。

【ご覧になった後で】サイレント期の映像表現が完成の域に達していました

日本でも昭和10年を超えるとトーキー作品が多く作られるようになり、本作の5年後にはサイレント映画は全体の三分の一くらいに減っていたそうです。その観点から見れば、本作はサイレント末期の一本といえるでしょうし、サイレント映画の作り方における完成形を示した作品だったのではないでしょうか。

清水宏はトーキーに移行した後は『有りがたうさん』などで見られるロケーション撮影による移動ショットを多用して、臨場感溢れる映像づくりに邁進していくのですが、本作ではサイレント映画としてのテクニックを全編に散りばめたような作り方をしています。まずはやや引き気味のロングショット。サイレント映画ではステージを客席から眺めるような、登場人物すべてをとらえるショットが基本でしたので、開巻まもなく坂の上の女学校生徒をとらえたショットなどはその典型でした。次に移動ショット。外人墓地の上あたりの道を歩く砂子とドラを斜め後ろから歩行速度に合わせてドリーの移動で撮っているショットはいくつか出てきますが、その中のひとつはキャメラが途中で移動をやめて、二人をフレームアウトさせ、結果的に港を映すスティルショットに変わるという技を使っています。そして影の効果。教会の場面で扉に窓からの月明りがあたっている映像なんかを見ると、ドイツ表現主義をきっちりとなぞっているようで、サイレント映画史の痕跡をとどめておこうとしているかのようです。さらに驚いたのは、教会の中で砂子が登場するところ。なんとジャンプショットで、教会の入り口をとらえたロングから砂子のクローズアップまで四段階くらいでショットをつないでいくんですね。こういうのを見ると、まだズームレンズなどが開発されていなかったときに、ズームアップ表現の代わりにジャンプショットが使われていたんだなーと、キャメラの技術的制約において監督がいかに映像表現にこだわっていたかが伝わってくるようでした。そのほかにも格子越しに人物をとらえて奥行きを出すとか、人物が立ち去るときに背景はそのままであえて人物だけをフェードアウトさせるとか、サイレント期に生み出された映像術の集大成を見ているかのようでした。

さて、映像演出だけの話になってもいけないので、お話のほうにも触れておきますと、仲の良い二人の女性が一人の男性を愛してしまったために、互いに憎み合うようになり、でも結果的には和解し、主人公の女性が旅立っていくという恋愛三角関係ものの基本パターンのようなシナリオになっていました。こういうときはやっぱり女優のほうが有利なわけで、日本娘となったを及川直子がいじらしくも力強く演じていて非常に印象に残ります。逆に損な役回りになるのが男優で、結局どっちつかずに女心を弄ぶようにしていた男が悪いということになるので、江川宇礼雄くらいの美男でなければ務まらなかったと思います。

ちなみに横浜の港の見える丘公園や外人墓地あたりにある学校といえば、横浜雙葉中学・高校です。横浜雙葉は明治33年に横浜紅蘭女学校として開校したのがその始まりだそうですので、昭和初期に撮られた本作製作時には、まだ紅蘭女学校の名称だったようです。制服まではわかりませんけれども、横浜の中では身分の高いお嬢様学校だったのではないでしょうか。なので余計に砂子が着物姿の娼婦になる展開が、リアルな哀しさとして観客に伝わったのだと思われます。(A022122)

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